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「天使エスメラルダ 9つの物語」 ドン・デリーロ

柴田元幸・上岡伸雄・都甲幸治・高吉一郎 訳  新潮社



天地創造(1979)-上岡伸雄訳
第三次世界大戦における人間的瞬間(1983)-柴田元幸訳

ランナー(1988)-柴田元幸訳
象牙のアクロバット(1988)-上岡伸雄訳
天使エスメラルダ(1994)-上岡伸雄・高吉一郎訳

バーダー=マインホフ(2002)-都甲幸治訳
ドストエフスキーの深夜(2009)-都甲幸治訳
槌と鎌(2010)-都甲幸治訳
痩骨の人(2011)-柴田元幸訳
訳者あとがき(都甲幸治)

「ドストエフスキーの深夜」

 相手が貨車の数を数えているだろうと分かっていた。自分が得た数を僕が言うと、彼は何とも反応しなかった。それがどういうことかは分かった。彼も同じ数だったのだ。こんなこと起こるはずはない-僕らは不安になり、世界は平板になった
(p165)


普通は同じ数なら安心するだろうけど、この二人にとっては逆だったらしい。
僕と彼、この二人が大学のある小さな北の町で冬を過ごしている。彼らは大学生。イルガウスカスという論理学の先生?のばらばらに解き放たれるような言葉を聞く。交換可能性とか、人間は元来「混沌と霧」しかなく、それを否定するために論理を発明したとか、そういう言葉が出る。それと並行するように、外でたまに出会う老人の男の人生を、この二人は作っていく。最後に彼は老人に話すと言い出し、僕はそれを止めようとして取っ組み合いまでする…彼は老人を追いかける、そこで小説が終わる。
僕と彼が言い合った貨車の数は87両だった、と最後の方のページで明かされる(p194)。

 図書館で、僕は一度坐るたびに、ぎっしり詰まった小さな活字を百ページくらいむさぼり読んだ。建物を出るときには本をテーブルの上に置いたままにした。読むのを止めたページで開きっぱなしで。次の日に戻ると本はまだそこにあって、同じページで開いていた。
 どうしてこんなことが不思議に思えるんだろう? どうして僕はときおりベッドに入って、眠りこむ少し前に、空っぽの部屋にまだある、僕が読むのを止めたところで開いたままの本のことを考えてるんだろう?
(p184)


この作品の中で明滅する、交換可能性。ひょっとしたら、戻ってきた時のページは同じでも、「僕」が夜中にそのドストエフスキーの本のことを考えている時には、ページの中で、活字がランダムに動き回っているのかもしれない…自分はそう思うことがよくある、「僕」もきっとそうだろう。

前に読んだ「オメガ・ポイント」でデリーロの考えの特徴をある程度掴んでいたけど、そうでなければ、とりとめのない話とだけしか思えなかったかもしれない。
(ここまで、解説(各作品に要約がある)を故意に読んでいない…これから…)
(2022 03/06)

「第三次世界大戦における人間的瞬間」


核戦争らしきものを始めた地球。それを周回する宇宙船にヴォルマーと語り手がいて、何らかの任務につきながらいろいろ対峙する、という話。その筋としては、グラスの「女ねずみ」が近いが、なんか全体の印象として、ブロツキーの「大理石」を思い出した…出してない、「大理石」がどんな話だったかは難しすぎて全く覚えていないのだが、どこか記憶の突起に引っかかってきたのだろう。ちょうどこの作品内で何故か聴こえる昔のラジオ放送のように、そして覚えていないどころか聴いたことがないヴォルマーが「昔聴いた」と言い張るように。
引用はとりあえず対話一箇所。お題は「日曜日にはいまだに気が滅入る」のはなぜか。

 「日曜のまだるっこしさ。陽の光もどこか違う。暖まった芝生の香り。教会の礼拝。よそ行きを着て訪ねてくる親戚。一日が永遠に続くみたいな感じ」
 「俺も日曜は嫌いだったな」
 「のろいんだけど、のんびりのろいんじゃないんだ。長くて暑い。じゃなけりゃ長くて寒い。夏になるとおばあちゃんがレモネードを作った。何もかもが決まってた。前もって一日の手順が出来上がっていて、まずめったに変わらない。
(p41-42 台詞は続いている)

