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「小川洋子と読む内田百閒アンソロジー」 内田百閒

小川洋子 編  ちくま文庫

岡山ジュンク堂書店シンフォニーヒルズ店で購入。百閒の、そして小川洋子の故郷。
(2020 11/21)


「冥途」、「件」

買った日に冒頭の「旅愁」を読み、今日「冥途」と「件」を読んだ。
まずは「冥途」

 高い、大きな、暗い土手が、何処から何処へ行くのか解らない、静かに、冷たく、夜の中を走っている。
(p22)


この冒頭に関しての小川氏のコメントはこうなっている。

 何度読み返してもそのつど新たな驚きに打たれ、自分の知らない間に書き直されたのでは、という疑いにとらわれる。
(p26)


僅か5ページ程度の小品で、あちらとこちらの世を行き交う。その象徴たる土手。

続いての例の「件」。冒頭は大まかな作者の情景描写から始まると思いきや、何故か全身濡れてたり、朝なのか夕方なのかわからなかったり。この描写がそのまま語り手の人面牛「件」になるのだから、読み手も不安になる。しかも、「冥途」と同じように知っている顔を見つけたり、声聞いたり。
来年は件年?
(2020 12/25)

「尽頭子」、「蜥蜴」


内田百閒アンソロジーから以下、動物が主役?の二篇…「件」も動物といえば動物…

「尽頭子」

 馬鹿に広い座敷で、矢張り何となく白けている。その座敷の真中に、たった一人だけで坐っているのは、あんまり気持ちがよくない。無暗に顔が引釣るらしい。顔を洗ってよく拭かずに、そのまま乾かしている様な気持がする。
(p40)


「蜥蜴」

 小屋の中は恐ろしく広かった。その中に見物人が、柘榴の実を割った様に、一ぱいに詰まっていた。その癖、四辺は森としていて、身動きをする者もないらしい。
(p52)


各編から面白い表現を抜き出したところだけど、ここで気づく。内田百閒って広所恐怖症? これもまた「件」もそんな感じが漂う。これは絶対にどこかに言及か研究(この二つ濁音あるかないかの違いだね)があるはず。
で、話的には、前者は馬の灸を据える職業の話、後者は熊と牛を闘わせる見世物の話で、両者とも語り手は最後には逃げ出す(後者では失敗するが)。って書いてても、全く読者は謎の中なんだなあ。
(2020 12/26)

「旅順入城式」、「鶴」、「柳撿挍の小閑」

昨日の寝る前に、「梟林記」と「旅順入城式」。今日は「鶴」、「桃葉」、「柳撿挍の小閑」(けんぎょう、と読む。最初の作品に宮城道雄の話があったけど、撿挍とはまさしくそれ。琴の師匠)。
まず昨日分から。

 私の目から一時に涙が流れ出した。兵隊の列は、同じ様な姿で何時までも続いた。私は涙で目が曇って、自分の前に行く者の後姿も見えなくなった様な気がした。辺りが何もわからなくなって、たった一人で知らない所を迷っている様な気持がした。
(p74)


「旅順入城式」…の映像を何かの講堂で見ていて…いったいに内田百閒の語り手はよく泣くのだが、ここでも泣いているうちに兵隊の列に自分も加わっている心持ちになっている。それとも兵隊が皆同じ格好をしていて個人の姿が消えかかっているのが気になったのか。

今日分。

 急にいろいろのことを思い出すような、せかせかした気持がして、ひとりでに足が早くなった。その中には、既に忘れてしまった筈の、二度と再び思い出してはいけない事までも、ちらちら浮かび出して来そうであった。
(p76)


「思い出したくない」ではなく、「思い出してはいけない」事…とは、なんだろうか。小川洋子氏でなくとも気になる。

 川下の橋から伝わる得態の知れない響きが、轟轟と川の水をゆすぶっている。
(p78)


ここでは川は語り手とは別世界に属しているようだ。そして語り手はそうした別世界を忌避して、逆にその世界に入り込んでいるような。
以上二つの文は「鶴」から。この話も「鶴人間」がそっと登場する奇異な話。

