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「ペテルブルグ(上)」 ベールイ

川端香男里 訳  講談社文芸文庫  講談社

頭蓋の中の幻想

アヴレーホフの頭蓋の中にある、直線の大通りと立方体の建物からなる区画が無限に拡大する幻想。
「ペテルブルグ」は「銀の鳩」に続く、「東か西か」三部作の第二作目として構想された。上記アヴレーホフの幻想を「西」の極地だとすると、「東」の極地は霧=島=大衆という図式の彼方にいる「見知らぬ男」になるのか。
非常に現代的な問題提起を含む、「真実と言われるものができあがる瞬間」

 人人の間を煙のように立ち昇る会話の「柱」をいくつも横切って、その断片をとらえた。すると文章ができ上がってくるのだった。
(p40)


その実践は40〜42ページで描かれている。煙は当然、霧と響き合う。
霧=島=大衆、という図式が「ペテルブルグ」における大衆の捉え方だとすると、カネッティ「眩暈」での大衆の捉え方の図式は家具=生活=大衆になる・・・のか? 
(2010 03/11)

そこに、そこから

父、アポローン・アポローヴィッチは50年前、どこかの冬の田舎で凍死寸前になったことがあり、彼の心の奥底にそれは潜む。

 彼は空間をおそれた。(中略)
 眼の前にはいつも同じ途方もない広広とした空間があった。そこに、そこから氷のような手が手招きするのだった。飛んでいた、度外れの広大さがーロシア帝国が。
(p125)


「広広とした」とか、「そこに、そこから」とか、「手が手招きする」とかの連鎖は、ベールイの言語実験を訳者川端氏がなんとか表現しようとした例であろう。この翻訳にはそのような箇所が数多くある。
それで、ベールイの自由連想はアポローン・アポローヴィッチの個人的な体験や心理から、「飛んで」いき、「ロシア帝国」の語をそっと(うっかり?)付け加えることにより、拡大し続けて維持できなくなったロシア帝国が、(自分のイメージでは)無限に広がる方眼紙の上から溶解してぽたぽた落ちていく、ような映像を得ることが出来る。
・・・と、読み進めているが、あんまり考えていたようには読み進んでいない、と思う。眠さがとれないこともあるが、まだうまく作品世界に入り込めないところもある。「われら」にしても「巨匠とマルガリータ」にしても途中で保留してある(補足:その後、両者とも読んだ)のだが、今度こそと思うロシア革命前後の「銀の時代」の作品群。どうかな? 
(2010 03/14)

空間の中の空間

ニコライやドゥートキンだけでなく、父アポローン・アポローヴィッチもまた幻想を見る。

 アブレウーホフの頭の上方で、アブレウーホフの眼が、明るいしみのような斑点を、きらめき、くるくるとまわる円を中心に踊る虹色の斑点を見ていた。この斑点が空間と空間の境界を覆うのだった。こうして空間のなかに空間がひしめいていた。
(p217)


これは「幻想夢」のほんの始まりのところだが、ここを読んで自分としてはこの自分の前にたまにちらちらする景色(まあ、若干の貧血症からなるものだろう)を思い出す。灰色の地があって、そこに回る線上の渦巻き、その内側に破線の渦巻き、さらにその内側に線上の渦巻き・・・こんな景色だ。回り方はといえば、線上の渦巻きと、破線の渦巻きは逆に回っていたような、同じだったような・・・
この引用文の前の章でリフーチン家で起こった騒音(ニコライに対する夫の怒り)へ、上の住人が床磨きブラッシでコツコツ音を立てる場面。なんか、この上下を分ける天井(もしくは床)が、なんか人間の頭蓋骨を暗示しているように自分には思えたのだが。
(2010 03/16)

 真の観照者たる魂は、こんなことがあっても彼の道を照らすことができよう。こんなことでさえも・・・照らし出すだろう・・・まわりにはこんなことが身を起こしたー柵が身を起こした。足元に門の下の隙間と水溜りが見えた。(p289)


「こんなこと」と「身を起こした」がずれながら絡み合っているのが面白い表現だなあ、と思ったのだが、まだなんか、ここの捉え方が自分は足りないような気もしている。
(2010 03/20)

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