日曜日って自分も含め、普通の子供は待ち望むものではないのか。アメリカは家族どうしの付き合いとかが盛んだからそこに溶け込めないと大変なのかも。
でも、ここに挙げられている「まだるっこしさ」そのものが、作品中クローズアップされる「人間的瞬間」の例の一つであることは確かだろう。
(2022 03/11)

「槌と鎌」


インサイダー取引とかいろいろの経済的犯罪の罪人が集まる刑務所、という設定。刑務所だけど、塀とか有刺鉄線とかはない。

 ノーマンは壁を恋しがっていたが、ここにいて不幸なわけでもなかった。彼は言った。引き離されて、自由の身となって、遠ざかることができて嬉しい。膨れ上がった他人の欲求や要望から自由になれた。だがそれよりも重要なのは、自分の衝動、強欲、蓄積し拡張し自分を築き上げたい、ホテルのチェーンを買って名を上げたいという、生涯続いた心中の命令から解放されたことだ。
(p205)


ノーマンの「壁」とは、収集していた美術品が架かった壁のこと。刑務所に入ることが「自由の身になる」というのは、逆説的ではある。

 私は姿の消し方を学んでいる最中だった。自然な状態で一日一日、また幻影に近づいていくのが私には合っていた。
(p214)


…私にも、合っていた…

 「私は自分を定義づけているところでした。父にそう言われました。自分を定義づけなきゃならないやつは辞書の中にでもいろって」
(p226)


この刑務所にいる語り手「私」が、自分を定義づけから外したい、と思っていることは、p214の文章からも、作品最後の陸橋から下の道を通る車の列を見るシーンからもわかる。
ところで、作品中に度々挿入される、女の子二人による妙な掛け合いの経済ニュース。ドバイ(経済危機とかあったっけ?)やギリシャの話題から、突然(タイトルの)「槌と鎌」とか「スターリンフルシチョフ…」とか唱え出す。もっとわからないのは、この二人の女の子は語り手の娘で、台本書いてるらしい母親(離婚している)が彼にメッセージを送っているという。

「槌と鎌」というのはソ連とかのイメージであるし、デリーロには「毛」という作品もあるし、作者が思想状況のどの辺りに位置するかは、著作を少し読んだだけとかウイキペディアで調べたくらいではわからないだろう。まあ、アメリカ資本主義にどっぷり無自覚に浸っているのはまずいだろうという自覚は、最小限あるとは思うが。

補足
1、p226の文章のあとに出てくる、ダルマチアイチジクのジャム(弁護人がこっそり持ってくる)を塗ったクラッカー…というのは、久しぶりに食べてみたい作品登場料理?だな。
2、これまで読んだところでは、ドン・デリーロの作品、常に対話形式となっている。「ポイント・オメガ」でも、この作品集のドストエフスキーの青年二人組、「第三次世界大戦」のヴォルマーと語り手、そしてこの作品は、語り手がノーマンとの対話。こうして自分の位置を少しずつ修正していく人間の姿。それこそが「人間的瞬間」なのだろう。
(2022 03/12)

「天地創造」と「ランナー」


前者はカリブ海の島から帰りの飛行機になかなか乗ることができない男と女の話(バラード(だったか)の短編に似たような設定あり)、後者は公園を走るランナーの男の前で子供が連れ去られる話。
この二つ、続けて読んだせいか、主題がほぼ同じもののように思える。飛行機に乗れない理由も、子供が連れ去られた理由も、本当の理由はわからない。主題はその理由そのものではなく、男が女に説明したり(風のため飛ばない…とか)、通りがかりの女がランナーに説明したり(子供を誘拐した男は実は子供の父親…とか)、そういうどうしても理由づけをしてしまう心性。

