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「薔薇物語(下)」 ギヨーム・ド・ロリス、ジャン・ド・マン

篠田勝英 訳  ちくま文庫  筑摩書房

「歓待」のアレゴリー性喪失と、「悦楽の園」の境界の崩れ

下巻最初は「老婆」の忠告。この「老婆」は前にも述べた通り、「友」とともにアレゴリーではない「生身」の人間。「老婆」は城の塔に閉じ込められた「歓待」に忠告をする、という箇所。

 たとえ純金千マルクと引き換えでも別の恋人を持ったりしないと、ひとりひとりに信じ込ませることができれば、〈歓待〉は欲しいものすべてを連中から引き出せるんだよ。
(p38)

この物語全体が恋愛のアレゴリーになっているわけだが、女性の志向のアレゴリーである「歓待」と、この部分では「愛想良くすることで欲しいものすべてを…」と、普通の会話にもなっている。「歓待」の擬人化が消えかかっていると、訳者篠田氏は指摘。

あとは、本来の語り手である「ギヨーム・ド・ロリス」「わたし」が忘れかけないようにと、ぽつぽつ登場する。

 愛をただ一箇所に留めておく女は、心を自由に解き放つどころか、ひどく隷属させてしまうことになるのさ。ただひとりの男を恋することにしか心を砕かない女は、心痛や苦悩をしこたま抱え込んで当然というもの。
(p41)

自分の美しかった若い頃を思い出しながら「歓待」に忠告する「老婆」の忠告とはこういったもの。物語の筋的にはこういった忠告に耳を貸さずに先に進むのだろうけど、実際の世の中ではこっちの方が妥当かも。

前編では「悦楽の園」の外部と内部がくっきり分かれていたのだが、後編ではその枠を取り払って、「見せかけ」とか「富」とか「貧困」とかが飛び交う展開。ここにも、前編と後編の作者の好みの違いが見て取れる(実際に違う作者かどうかはまた別問題)。
(2020 11/15)

老婆が生身である理由

 〈自然〉は、すべての女をすべての男のために、すべての男をすべての女のために、という具合にわたしたちを作ったのさ。女は誰でもあらゆる男のものだし、男はみんなすべての女のものなんだ。
 女は自由をできるかぎり自分のものにしておこうとする。
(p70)

〈自然〉は、いろんな意味があるのだけれど、ここでは主に〈本性〉とかいう意味で使っていることが多い。次のp72の籠の中の小鳥の話も参照。

…と、散々「老婆」は「歓待」にいろんな教えあるいは説教を話す。ところが実際にはいろんな人の贈り物を、本命?の男に全て与えていたのだけれど、その男には逃げられ、自分は貧乏になるという…「老婆」はたぶん、「歓待」が自分のいうことを守らないで「蕾」に直行する、ということを予測しているのだろう。「友」もそうだけど、忠告のための自分の身を切るような失敗談を語るには、生身性が重要な要素になる、と。
(2020 11/17)

物語とその破れ方

「攻撃開始」…「老婆」が鍵を開けてくれた扉から城内に入り、「歓待」と再会、やっと蕾を摘めるのかと思った矢先…

 ところがそうはいかなかった。頭に血がのぼった者の考えたことがすべて実現するはずがない。
(p106)

注があって、そこには中世の諺にほぼ同じ表現がある。のだけれど、それより(笑)ここで「頭に血がのぼった」のは誰? もちろん語り手なんだろうけど(少なくとも医学的には)、では「すべて実現するはずがない」なんてとりすましてるのは誰?
主人公(「わたし」)と語り手の微妙なズレというのが、この「薔薇物語」の隠れた読みどころの一つなんだけど、ここはまた読むという行為の夢を不意に覚ますようで面白い(覚めない人もいるだろうけど(笑))。

夢といえばこの作品最後は語り手が夢から覚めて終わるのだけど、このp106を尊重する限り、蕾は永遠に摘めないということにならないか? 頭に血がのぼったら、また横ヤリが入るか、夢から覚めるか。結末が楽しみになってきた…

(あまりに気になったので最後のページを見てみたら、曖昧ではあるのだけれど、無事?夢内で蕾を摘めたみたい。少なくとも、素直に読むとそうなる)

