見出し画像

「永遠平和のために/啓蒙とは何か」 イマヌエル・カント

中山元 訳  光文社古典新訳文庫  光文社

カントこと始め

「啓蒙とは何か」を読み始めた。一言で言えば「知ることを恐れるな」。知るというのは「自分の頭で考える」ということ。いろいろあるとは思うが、実際はどうであれ、姿勢だけでもカントの勧めるようになりたいものだ。あと、公的と私的の(日本で使われる用法とは)逆転の関係・・・ここにハーバーマスの公共性が絡む・・・や、アレントの言葉(p294−295)「カント政治哲学の講義」も面白い。
(2011 12/25)

導きのあまりにもか細い糸


カントの「今ここ」を哲学で初めて論じたと言われる論集読んでいる(「啓蒙とは何か・世界平和の為に」)。
社会を作りたがっているのと同時に破壊したがっている人間とか、最初の人間と仮定した「アダムとイヴ」が「原罪」として理性を使うまで…とか、いろいろあるが、この論集の全体を包括する考えは「自然は人類を導く見取り図のようなものを持っている」というもの。カントでは「人間は近視眼的なので、その長い見取り図が見られない」としているが、それを見ようとしたのがへーゲルとマルクスというところだろう。
導きの糸はあるのか、ないのか。ある、という思想は冷戦終了後ほとんど人気がないと思われるが、果たしてどうだろうか。
(2012 01/04)

あくまでも「道徳的な」カント


今朝は「万物の終焉」。自分が今回一番印象的だったのは、カントが人間が可能な限りの道徳に賭けていること。よくある?世界終末論、この世が悪であり、善をした者だけがそこから脱出できる…といったような…はカントは採らない。この世で善について考えて行動せよ、という。なんだか自分の言葉では杓子定規的になってしまいますが(笑)これまでよりカントが少しだけ身近になった感じがします。
カントによれば、モノを考え、認識する時は「物自体」は捉えられないけど、自分が行動する時には自分が「物自体」となるらしい…
現代ではいろいろ違う考え方も出てきているが、とにかく近代の始まりとしてのカントをもう一度みんなで読んでみる…というのはどうだろう(近代の始まりがデカルトかカントか、というのは、もちっと考えてみる必要有り)。
原注にあった、ペルシャの才人が考えたという、厠としての地上説というのも面白い。
(2012 01/05)

カントの「永遠平和の為に」


カントの思想の背景というか根本には、神あるいは自然は人類を個々の人間の思惑とは別に、最終的に導く、というもので、現時点からみるといろいろ問題もあるが、アクチュアリティーを持っていることも事実。今回はその最終目的が永遠平和。どこに向かっているのか、どこへ向かえばいいか(カントはなにも自動的に目的にたどり着く、とは言ってない)を考える為に、人類史の最初から掘り起こす。そこで自然は人類をその目的に導くように3つの条件を与える…と。
(運命と摂理のところと、この3つの条件のところを引用しておく)
この文庫読み終えても、しばらくカントに付き合ってみようかな。

 自然の機械的な流れからは、人間の意志に反してでも人間の不和を通じて融和を作り出そうとする自然の目的がはっきりと示されるのである。われわれは目的に適ったこのありかたを、その作用法則が理解できないある原因による強制と考えれば運命と呼ぶことができるだろうし、世界の推移における目的を考えれば、摂理と呼ぶこともできる。
(p191~192)
 自然が暫定的に準備したものとして次の三つの点をあげることができる。自然は(一)人間が世界のあらゆる地方で生活できるように配慮した。(二)戦争によって、人間を人も住めぬような場所にまで駆り立て、そこに居住させた。(三)また同じく戦争によって、人間が多かれ少なかれ法的な状態に入らざるをえないようにしたのである。
(p197)
 自然は、諸民族が溶けあわずに分離された状態を維持するために、さまざまな言語と宗教の違いという二つの手段を利用しているのである。
(p208)


