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「アブサロム、アブサロム!(下)」 ウィリアム・フォークナー

藤平育子 訳  岩波文庫

第6章


イタリックと通常の混ざり具合…


 すでに何度もみんなから訊かれた。南部の話をしてくれよ。南部はどういうところなの。南部ではどういう暮らしをしているの。どうして南部なんかに住んでいるんだい。それより、そもそも南部の人はなぜ生きているんだい
(p21~22)


ここは語りの舞台がジェファスンから北部ニューイングランドに変わり、20世紀初頭の北部人の眼差しというところなのだけど、最後の問いから二つ目くらいから、北部人そのものの問いからそれを聞いている南部人の自問になってきて、最後のは多分南部人が何度も問うてきたものだろう。それが同じイタリック(訳では太字)で連なっている。

それからサトペンの帰還と小間物屋?でのジョーンズとの生活。そのジョーンズに殺されるサトペン。雨の中5つの墓石を見るクゥエンティンとその父。ニューオーリンズのボンの娼婦とその子がサトペン領地に来た…などなど。下巻になって、イタリックとそうでないところがどう書き分けられているのか、ますます微妙にわからなくなってきた…上記の墓石を見るシーンなんかも語りに載せられているのだろうけど、前の二つと違ってここは通常文字…
(2017 06/25)

第6章後半読み切り。読んでいて息苦しくなるほど、人種差別…というより強迫観念…がのしかかってくる。 
次はボンと混血娼婦との子供チャールズなんとかボン(長い名前(笑))をクライティが洗っているシーン。ここにも観念が… 


 時には、その肌に残っている滑らかで僅かなオリーブ色の色合いを洗い流そうとでもするように、あふれる怒りをこらえながら夢中でこすることもあり、その様子は、子供があだ名とかチョークのいたずら書きがとっくに消えてしまっているのに、まだごしごしと壁をこすって消そうとしているのに似ていた 
(P64) 


微笑ましい記述の中に薄暗さが漂うフォークナーらしい表現。 
というわけで、この後半の叙述の中心はこのサトペンの孫に当たる長いボン。彼はひょっとしたら一番サトペンの要素を受け継いだのかもしれない。意外なことに。

 
 あの悪魔自身が持っていたのと同じような凶暴で手に負えない自暴自棄の反抗で、今の現実に向けて挑戦状を叩きつけたのだと 
(P71) 


フォークナーはサトペンやこの長いボンの運命に対しての無力な反抗に好意は抱いていないのかもしれないが、共感はしていると思う。 
6章最後は前章最後のサトペン屋敷に匿われている謎の人物をローザとともに探索する話につながる、と思いきや、シュリーヴの「待ってくれ」との言葉で、また先延ばしされることになる。このシュリーヴの「待ってくれ」で閉じられる「)」(括弧)はP95にあるのだけれど、これと対応する前括弧は実にP44にあるのだという。長い括弧… 
(2017 07/02)

第7章

 
前章の「待ってくれ」から、二人の話はサトペンの生い立ちへと遡る。シュリーヴが(勝手に)話を続けるのをクェンティンはあまりよくは感じていないみたいだけど、クェンティンにとってシュリーヴというのはどのような存在なのだろう。 
(2017 07/04)

第7章続き。今日のところはサトペンが白人農園主の屋敷に行って屋敷の黒人に門前払いを受けてから、農園主と同等になるための資金調達先としてハイチへ向かったところ。


 ところが、その彼自身が自分の父親や兄弟姉妹のことを、農園の所有者が、(黒人ではなく)あの金持ちの男が、いつも自分たちのことを見ているに違いない見下すような眼差しで、見るようになったのだ
(p127~128)


屈辱を受けた側が、その衝撃のために屈辱を与えた側の眼差しにすり替えることは割とよくある。自分にもなんとなくではあるけれど実体験があるような気がする。問題はそれを作家が「無垢の発見」としていることだ。常識ではそれは逆の「無垢の喪失」ということで語られはしないか。まだよくわからない。
(2017 07/23)

黒人の群れ二重写し

サトペンがポツポツ語る自身の過去。ハイチでの黒人労働者暴動に取り囲まれたサトペンと農園経営者親子。という場面を語っているサトペンと聞いているクェンティンの祖父はサトペン百マイル領地造成中に逃亡したフランス人建築家を追って黒人たちと共にいる。サトペンの語りには黒人達をてなづけた経緯はほとんど語られないけれど、あの黒人達が、今現前で建築家を追跡している黒人達なのだな、とわかると迫力が二重増し。

そこでの農園経営者の娘との結婚、その解消(娘について重大な隠匿があった、とサトペン)、そしてそこでの息子ボンが再びサトペン百マイル領地にやってくる、ということで、だんだん物語の核心部分に迫ってきているのだが・・・
(2017 08/06)


第8章


サトペンの一代記を構成した第7章がウォッシュによるサトペン殺害で幕を閉じ、続いてボン、ヘンリーの構成に焦点を合わせた第8章が始まる…のか。
とりあえず、今読んでいるのはボンの母親ユーレリアのところ。


    彼女はいつとは予測できなかったものの、いつかは必ず来ることがわかっていたその時と瞬間のために息子を訓練していたのだ…(中略)…その瞬間とは、息子が父親と(顔を突き合わせることはなくても)肩を並べて立ち、あとは運命というか幸運というか正義というか、彼女がどんな言葉で呼ぶにせよ、そのようなものに任せられる瞬間だった
(p235〜236)


   誰しも激しい憎しみをたくさん持っている場合は、憎しみだけで充分に満たされて生きていけるものだから、希望なんて必要なかった
(p247〜248)


ここはユーレリアの立場に立った記述だが、上の文章の直前に言及のあるローザのこととオーバーラップする。ローザの説明文にしてもいいくらい。
(2017 08/16)


クェンティン・シュリーヴ



昨日は「アブサロム」を(8月中に終わらせたい為)進ませたのだけど、いよいよ「恋」の話だ、という宣言があった。これはヘンリー、ジュディス、ボンの三人の話なのかと思っていたら、なんか他の含みもありそう。それは他でもないクェンティンとシュリーヴの語り手・聞き手コンビ。前にこの日記で「クェンティンにとってシュリーヴとはどういう存在なのだろうか」と書いたけど、ヘンリー、ボンと並行してそういう関係でもあるのかな。肉体関係は抜きにして。この語っている日の直後に、クェンティンは自殺してしまう(「響きと怒り」)わけだし。
シュリーヴはこの後出世していくのだけど。
8月まだ何も読了してない…
(2017/08/23)

4か月かけて
じっくりというか、放置していたというか、とにかく、「アブサロム、アブサロム!」(今度は適量(笑))を今朝読み終えた。現段階ではまだ頭の中がまとまっておらず、ヘンリーがボンを射殺した理由(ボンの中に流れる黒人の血)もなんだか納得できていないのだが・・・
シュリーヴが最後に語る、地球上全てがジム・ボンドの末裔になるというのは、ジム・ボンドの黒人性(テクストの中にはそのような表現がある)もあるのだろうけれど、それより様々な混淆の結果全人類が白痴化するというようなことを言いたいのかな、とも思ったり。内容は違うのだけど、「ブッテンブローク」や「百年の孤独」のラストと共通するものをどうしても感じてしまう。
(2017 08/26)


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