 暇人は誰でも愛想よくされたと思ったら、すぐ薔薇を摘もうとする。
(p114)

「拒絶」の言葉…
と、ここから、「愛」の群勢と守備隊との壮絶バトルが繰り広げられる。基本一騎討ちだと事前に聞いていたけど、結構グダグダ?(この表現だとなんだけど、敵味方入り乱れての壮絶な戦い、ここら辺、そんなに面白くないかなとも思っていたけど、案外引き込まれる)

さてさて、そんなこんなの戦いのうち、どうやら「愛」側の方が劣勢になってきたらしい。そこで「愛」は母「ウェヌス」に使いを遣り、援軍を求める(ここも前編を踏んでいる)。そして相手方と12日間休戦協定を結んだ。ここで読者も「ウェヌス」とアドニスの牧歌的世界に場面転換して一息つける。でも「ウェヌス」の言葉の中に馴鹿(トナカイ)が出てきたり、油断はならない(笑)。

場面転換場面(笑)が終わって、「ウェヌス」は出陣する。戦いの相手がいきなり「純潔」になっているのにも違和感あるが、戦場着いてみたら「愛」自ら休戦協定を破って戦っているのには驚く。

 彼は先を急ぐあまり、期間満了より先に休戦を破っていた。誓言をもってした協定を、守ったことがないのである。
(p141)

「愛」の神、酷すぎる…

 わたしの遊戯が行われなくなってしまったら、わたしの持つ値打ちのあるものは失われてしまうのですから。
(p143)

息子の「愛」と話す「ウェヌス」の言葉。「ウェヌス」はセックスそのものだから、それと対峙する「純潔」が敵なのね。この時代には「純潔」を重んじる、というか強いる風潮があったのかも。

これで「攻撃開始」の章は終わり。
さて、戦いの結末は如何に?

…と言いたいところだけど、次の章は「「自然」の告解」。中世自然観が、物語の筋とは関係なく、とくと(それも一番長く)語られる。
(2020 11/20)

「自然」の告解

p158-159で「自然」に対して、自分の「技芸」が及ばないと嘆いている「わたし」っていったい誰? 語り手?マン?それとも…

このあと「自然」の贖罪司祭として「ゲニウス」というのが出てくるけど、ここにまた突然にというか唐突に、反女性的語りが続く。そういう思想を常に考え通していた、というよりも常識以前の無意識的語りで、何かの拍子に脈略もなく出てきてしまうような、そういうものではないだろうか。
(2020/11/24)

 この地上で蓋然的に生じる事柄について、すべてが神の眼から見れば必然的に起こっているのであって、それ以外の起こり方はありえないと言います。
(p202)

全知全能の神から見た必然性と、人間の自由意思による偶然性。それを両立できるか、という論題。この文の回答は、マンの考え方そのものではないかとも言われている。
(2020 11/26)

人間の本性と魂

 言うまでもなく、自己を認識するときにのみ、他のものにまさるが、自己を知ることをやめれば、動物の下へ落される、というのが人間の自然(本性)の条件です。それと言うのも、他の動物にあっては、自己を知らないことは自然(本性)であるが、人間にあってはそれは欠陥から生ずるからです。
(p217)

これはマンの引用元のボエティウス「哲学の慰め」からだけど、そこからの話が本文p216辺りで展開されている。動物が自己を知らないというのは「人間の認識のようには」という補足が今では必要だろうけど。

原始時代から中世(この時代)くらいまでは、「動物の下に落される」ぐらいで終わっていたけど、現代においては、その欠陥が科学技術と社会の合理化と結びつくことによって、「動物もろとも地球を滅亡させる」と書き換えなければならないだろう。しかもその欠陥は、国家やメディアなどが自己の認識を代替するものを送り続けることによって、歯止めがかからなくなってきている。

p237の「アボンド夫人」云々というところは、「自然」はデタラメだと評するが、魔法使いの表象として、ギンズブルグ「闇の歴史-サバトの解読」などにおいて研究されている、ところ。

 魂は(身体の…引用者注)出口より入口をよく知っています。
(p239)