「柳撿挍の小閑」…これまでの長くても10ページいかないくらいの小品が多かったアンソロジー、この作品は中編と言ってもいいくらい。50ページもある。

 又夢の中で三木さんや伊進にしばしば邂逅する。夢はうつつの迷いにも増して自分にはうれしかった。さめた後にその人はいない。又いても見えないのではないか。夢の中に会いたい人の姿を見る。夜寝る時よりも昼間のうたたねにそう云う夢は這入り易かった。
(p132)


三木さんも伊進さんも故人。柳撿挍は昼、琴の前でうつらとしていることが散見されたけど、それはこういった人々に会いに行くからか。そして歳を取るたびにそういった人々は増えていく。うたたねはうつつの寝。夢と現実の境が破けた障子のように曖昧。
(2020 12/28)

「雲の脚」、「サラサーテの盤」、「とおぼえ」


今日は人が死んだ思い出の霊魂話?3編。「雲の脚」、「サラサーテの盤」、「とおぼえ」。この3編は、以前借りたちくま文庫の「内田百閒集成4」収録。

「雲の脚」からは久しぶり?に、編者小川洋子氏のコメントから。

 生ものをもらうと、賞味期限が切れるまでの、つまりは命が果てるまでの、わずかな残り時間の責任を押し付けられたようで、胸が塞ぐ。兎を置いて帰る女の足取りは、さぞかし晴れやかで、飛び跳ねんばかりだったに違いない。
(p142-143)


兎、サラサーテの盤、氷ラムネ、遠吠え…これらは、次の文の小石と同じようになんらかの異界との通り道。それはともかく、この短編を読んで、語り手ではなく、兎を置いて帰った女の帰り道を思い浮かべるとは、さすが作家。

「サラサーテの盤」。サラサーテ自身の演奏の盤だというが、そこには手違いでサラサーテの肉声も収録されている、という。この肉声を死んだ夫(後妻)として返事をしている女と、何かを待っているその娘。

 坐っている頭の上の屋根の棟の天辺で小さな固い音がした。瓦の上を小石が転がっていると思った。ころころと云う音が次第に速くなって廂に近づいた瞬間、はっとして身ぶるいがした。
(p146)


これは冒頭の章から。小石は本当に転がっていたのか。

「とおぼえ」は、語り手と氷屋の中国系親爺との探り入れながらお互いすれ違っている、というような会話が続く。先頃亡くした妻の姿のようなものを見ている親爺が「あんたどこから来た?」と語り手に尋ねる。読者と語り手とは作品冒頭から同じ道を歩いてきたから、語り手に不信感を持つのが遅れるが、作品末尾になるとさすがに疑いの目を向ける。「ところで、あんた誰?」と。
(2020 12/29)

「布哇の弗」、「他生の縁」、「黄牛」、「長春香」


昨日「布哇の弗」(これで「ハワイのドル」と読む)から「琥珀」まで、今朝「爆撃調査団」から「残夢三昧」を読んで、とりあえず読み切り。

「布哇の弗」
なんてことはない、作家目当ての詐欺師にやられた、という話。これ小説なのか随筆なのか。

「他生の縁」
昔すんでいた下宿と下宿人のあれこれを綴った文。五番の部屋の下宿人一家を「レ婆」、「レ爺」、「レ姉」(レバー、レジー、レネー)と名付けているのが愉快。

 もとの下宿はそのままの所にあるけれど、全くの吹通しで、こっち側から広い家の部屋を通して、向うの人の家の燈りが見えた。
(p212)


ラスト。百閒的世界ここに極まれり、という感じ。小川氏のいう「ジョゼフ・コーネル」って欠片から箱とか作る芸術家だよね?

「黄牛」
これも?百閒的なんだかわからない世界。「応接室に通された」とあってどこかにいるらしいのだけど、どういうことかの説明等無く、ただ道の向こう側の電信柱に黄色い朝鮮牛がつながれているというのみ。で、作品の大半は自分の服装や所持品への取り留めない連想。しかもステッキ以外は安物・・・その連想につきあっていると向かいの牛が「めえ」と鳴く、牛がですよ。そして応接室の主人が入ってくる、ところで終わる。

 応接室に入ってくる主人の顔を、私は決して見たくない。
(p218)


と小川氏。そう言われれば、そうだなあ・・・

次の「長春香」はこのアンソロジー後半の最大のよみどころだろう(前のも好きだが)

