見出し画像

「よそ者たちの愛」 テレツィア・モーラ

鈴木仁子 訳 白水社 白水社エクス・リブリス

「魚は泳ぐ、鳥は飛ぶ」

ハンガリー生まれのドイツ語話者マイノリティ出身で、現在はドイツに住み、ハンガリー文学のドイツ語訳もしている。

冒頭の短編。マラソンマンと呼ばれる物思いにふけりがちだけどマラソンは好きな男と、彼から鍵やら財布やらの入ったカナリアイエローのエコバックをひったくった若者の追走劇? 訳者鈴木仁子氏は、自分はゼーバルトでしか知っていなかったため、この短編で見せる快走感あふれる訳に驚きつつ読む。解説にはこの作家の特徴として人称も話法もめまぐるしく唐突に変わる、ということが書いてあったが、この短編で言えば、いきなりマラソンマンの知り合いのクラウスが相手に返答しているところ(p20)などかな。
(2021 07/04)

「エイリアンたちの愛」


昨日読んだ表題作(翻訳は短編集の題とこの短編タイトルを少しだけ変えている)
ティムとサンディという若い二人。どちらも他人とコミュニケーションを取るのに苦悩し、ハッパ(麻薬)をやっている…ティムの方は、専門学校とかレストランでのアルバイトとかをなんとか続けているが、サンディは全く閉じこもったまま。


 ティムは冷静を保っていたが、世界から色が失われていく感覚がまた起こっていた。緑はいっぺんに、どこへ消えた? 色はあるにはあるが、白っぽくなっている。通り過ぎていく車も、お陽さまが反射しているのに色褪せて見える。
(p44)


日光が強いから反射で色褪せて見えるのではないか、とは思うけど、ティムにとってはそれは自分の立ち位置が変化し消失していくように見える光景。「また」とあるから、彼には何回もある体験なのだろう。
ティムもそうなのだから、サンディにとってはもっと強い体験なのではあるまいか。そしてこの後、サンディは消え去る。


 ティムは夏のあいだアパートを出なかった。部屋にいるか、キッチンにいるかだった。何時間となく窓から外を眺めたり、部屋の中の一点を見つめていたりした。壁紙の一センチ一センチ、リノリウムの床の、天井のテーブルの一センチ一センチ。干からびたドラセナ、干からびたサボテン、どちらもサンディが外から拾ってきた。死んでしまったサボテンのとげ、死んでしまったドラセナの葉のギザギザ。
(p56)


ひょっとしたらこの部分はかなりの意訳で、そしてひょっとしたら原文より詩的になっているのかも。
(2021 09/06)

「永久機関」(ペルペトゥウム・モビレ)


昨夜(というか今日未明)読んで、起きてからいろいろ考えてたら、読みがどんどん膨らんできた(こういう時によくありがちな、テクストから離れた個人妄想も多いけど)…

物語の構成。最初に男とその息子の永久機関に関する会話があって、そこからこの二人の公園での光景。男はトムという名前のようだが、最初は「彼」としか提示されず、トムという名前が出てくるのは3ページ目。
どうやら息子の両親は離婚か別居かしていて、一週間くらい?に一度息子に会える。ここでなんだかよくわからない奇術師みたいな自転車乗りの人も出てくる。
その後、トムは墓地にいて誰かを待っている。物語の流れからすると元妻かとも思うけど、違うらしい…誰なのか。
というところで、トムの少年時代の描写。トムにはトムという友達がいて、友達トム(「別トム」とも呼ばれる)は六人兄弟の真ん中辺り。その別トムが蝋燭盗んだり、学校競走でトムが別トムを抜いたり。その直後、トムの家は引っ越しして二人のトムは別れてしまった。
さて、トムが待っていたのは別トムの兄弟姉妹の末子である女性。別トムが病気で亡くなりその墓を案内する。この女性はほとんど話さず、トムを一人にして去ってしまう。トムとしては、別トムの家庭のことをいろいろ聞いたのだから、自分についても聞いて欲しかったみたいだけど。
その夜、トムは別トムの撮影した動物(人間一切無し)の写真を検索して見る。

という話。話としてはまあそうなんだけど、なんというか、他メディアでは味わえない小説としての愉しみがこの短編の本領。まずは視点人物トムの呼び名。解説でも述べられているトムという短いありふれた名前、物語開始時に「彼」となっていたことからくる個別名称の不安定さ、それにトムと別トムというリズミカルにもなる語り。唐突に出てくる自転車乗りは今でもなんで登場したのかよくわからないが、作品全体を抽象画のように見せる効果を持つ。

これも解説で述べられているが、語り手のレベルを容易に越えていくところ。自由間接話法の、リョサと並ぶ使い手でもある。それも両者とも非常にポップな印象を与えるというのも共通点。以下の例を見てみよう。


