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「ガラスの国境」 カルロス・フェンテス

寺尾隆吉 訳  フィクションのエル・ドラード  水声社

「首都の娘」


今日(から)フェンテスの「ガラスの国境」を読み始め。メキシコ北部、アメリカ国境を巡る短編集。 というわけで、冒頭に置かれた「首都の娘」。フェンテスにしては明快でわかりやすい。
元大臣で金持ち、国境付近にディズニーランディアと周りから呼ばれている大邸宅を持つ男と、彼を代父とする元大貴族の「首都の娘」。男は、自分の息子(暗闇の中、本ばかり読んでいる)と娘を結婚させるが… 解説では、フェンテスは歴史には複数のものがあると信じている、とある。この視点に立てば、この短編のラストは別に一つの読み方に定まらなくてよいことになる。複数の歴史。フェンテスを読む時には鍵となる。この短編にも、登場人物ごとの複数の歴史がある。そして、意外と通底しているのは、娘の祖母(昔のものを熱心に集めている)と、元大臣の息子かもしれない。ひょっとすると。 
(2016 01/05) 

痛みと過去とロード・ジム 


「ガラスの国境」から2番目の「痛み」。 「首都の娘」の時に書いたけど、フェンテスにとっては過去、歴史というのは終始離れなかったテーマみたい。あと、結末の読み方が複数許容されているような書き方も両者に共通している。 

  直感的に現在という時間の中でだけ関係を結んできた二人にとって、過去の話をするのはこれが初めてだった。その時フアン・サモラは、これで未来というもっと危険な展望が開けるのではないかと思われて、漠然とした不安に囚われた。 
(p60)

 

この「過去の話」というのは、フアンがメキシコで通った医学校が昔は異端審問所だったということ(フェンテスのことだからどんな含みを持たせているのやら)ですが、現在対過去、未来(時間の流れ)という図式があるのかな。この不安は当たって(フアンだけに?)しまうのですが…でも、なんで男色の相手がロード・ジムと呼ばれているのかな。 あとは、この作品で気になるのは、背中を向けて語るというのが強調されているところ。背中か向かい合うかと、さっきの現在対時間の流れというのは対応しているかも。
も一つ、サモラの下宿先でレーガン政権のエルサルバドルやニカラグアでの反共軍事作戦をテレビで見るフアンはどんな心中だったのかな。下宿先一家はレーガン支持みたいだったし。
(2016 01/07) 

イスカ・シエンフエゴスとアルテミオ・クルスの後継者? 


フェンテスの「ガラスの国境」の3、4番目の短篇。
「略奪」はメキシコの料理評論家?がサンディエゴのショッピングモールのレストランで、料理の変化した女性たちと語り合うという趣向の作品。タイトルは今のカリフォルニアからテキサスにかけての土地が元々はメキシコ領だったというところから、だろうけど。この評論家曰く、メキシコで流暢な英語をしゃべることのできる人物は二人いて、そのうちの一人がカルロス・フェンテスなのだ、という(笑)。

次の「忘却の線」にいたって、抽象度は先鋭化し、もはや短編小説なのか、詩なのか、それとも独り言なのか判別しなくなる。老人が一人、人工的に描かれた線に取り残されている。この線が直接的にはメキシコ・アメリカの国境ではあるのだろうけど、生死の線、過去と未来の線、などいろいろ読める。こういう、どこからなのかよくわからない、物語全体の裏みたいなところから、死者が語りかけてくるような語り口はフェンテスにはよく登場してくる。代表的なのは標題の二人だろう。
読み進めていくと、この捨てられた老人は「首都の娘」に出てきた元大臣のレオナルド・バロソの兄、弟と決別し政治活動に走ったエミリアノ・バロソということがわかってくる。この短篇集は全体が緩やかにまとめられている。人物再登場はバルザック譲り。

  我々は自分が生きているとずっと思い込んでいるものなのか? それが本当の死なのか? 違うだろう。本当に死んでしまえば、死がどんなものかわかるだろう。 
(p124) 


「本当に死んで」しまったフェンテスは、今頃死がどんなものかわかっているのだろうか? 抽象度が最大限にふれた短篇集の中盤。これからまた徐々に日常世界に戻っていくのかな。 
(2016 01/10) 