なぜか?答えは「魂は肉体と結びついている時より、離れている時の方が聡明だから、というもの。さてこれが問いとどう繋がるのかは、頭の体操でやってみて(笑)
(2020 11/29)

中心が複数存在し、円周のない球体

自然の告解ラスト。「動物、植物、元素は自分の定めた掟に従っているのに、人間だけはそれに逆らうことを辞めない」、という。

 神は自身の現存において、永遠のある瞬間に三重の時間性を見ておられるのですから。
(p262)

「ある」、「あった」、「あるだろう」。ここでマンが引いているのはプラトンの「ティマイオス」。マンはカルキディウスのラテン語訳と注解で読んでいる。

 つまりわれわれは、そうした有があったとも、あるとも、あるだろうとも言っているのですが、正しい言い方では、ただ「ある」だけがそれに該当するのでして、「あった」と「あるだろう」とは、時間の中を進行する生成について言われるのがふさわしいのです
(p263 プラトン「ティマイオス」より)
 その球体は果てが無く、中心がいたるところにあって、円周はどこにもありません。
(p264)

受胎告知の聖母についての記述だけど、この表現は中世通してよく出てくるもの。時代は下って、ラブレーやパスカルの作品にも使われている。
(2020 12/03)

〈ゲニウス〉の説教

 けれども、死すべき運命にある種を存続させる尖筆で、美しくも貴重な蠟板に書こうとしない者たちがいます。その貴重な蠟板は使わずにほうっておくためではなく、わたしたち全員が男も女も生きている以上、すべての者が書記となって書くために〈自然〉が貸し与えたものなのです。
(p284)

その他には槌と鉄床とか、犂と休耕地とか…そうか、自然の告解はこのようにつながっていたのか、と思うけど、なかなかに下ネタ的展開。
自然の創意を無下にして、「純潔」なる不自然なものを勧めるとは、という意見とまた反論からなる論争が、この頃続いていたという。
(2020 12/04)

〈ゲニウス〉の説教から蝋燭の炎が一面燃え盛り

p293には「薔薇物語」という単語自体が出てくるのだけど、ここではもう書かれたことになっている?

 神が〈自然〉を支配し、指導します。他の規則はありません。彼女の知るすべてのことは、小間使いにした時に神が教えたことばかりなのです。
(p294)

この辺って、近代自然科学的態度を容認しているようにも聞こえるけど、どうだろうか。

 実に美しく、笑うように輝き、絶えず続いているこの昼は時間の尺度の埒外にあるのです。未来も過去もありません。というのもわたしが事実を正しく感じ取っているとすれば、三つの時がそこではすべて現在であり、この現在が昼間を秩序づけているのです。
(p298)
 実際さまざまな不幸が、人々に感じさせる不安を通じて、精神を昂揚させるのです。
(p305)

ユピテルによって、楽園の時代から技術と所有と争いの「堕落」した世の中になった、と述べているように見える全体の流れの中で、この文はなんだろう?

 あの恋する男がカロールの輪を眺め、〈悦楽〉とその仲間がダンスの輪を作っていた庭園と、いまお話ししている完璧なまでに美しい庭園を比較するときに、真実と虚構の間の相違に匹敵するものがあることを指摘しなければ、大きな過ちを犯すことになるでしょう。
(p308)

? これまでの〈悦楽の園〉って虚構なの? マンはもちろん真実というのはキリスト教三位一体に溢れた「完璧なまでに美しい庭園」の方だろうから。でも、だとすると、今までの物語はどうなってしまうのか。以下、〈悦楽の園〉の偽善?が「真実の庭園」との比較によって語られていく。

p309-310では地球-天体全体が〈悦楽の園〉の外側に描かれている。外側とは前篇では〈悦楽の園〉から締め出された悪徳とか不幸とかそういったものが描かれていたはず。では〈悦楽の園〉とは結局何なのか? マンにとって前篇とは何なのか書き換える題材としてでしかないのか。

 その場にやってくる者は、このみごとな庭園から締め出されたこれらすべてのものがまるで現実に作られたかのように正確に描かれているのを見ることでしょう。(p310)