 両親はかねがね矯正施設に入れるぞと子どもたちを脅していたのだが、こんどばかりは父親がそれを真剣に検討しているらしい、とトムは自分の母親から聞き知った。うちにはまだ五人子どもがいますからな、あの子たちのことも考えてやらねば。かわいそうなトムくん、とトムの母は言った。子どもが六人もいるとだれかひとりが悪者にされてしまうものなのね。
(p69)


両親云々は「別トム」のこと。次に「自分の母親から」知ったトムは別ではない「トム」。続いて「うちには…」という文章は「別トム」の(たぶん)父親の会話を放り込み(ちなみに「…な」という切り方で男性とするのは小説言葉、「…な」止めを実際日常に使っているのは噺家くらい)。「かわいそうなトムくん」と言ってるのはもちろん?トムの母、次の文もそうだがここでは会話そのまま。
(なんか自分、自由間接話法好きなんだよな)

構成で述べた、トム(別ではない)が自分の話を聞いてくれと思ったところから、とある女性心理学者の語ること。


 家庭で虐待を受けた子どもが施設に入る、そういう施設で働いている人は、大人とか人の助けが不要な人とかとうまくやっていけない人で、だからこそその仕事を選んでいる。そういう人は、弱い者、病んだ者、トラウマのある者しか愛せないし、そういった側からの愛しか想像ができない。
(p79)


これを聞いたトムはなぜか激昂したのだが、それはこの説明の何かがトムに当てはまったからなのだろう。もしかしたら、「別トム」ではない「トム」も何かしらの家庭内不和があったのかも。それはともかく、ここが短編集全体のテーマにかかってくることは確かだろう。

さて、最後に考えてみたい。最後に林務官で鳥獣保護員となった「別トム」の写真を夜見ている「トム」は本当に「トム」なのか考えてみたい。語りそのものは、死んだのが「別トム」で、「トム」がネット検索して「別トム」の撮影した写真を見ていると書いてある。でもここまで読んできて、そこになんか疑いを読者が持つことを、作品と作者が仕掛けているような気がしている。例えば、競走で追い抜いた時、あるいは引っ越しの時に何かの拍子にトムと別トムが入れ替わっていた、とすれば…トムと別トムが作品中リズミカルに交代するとすれば、生と死が偶発的に頻繁に移行するともしするならば、短編タイトルの「永久機関」という謎のタイトルはそれを言い表しているのかもしれない。
(…うーん、これはこの作家の長編ますます読みたくなったぞ。長編ではどんな仕掛けが待っているのだろうか? あと、原文でも読めたらいいのだけど…)
(2021 10/17)

「マリンガーのエラ・ラム」

夢を多量に含む現実
今日は「マリンガーのエラ・ラム」を読む。エラ・ラムは主人公の名前だけど、「マリンガー」って何だろう?
エラ・ラムは、17歳で誰かに公園?で子供を作ってしまった女性。今は街に出てカメラスタジオに通いながら、写真家を目指していて(と言っていいのか)、週末にはスタジオの店長と結婚式の写真を撮影しに行ったり、それが終われば、実家に帰りパパとママ、それにベンジー(上記の子供)に会いに行く。それだけではなくて、主にイヴェットという友達と一緒にいろいろなところに遊びにも行き、いつも眠そうで店長に怒られている(といっても、何かこの店長はエラ・ラムに好意を持っているっぽい)。
という概略の話なんだけど、解説から2点。
なんかこの短編集の短編どうしで、いろいろ結びつきがありそう、という点。例えば別トムもサンディも花を盗んだり取ったりしている、とか。この短編で考えると、別ではないトムが別トムの写真を見ているところと、この短編。短編中で誰かが彼女の写真をネットから購入しているのだろうけど、誰が買ったのだろう。ひょっとしたら店長?とか考えるのがまあ普通だろうけれど、大穴でトムが別トムの写真検索したついでに、というのも想像して楽しい。それと、「永久機関」「マリンガーのエラ・ラム」それから次の「森に迷う」3作品連続、語りが始まるとすぐに「お陽さま」が出てくるのが解説からの指摘。
エラ・ラムもサンディもダメな子の烙印押されていそうだけれど、エラ・ラムの方が写真という具体的なものを通して導いていく可能性がある、という指摘。罌粟の写真を撮ろうとしていた場面などに確かにそれを感じた。
…と、とにかく眠くて、夢と夢から覚めたくない時とそれから現実と、それらがないまぜになって書かれているテンポのいい作品。
(2021 10/30)