 蒸し暑い晩には、みんなよくここで涼んでいるのだ。彼女はあの出来事を、時間のなかに拡げよう、認識可能なものにしようとしていたんだ。形の定まらぬ影の存在、想像圏外の人間の存在を信じる方がいいというのか?
(p74)


(2022 03/15)

「天使エスメラルダ」

 彼女は疑い、掃除をした。その夜、彼女は自分の部屋の洗面器に屈み込み、消毒液に浸したスチールウールのたわしで、掃除用のブラシの毛を一本一本きれいにした。しかしそうなると、彼女は消毒液の瓶を、その消毒液よりも強力なものに浸さなければならなくなる。そして、彼女はそれをしていなかった。それをしなかったのは、無限に後退することになるからだ。後退が無限なのはそれが無限後退と呼ばれるものだからだ。疑いは病となり、物体の強引なぶつかり合いから成る世界を超えて広がり、遥か高みの、言葉が言葉自信を相手に戯れるような次元にまで浸透する。
(p124)


作品冒頭、p104の記述を繰り返して深めている箇所。この無限後退は避けられないものなのだろうか。
さて、作品はサウスブロンクスというニューヨークで一番貧しく治安の悪い地域に通う修道女エドガーの話。そこでいつも逃げ回っているエスメラルダという少女。このp124の文のあと、エスメラルダが殺されたことを知る。

エスメラルダを知る人々が郊外の小さな湖の周りに夜な夜な集まって来る。何が起こるのだろうか。タブロイド新聞の記事を見てエドガーは行ってみることにする。
オレンジジュースの大きな電光掲示板、郊外電車が走っていき、一瞬電光掲示板の方を照らす。すると一瞬、そこにエスメラルダの顔が映る…

 果汁が描く豊穣の虹の下、郊外にある小さな湖の上空、その顔は存在と気質を持っている。-像のなかに誰かが生きている、他人と区別される精神と人格が、理性を持つ生き物の美しさがある。人生の儚い刹那、一秒にも、〇・五秒にも満たない一瞬の後、その部分は再び闇に包まれる。
(p135)


前の文章の無限後退を止めるのはこうしたものでしかないだろう。奇蹟というかもしれないけれど、こういう奇蹟は意外にもすぐ近くにあるものでもある。あまりに短いので気づかないだけなのかもしれない。
サウスブロンクスは元々デリーロ一家のようなイタリア系労働者の住むところだった。今はこのようにヒスパニック系住民が増えたようだが、デリーロにとっての出発点の地でもある。

「痩骨の人」

 二人がそれらとともに生きている、さまざまな物たち。単純な事物が、奇妙にも彼らの現実を形作る任を負っている。触れられはしても見られはしない、あるいは見抜かれはしない物たち。
 あるものが何なのかを知るために我々がここにいるのではないとすれば、ではそれは何なのか。
(p253)
 唯一埋め込まれた、彼らそのものである自己があるのみであり、彼らはその自己であるほかはない。ほかの人々には自然に浮かぶ顔を、彼らは剥ぎ取られている。顔も剥き出しであり魂も剥き出しであり、ひょっとするとだからこそ彼らはここに、安全のために、いるのかもしれない。世界はあそこに、枠のなかに収まって、スクリーンの上、編集され修正されきっちり縛られていて、彼らはここに、自分の居場所にいて、孤立した闇のなかで、自分そのものでいる。安全でいる。
(p268-269)


こちらは、父の遺産をもらい仕事を辞め、ずっと映画館巡りをしている男と、彼と離婚したのにまだずっと一緒にいる女、そして彼が映画館で会った女という人々の人物描写。「ポイント・オメガ」でも、「ドストエフスキーの深夜」でも書かれていた事物、粒子の非確実性、交代可能性がここでも。
彼が昔哲学の授業で聞いたという「物事は全て光の錯覚である」とかいう言葉はバークリーでしたっけ?