 寺島さんの家の跡取りの人が、一人だけ向島に出かけていると、地震が来たので、わざわざ火燄の中に戻って来て、床の間のある座敷で焼け死んだと云う話を、私は長野から聞いた様な気がする。・・・(中略)・・・私は年年その小さなお寺の前に起って、どうかするとそんな風に間違って来る記憶の迷いを払いのけ、自分の勘違いを思い直して、薄暗い奥にともっている蠟燭の焔を眺めている間に、慌ててその前を立ち去るのである。
(p229)


関東大震災とそれによる江東地区の火災の時の話。長野初という女性が百閒のところにドイツ語を習いに来た。上達して、長野の家(本所石原町にある)にも行き、やがて結婚して子供を身籠った、というときに地震と火災が起こる。江東地区は壊滅状態。百閒は石原町へ何度も(9/1にはほぼ毎年)行き、長野を探すが見つからない。
そのうち彼女の追悼会を開くことになり、宮城道雄も参加して、位牌を作ってその前で闇鍋?をすることになる。「宮城先生はなんでも闇鍋になる」「この薩摩芋はまだ煮えてないということはわかるぞ」とか、いろいろ滅茶苦茶やっているうちに、「お初さん一人だけ礼儀正しくてかわいそう」とか言って、蒟蒻で位牌を撫でたり、終いには位牌を二つ折りにして闇鍋に入れたり(これを提案したのは百閒自身だという)・・・とかいう話の後で、p229の文が来る。ということは、長野が地震と火災の詳細を百閒に聞かせることはないわけだ。でも、読者も一瞬うなずいてしまう。百閒は「迷い」や「勘違い」を本当は愛しているのではあるまいか。

「梅雨韻」、「琥珀」、「爆撃調査団」、「桃太郎」、「雀の塒」

「梅雨韻」
猫や芋虫がわけもなく巨大化する。あるいは百閒が小さくなったのか。

「琥珀」
昨日・今日の分にあった「百閒の少年時代」その1。松脂が地中に埋もれて何万年後に琥珀になる。酒屋の百閒の家には松脂ならある。百閒少年は松脂を埋めるのだが、翌日「発掘」してしまう。好きだなあ、こういうの・・・

「爆撃調査団」
これも実際にそういうことがあったのかどうかも気になるのだが、アメリカの調査団が爆撃に関する意識調査?を百閒始め何人かを呼び出して行ったという。紅茶や西洋菓子は期待と違って出ず、なんか横柄に近い感じだったという。が、爆弾と焼夷弾のことを聞いてるのに、雷様のことを滔々と話す百閒もどうかなあ(笑)
「桃太郎」

百閒風(笑)。絵も百閒なのかな? 主役はあくまでも桃(笑)

「雀の塒」(ねぐらと読む)
「百閒の少年時代」その2。今度はしんみり編。夜中に雀の塒を見ようと蔵に梯子を掛ける少年と、傷を負った雀の血に驚く少年。泣く少年と、目をさましてどうしたと心配する祖母。百閒は祖母に溺愛されたという。

「消えた旋律」、「残夢三昧」


「消えた旋律」
テーマというかやってることは太宰の「トンカントン」と似ているけど、趣はだいぶ異なる。何せ、こっちは百閒(笑) 隣が学校で、天気がいいと学校の屋上から子供達が百閒邸に悪罵を浴びせる、という。

 あんまりお天気が続く時は、どこか雨の降る国へ旅行したいと、沁み沁み思う。しかし、よそへ行けば、隣りは学校ではない。学校がなければ雨なぞ降っていなくてもいい。雨の国へ行きたいと思った事の締め括りがつかなくなってしまう。
(p271)


こんなこと真顔で書く百閒が羨ましい(前も「東京日記」の感想でそんなこと言ったような)。
百閒の「トンカントン」は「タータカ、タータ、タータカタ」なのだが、これが百閒のいうには、(空襲で焼けた)学校の壁の割れ目に沁み込んで、夜中に聞こえて来る、のだという。

「残夢三昧」
もう後は百閒に存分に夢の話をさせておきましょう(笑)。

 寝てもさめてもではない、寝ていて、夢の中でまだ眠たい。止んぬるかな。見のこした夢、残んのまぼろし。
(p281-282)


いろいろあるけど、百閒の子供の頃に勉強していた時に、横に彼の為に用意していた布団に入って先に寝てしまう母親の姿は、やっぱり書いておきたい気がする。
(2020 12/31)

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