「森に迷う」


 (なんにも。日の出と日の入りをじっと見ていたい。一日のうちのその数分のため以上は生きていたいとも思わない。食べないですませたい、なにも。眠りたい、なにも。眠りたい、想像上の生き物のように。日の出と日の入りを見るときだけ目覚め、それからまた目覚め、それからまた眠る。それをくり返す、永遠に。)
(p125)


この作品集では、()内部の言葉が、中心人物たる男の内省。
この主人公も何か生きづらさというか、誰にもうまく話せない、という人物。よそ者感をまた常に抱く。一回逃げ出したが、また戻ってくる。サンディの手前くらいか?
(2021 11/08)

「ポルトガル・ペンション」


親の遺産の家をペンションに改装したものの、相続税を払ってなかったために、家財を売り払うことになって、屋根裏部屋にあったベッドを運ぼうとしたら、運送係がベットを階段途中で動けなくしてしまう…という話がメイン。このポルトガル移民の彼に、女友達(「彼女」というよりこっちの方がふさわしい)から携帯電話で別れを告げられる…というくだりも、この作品集全般に共通するあっけなさで語られる。まあ彼も、すぐに別の弁護士の助手(一応彼も名前だけの弁護士ではある)の若い女性に電話してたりするのだが。
という話なのだが、正直、これまでの短編と似たような印象で区別つかなくなってくる。なんか常に移動というか走り回っていて、逃げたり、逃げられたり、落ち着かない…ここまで集まってくると、作者の故意としか思えてこない。だから最初にその典型例というか看板として、それが全面展開するマラソンマンの話を置いたのか。そして、登場人物の名前の平凡さかつ類似による取り違えという傾向も、それを強化する。
話そのものとしては(墓参りして夜フィルムを見るだけ)静かな「永久機関」も、それだから様々な手法で、筋の出入りを強調しているのではないか。
というような短編を書く作者が、長編だったらどうなるのだろう。このままなのか、それとも長編はまた別の理論、作風なのだろうか。
(2021 11/19)

「布巾を纏った自画像」


 この都市が彼を呑み込んでしまうのではないか、この巨大な都市が、中を移動しているうちにわたしたちを引き離してしまうのではないかと。ひとりが同じところに留まっていなければ、もうひとりが見つけることはできない。なにより、見つけてほしいと彼が思わなければ。両方がそう思わなければ。
(p177ー178)


「よそ者」感が深まった感じ。この語り手フェルカは、フェリックスという(また似た名前)画家の夫、それに数少ない男の子知り合いだけの中で不安に感じながら生きている。彼女自身も画家だったようだが、夫からやめてくれと言われたらしい。
フェルカは掃除婦として働き、その中に休暇用滞在ペンションもあるから、ついついそのペンションは前の「ポルトガル・ペンション」かと思ってしまうが、実はこのフェリックス、フェルカ夫妻には実在のモデルがいる。フェリックス・ヌスバウム(ドイツ、オスナブルック出身のユダヤ人画家)とフェルカ(ワルシャワ 出身)。ここに書いてある通り、二人はベルリンで知り合ったのだが、各地を転々としたのち、1944年ブリュッセルでナチスに捕らえられアウシュビッツに送られた。ということで、前作とは(一応)関係ない(逆に全部その時代の作品なのかとも思ったけど、そっちには携帯電話とか出てくるしなあ)。ということを踏まえて作品振り返ると、フェリックスがあまり外出したがらないのも納得。描かれているのがどの町なのかはわからないけれど。
でも、「よそ者」でない「愛」など、実際あるのだろうか。
(2021 11/20)

「求めつづけて」

敷居の文学、または耳と鼓膜のあいだ


 本来はトランスレーション・スタディーズだが、
 対する相手によっていろいろなことを言う-
 不条理文学
 言語純粋主義
 学校教科書における〈異質性〉のディスクール
 イギリス映画に登場するドイツ人
 あるいはイギリスのゲイ・クィア映画に登場するドイツ人
 ただ、政治と文化の言語、と言うことだけは控える。オリーの専門だからだ。
 閾の文学を研究している、とだれかに言ったら、しばしのち、その相手が具体的な敷居だと思っていたことがわかる。戸口や家の中の敷居だと。私たちは笑う。
(p204)

 睡眠時間がどんどん長くなっていく。いまや十一時になってやっと仕事に取りかかる。閲覧室で壁に近い隅の席を探し、ヘッドホンをつける。なにも聴きはしない。耳と鼓膜のあいだの空気を閉じ込めるだけ。そうすると、多くの人が静けさと呼ぶだろう均一なざわざわ音が生み出される。しばらくそれで調子がいいが、やがてヘッドホンの下が汗ばんで不快でたまらなくなる。するとヘッドホンをもぎ取って、そそくさと歩きに出る。十四時にもなっていないことが多い。
(p208)