ここでは現実世界(今普通に生活している)が虚構なのだというp308の主張を繰り返しているようにも見えて、なんだかその「つくりものの世界」を賛美しているようにも見える。いろいろ付け加えているからだろうけど、マンの視点がさまざまにぶれている気がするのだけれど、それは「視点」とか「主張」とかいうものや、そもそも文学作品の構成とかいう概念が、近代社会の産物で、中世はとにかく情報を詰め込む「積分」の理念(いい言葉が浮かばない)だったのではないか。

とにかく、「〈ゲニウス〉の説教」をこれで読み終えた。あとは「総攻撃」あるのみ! だよね?
(2020 12/06)

薔薇の蕾までの長い遍歴

総攻撃の章、さすがジャン・ド・マンで、一気に総攻撃とはいかず、ピグマリオンが最後の脱線であると訳者篠田氏に言われつつも、年取った女との愛とか出てくるし、そこでp354から356にわたる(原著の)長い文が披露される。ラストは上がりなんだけど、巡礼と蕾摘みの二本立て。蕾だけでなく、なぜ巡礼の比喩が出てくるのか謎だけど、これは前の「〈ゲニウス〉の説教」のキリスト教の庭園と同じ機能なのだろう。その割にここ結構ベタな下ネタ風で、中世ならぬ中学生(笑)。

それはともかく…

 悪を試みたことのない者は、善についても決して多くを知ることはないのだ。
 つまり一方が常に他方の説明になっているわけだ。一方を定義しようとするなら、必ずもう一方を思い出さなければならない。
(p358)

で、解説から引用2箇所。

 意識的に抽象名詞を主語にしていくうちに、その名詞が立ち上がり、歩き出し、肉体を備え、衣装をまとうようになる。
(p391)

ヨーロッパ系言語では、抽象名詞が主語になることが多い。それが、こうしたアレゴリーの擬人化につながったのではないか、という。
(今思ったのだけれど、鉄道路線や化学元素を擬人化したような漫画が多い昨今は案外「薔薇物語」受容されやすいのかも、もしくは世相似てる?)

 すなわち研究者の興味を引く問題が、逆に読者を遠ざけるようになってきたということになる。研究者の関心と読者の興味の乖離、ひとつの作品にとってこれほど不幸なことはない。そのような溝を埋めるためには、まず何よりも文学史的偏見を抜きにして作品に触れることが望まれるだろう。
(p427)

「薔薇物語」受容史

14世紀には主に女性蔑視発言で、批判派擁護派の(世界で初めての?文学論争が起きた)、それとともに、注に頻出したヴィヨンを始めとする多くの人々が「薔薇物語」に言及した(ただ訳者篠田氏は、そこにラブレーの名前がないことを訝しむ)。またイタリア(ダンテも訳した?)やイングランド(これは間違いなくチョーサー)などでも翻訳されている。

が、16、17世紀にはほぼ言及は無くなる。これは「薔薇物語」だけではなく、中世文学全体が顧みられなくなった時代でもある。18世紀から、ルソーやユゴーなど引用が見られるようになり、19世紀特に中頃からは研究対象としても取り上げられるようになった。
(2020 12/07)

補足
「ラブレーとルネサンス」マドレーヌ・ラザール(文庫クセジュ 白水社)から。

 カトリックと改革派という二つの宗教ということなのだろうか。否、むしろ多くの宗教があったのであるとというのも宗教は二つだけではなかったのであり、統制のとれたプロテスタンティズムと信仰を純化したカトリシズムを対立させるだけでは、この基本的な世紀の豊かさは決して説明できないからである。
(p125 フェーブルの言葉)

ラブレーはエラスムスと同じように福音派。
ラブレー自身が自覚していたかはわからない(出版元は明らかに連続性を意識していた)が、ラブレーの作品が「薔薇物語」のジャン・ド・マンの後継という認識があった(自由意志、生と歓喜への愛など)。そいえば、「薔薇物語」の最後の方には、テレームに近い何かの園みたいなのもあったなあ。
(ラブレーと「薔薇物語」は突き詰めるべき面白いテーマかも)
(2021 12/17)

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