自分の考える一つの解釈可能性、冒頭の一人暮らししていた時に起こった部屋での火事。彼はここで顔に大火傷を負った。以来、闇の空間(「映画館」、「剥き出しの顔」)を行き来するようになった…百万分の1くらいの可能性ではあるかもしれない。デリーロの小説世界ではこのような可能性も余裕で併存されている、と思う。
(2022 03/16)

「象牙のアクロバット」

ギリシャ(デリーロ自身3年住んだことがあるらしい)で起こった地震が引き起こした日常の歪み。

 時計は四時四十分。砂がこぼれているような音が聞こえた。ざらざらした粉塵が隣り合わせの建物の壁と壁のあいだに落ちている音。部屋はキーキーという小さな音を立てながら揺れ始めた。
(p81)


臨場感あるのだが、耳を澄ます(他の感覚も研ぎ澄ます)というのは、デリーロのテーマの一つだろう。「サイコ」が24時間に引き延ばされたような。

 それにね、ここが好きなの。何て言うか、自分から積極的に座礁したような感じね。少なくとも、今まではそうだった。
(p91)


自分はどうだろうか。積極的にではないと思っているのは、ある部分を隠蔽しているからなのだろうか。

 彼女はフィギュアをそこに入れたことを覚えてもいなかった。恥ずかしい気持ちと言い訳する気持ちが血の中で衝突するという、よくある感覚に襲われた。忘れられていた物体が投げつけてくる非難に対し、体熱が上がる感覚。
(p99)
 -言語と魔術の谷間の向こう側、夢の宇宙論の向こう側に失われたもの。これがこの作品のささやかな謎である。
(p100)


このフィギュアはミノア文明のもの…ということらしい…p99の文のような体感を自分もよく実感する。賞味期限3年切れのレトルトパウチとか(笑)、p100の文は集英社版「現代批評」に含まれているヘルベルトの論点先取りな可能性もある。
その謎が教えるのは、「固定された世界はまやかしのもの、揺れて動く世界が真の姿なのだ」ということか。

「バーダー=マインホフ」

ドイツ赤軍テロ事件首謀者のその後(自殺?)を描いた絵のある美術館の部屋で出会う男女。「ポイント・オメガ」に近い設定でもあるが、この男女の行方を追うと、「痩骨の人」の女性側から書き直した作品のようにも思える。教育部門の出版社の管理部門で働いていたのに会社がなくなって、3日連続この美術館の部屋に来ている…という彼女も謎な存在だが、それ以上に影のような男は存在感が感じられない。彼女の影そのものなもかもしれない。そして、やはり「痩骨の人」の男女のように、互いの行動が交差しても相手と化合せず、一見何も影響しないニュートリノのような図式。憧れだけが肥大化する、そんな世界。

 そして彼はダイエット・ソーダを飲み、窓の外を見た。あるいは仲良く並んで、ぼんやりとガラスに映った自分たちを見たのかもしれなかった。
(p152)


ひょっとしたら、この短編集全体でここが一番美しい場面だったのかもしれない。しかしその予兆は一瞬で消え失せる。
この作品のテーマとも言えるドイツ赤軍テロの絵の流れと、現在の男女のすれ違いの流れ、この二つがどのような関係にあるのか…は自分にはほとんどわからなかった。床に入ってからちょっと考えてみるか。

というわけで、この本の短編読み終わったわけだが、単一テーマの変奏曲のような味わいも。対話と交差。対話が裸のままで行われていることが多い。手探りで運んでいく対話。
「痩骨の人」の女性トイレに入った男の場面も、「バーダー=マインホフ」のバスルームに閉じ籠った女と部屋を出ていく男の場面も、広く取れば対話の一種だろう。そして多くの場合、ニュートリノのように互いの人生を突き抜けていくだけの対話なのだが、そこに全く何の影響も見られないわけではないだろう。あの「サイコ」のように拡大すれば、何か新しいものが隠れているはず。

楽しい読書体験ではあったが、まだ主題と構成の間の仕組みがわかっていない感覚がある。もう一歩深く読みたい作家である…ということは…いよいよ長編か。
(2022 03/17)

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