マキラドーラ人間模様 


「マキラドーラのマリンツィン」 

  今まで自分の内側にこんなものがあるとは思いもしなかった何か、瓶を振ったときにだけコルクまで届く沈殿物のように静かに溜まっていた何かに突き上げられるようにしてマリーナは声を上げ… 
(p176~177) 


マキラドーラとは米墨国境メキシコ側にある特例工業地帯。ここに働く女性達の1日を描く。最後には、「首都の娘」のラストと交錯する。この短編集に登場する世界はだいたいがこのレオナルド・バロソの勢力圏にあるが、彼が崩れた時はどうなるのだろうか。 
(2016 01/13)

 「女友達」


ここでは米墨国境地帯を離れて、シカゴ近郊の人種偏見に凝り固まった未亡人の尾老婦人とメキシコ系家政婦と老婦人の甥の弁護士との話。次々と使用人を追い出す老婦人に気に入られるような助言を弁護士から受けて、読んでいるこっちも内心ひやひやしながら家政婦の一挙一動を見守るわけだが、途中から家政婦は弁護士の助言を越えて自分の声に正直になっていく。それが老婦人の心を開いていく一つの要因となる(一番大きいのは老婦人自身の過去らしいのだが、ここではそれはほのめかされるのみ)。 メキシコでは聖人の祭日が多過ぎ、アメリカでは大資本家・富豪が多過ぎる、か。 
(2016 01/15) 

「ガラスの国境」


「ガラスの国境」より表題作。レオナルド・バロソの仕事もまとめに入ってきたみたいで、今度は冬のニューヨークにメキシコ人ビル清掃人呼び込み作戦。NAFTA締結後のアメリカ側の国境封鎖の気配に対して批判の声を挙げたフェンテスならば、バロソにも共通する面があるとは思うのだけれど…冬のニューヨークの寒さを知らないメキシコ人のために毛布などを用意して手渡ししているところもあるし… そんなバロソとミチェリアはまたも短編の横をすり抜けていき、今回の米墨接点は土曜日のOLとビル清掃人。前作「女友達」が誤解から和解への道だったのに対し、こちらは理解はされているが間にはガラスがある…のか、ガラスというものがあるから理解しあえたと誤解する道が開けた…のか。 
(2016 01/16) 

嘘から出た真実 


今日は雨だからなんとなく外出せず、「ガラスの国境」を読み終えることにした。 

「賭け」は今度はメキシコとスペインでの別の話がだんだんすりよってきて、衝突という形で終わる構造。この中で苛められた男の子の父親が語る「老いた猪は先陣に若い猪を立たせ自分は安全が確保されて初めて動く」という話は、次の短編(というか全体を貫く背景である)のメキシコ人労働者の不法流入に繋がっていく。貧しい村では一人の若者をリオグランデ川に立たせるだけで精一杯… 

最後の短編は今までの登場人物及び、リオグランデの歴史を含めた締めくくり。

  不思議なのは、なぜそんな作り話に騙されてやったのか、なぜこれほどすんなり嘘に話を合わせてやる気になったのか、なぜ見知らぬ二人の男がこんな瞬間を体験することがあるのか、そっちのほうだ… 
(p302~303) 


このアメリカ側国境警備隊員が川を渡ってくるメキシコ人少年との対話から想起したのが、直前のこの辺りに金山等があると言った探検家と後の探検家という歴史の語りと響き合うのはもちろん、今までの短編…例えば「ガラスの国境」の二人…を全て含んだテーマとはなっていないだろうか。

  実は土地には必ず見えない分身がいるのではないか?他人の影が我々の横を歩き、我々の誰もが見知らぬ第二の自分に付き添われて歩いているのではないか? 
(p312)


 …でなければ、全短編を貫くテーマはこの見知らぬ自分への旅か。襲われて即死したバロソのすぐ近くに元彼の奨学生で医師のフアンがいたのは偶然ではないかも。 歴史は嘘が作り、そこで自分に出会う…か。 
ちなみにp312の文はバイクにまたがって国境の話を集める作家ホセ・フランシスコが思ったこと。彼には実際にモデルがいる(チカーノ作家リカルド・アギラール・メランツォン)。 
(2016 01/18) 

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