この作品は(実際どうかはわからないけれど)、作者モーラそのものの話と言ってもいいくらい(差し支えないかどうかはともかく)。ロンドンに1学期間、講義と研究で来ているハンガリー出身のドイツ語話者。かつての恋人Gや女友達のことを考えつつ、(やはり)ロンドンの町をひたすら(時には八時間も)歩き続ける。この歩くというのと、それから様々な人の近くで眠って夢見るというのが、この語り手の何かについての折り合い。
(2021 11/22)

「チーターの問題」

動物園の飼育係から公務員に転職しようとして、試験を受けたエラスムス(一年前くらいに離婚した)…この短編、短編集全体の中でかなり異端(というか、短編としてよくできているというか)。登場人物がこのエラスムスという男一人であること。そして、平凡なそして他の人と似ている名前が多い中で、エラスムスなんて立派な?名前…とにかく、これまでより読みやすい(比較として)ことは確か。
酒飲んで5日間家にいよう、と決意してワインを開けようとした時、豪快にワインの瓶が割れて彼のお腹に突き刺さる、多量の出血が起こる(ほんとは割れた瓶が原因ではなく何かの病気だったようだ)…
という朦朧とした中で、地震が起こる。川の中洲にある彼の部屋で、エラスムスは妄想に囚われる。


 エラスムスは注意して体を屈め、川を見ようとした。これが目下の課題だ。川がどうなっているか見るのが。するとぐんぐん押し寄せるものがあった、ガタガタ揺れる雲が川面にひろがり、それが予想よりも不気味で、エラスムスはぎょっとして息を吸い込むと同時に、頭を持ち上げ、そしてさらにぎょっとした-自分の上にあるのは空ではなく、黒い天井板だったのだ。俺に向かって落ちてくる!
(p233)


若い頃、橋の欄干から小便をした思い出、ベッドの頭の真上に据え付けた本棚、とかがここで引き出されて読んでいる側も彼と一体化して生死を彷徨う。
結局、彼は助かったのだが、公務員試験には落ちた。冒頭のチーターの問題は彼自身の問題なのだ。彼の中のチーターとどう折り合っていくか。最も自分も受かる自信はないけど。
(2021 11/24)

「賜物 または慈愛の女神は移住する」


日本学?の教授を定年になったマサヒコ・サトウと、その妻ヴェラ(チェコ語とドイツ語などの翻訳者)。現在はドイツ在住。アキトという息子がいて今は別居中。
この家がある路地の裏側の路地のクリーニング屋に、日本人女性一家がいて、マサヒコは彼女のことが忘れられない。マサヒコの短い日本帰国のあと、アキトが結婚するということで相手の一家に会ったら、なんとその一家はあのクリーニング屋だった(でも、アキト達が会ったのはアキトが引っ越してから向こう(確かニューヨーク)でだったのだが)…


 物語の出だしになれそうなこと。ひとりの男について。男がひとり小さなアパートにいるのだが、どうしてそこにいるのか、思い出すことができない。二羽の鳥が呼び交わす声に耳を傾けていて、その二羽が囚われの鳥なのではないかと想像する。二羽はたがいを見ることはできないが、声を聞くことはできる。どちらも鳥だから時間の観念もなく、呼び交わすようになる前の暮らしの記憶もない。やがて一羽が鳴くのをやめてしまうと、もう一羽も鳴かなくなり、やがてもう一羽がいたことすら忘れて、ふたたび無時間のなかに戻っていく。その声に耳を傾けていた男にも同じことが起こる。
(p264-265)


マサヒコは物語の全体を通して、何かノートに書こうとしている。それが一番はかどった時に書いたのが、この引用したところ。彼とクリーニング屋の女のことを暗示しているのだと思うが、ただそれだけでも考えさせられる内容。
作者テレツィア・モーラは2013年名古屋で「間文学性」についてのシンポジウムに参加、この作品はそこで取材したもの(だから、マサヒコもクリーニング屋の女も出身は名古屋…だから…なんだけど、でなくとも、モーラの作品世界に名古屋はなんとなく合う…)。
というわけで、短編集全体をやっと読み終えた。解説から。


 人物たちはそれぞれがたがいの言わば分身であって、ほんの少し境遇が異なれば、だれもがだれにでもなりうるかのようだ。
(p274)


(2021 11/25)

以下はアマゾンのリンク

https://www.amazon.co.jp/よそ者たちの愛-エクス・リブリス-テレツィア・モーラ/dp/4560090610/ref=sr_1_1?crid=XNV40VC4SXEY&keywords=よそ者たちの愛&qid=1641807970&sprefix=よそ者%2Caps%2C336&sr=8-1

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?