ここは、自分にはなんとなく原因と結果が逆に記述されているような気がする。人あるいは民族は他と溶け合うことを拒否する傾向があるから、言語や宗教(ほか、もろもろ)の違いができた、と。
あとは、カント説の自然の摂理の条件として、人間が経済活動をする(商人である)ということもある。これは結構重要だと思う。モースにつながる思想。
またp192の文章で摂理と言っているが、その文のすぐあとで、「批判」の精神から「摂理」なる言葉は使ってはいけないのだ、と言っていたりもする。
まあ、カントの思想はいかにも啓蒙の時代の思想という感じがする。本人は最終的に人類が啓蒙状態になる、というある意味楽観的な思想はルソーに学んだ、と言っている模様。
あと、カントにとって自由とは、例の道徳における定言格律につながる切迫した問題なんだ、とひしひし感じる。自由と聞いて解放感しか感じない自分とかと違って…
(2012 01/08)

カントについての考える空間

 このように自然の歴史は善から始まる。それは神の業だからである。しかし自由の歴史は悪から始まる。それは人間の業だからである。
(p85)


カントの「永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編」を読み終えた。
解説のp330−331、それかp335−336のところは、今まで多く書かれてきたアンチユートピア小説のテーマの列挙ではないか、と思ってしまうほど。寿命がもし今の百倍くらいに延びたら、親子兄弟関係はもっと過酷なことになっているだろう、という、まだ自分には出会っていない?アンチユートピア小説のテーマもある(ビオイ=カサーレスの「豚の戦記」などはこれなのか?)。ひょっとしたら今まで自分が考えてきた「ユートピア小説からアンチユートピア小説へ」という転換点はカントなのかもしれない。

続いて、「永遠平和のために」の解説・・・このタイトルは逆接というか矛盾をはらんだもので、カントはほんとは「永遠平和なんていらない」と言っているのだ(そういう「永遠平和」というユートピアへの反論が先のp330−331のところにもある)。それどころか「戦争は必要悪」であるとも誤解されそう?(またはその解釈で本当にいいのかも?)な発言。人間は社会に反抗し破壊する衝動を持つ動物である。これは人類全体が発展する(カントに従えば自然の目的に到達する)為に必要なこと。でも、戦争までに至ると様々な弊害が出るので、人間は社会契約をして、また国家間でも同盟(世界帝国でないことに注意)して、そういう弊害や戦争を防止する。

カントによれば、法律は国家、国家間、世界市民社会という三段階があるという。最初の二つはまあわかるけど、最後の世界市民社会というレベルの法律ってなんだろう。この一つの例として「歓待」が挙げられる。他の国・地域のどこへ行っても(勿論危害を与えようとしない限り)歓待される。この歓待し、歓待され合う中で、他の人々の考えを聞こうとする態度も生まれる。そしてその中で公的な発言の権利も生まれるのだ(ここの「公的」は「啓蒙とは何か」で言われている「公的」であることに注意)。このカントの「歓待」概念はデリダ「歓待について」でも論じられている。

 われわれが自分の思想を他者に伝達し、またみずからの思想をわれわれに伝達すべき他者とともにいわば<共同で>考えるのではなければ、いったいどれだけのことが、どのような正しさをもって考えられるだろうか
(p374 カント「思考の方向を定める問題」から)


ここでのポイントは、「啓蒙とは何か」で言っている「自分の頭で考えよ」という命題も、ただ自分一人だけでは達成できない、ということだ。考え、伝達し、議論する、こういった「公的な空間」とセットになって初めて考えることが出来る。これは人間の心理の問題からも言える。誰かに、具体的な誰かに伝えることを前提として考えることが、もっと言えば他者の存在(の認識)そのものが、考えることには必要不可欠となるのだ。たぶん言葉というものがそういうふうに成立したのであろう。そして社会からみると、それが共同体の成立発展に寄与してきた。ハーバーマスやアレント、オルテガなども参照のこと。
ということで、出発点であった「啓蒙とは何か」に戻ってきた。他にも、ヘーゲル・マルクス・コジェーヴ・アレントとの労働・平等概念とかいろいろあるのだけれど。
(2012 01/11)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?