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「わたしは花火師です フーコーは語る」 ミシェル・フーコー

中山元 訳  ちくま学芸文庫  筑摩書房


わたしは花火師です-方法について
哲学を厄介払いする-文学について、これまでの軌跡について
批判とは何か-批判と啓蒙
医療化の歴史
近代技術への病院の統合
訳者あとがき

前2つはロジェ=ポール・ドロワとの対話。3つ目は二回目の日本訪問の直後の、フランス哲学協会での講演及びその後の討議。4、5つ目は1974年のブラジルでの連続講演。

「わたしは花火師です」、「哲学を厄介払いする」

 わたしはいわば花火師です。わたしが作りだしているものは、結局のところは占領と、戦争と、破壊に役立つものです。わたしは破壊することが好ましいとは考えていません。それでもわたしは通り抜けること、前に進めること、壁を倒せることは好ましいと思っています。
 花火師であること、それはまず地質学者であることです。土地の地層を、褶曲を、断層を調べます。
(p8-9)


「花火師」とはあるけれど、ここで述べているのをみると、軍隊「爆破技師」のことだという。ただこの先、p17には自作が「花火のように楽しい爆発物になること」を夢見る、とあるので敢えてこう訳したと注にある。

 わたしは身元というものは、わたしたちの社会のうちにある周知の種類の権力から生まれる最初の産物の一つだと思っています。
(p29)

 権力は実際に、作り出す力をもつものなのです。権力は個人そのものまで、ほんとうの意味で作りだすのです。個人としてのありかたとか、個人の身元というものは、権力の産物なのです。
(p30)

 わたしたちは誰もが、権力のターゲットであるだけではなく、権力を結ぶ結節点であり、ここからある種の権力が発揮されるからです。
(p46)


前読んだ社会学の本でも見た、フーコーの個人から生まれる、関係性から生まれる権力論。この対話は1975年なので、そろそろ中期「監獄の誕生」が出る辺りか。
(2024 01/08)

 文学的ではなく、無視され、語られた瞬間から忘却されるはずのある種のエクリチュールが、文学の分野のものとして認められるようになるのはどのような動きによるのか、どのような小さなプロセスによるのかを理解したいのです。
(p64)


「哲学を厄介払いする」…哲学と文学の重なり。関係。

「批判とは何か-批判と啓蒙」


1978年の講演と討議。

 いかに統治すべきか-これは十五世紀と十六世紀に提起された基本的な問いの一つだったと思います。これはきわめて基本的な問いであり、この問いに答えるために、すべての種類の統治の技術が多様化したのです。教育の技師、政治の技術、経済の技術などです。そしてこの時代に広い意味で統治と呼ばれたすべての種類の統治組織が登場したのです。
(p75)


この「統治」に対し一部は「統治されたくない」と言い出す。これの技術が批判であり啓蒙である。というのが大雑把なこの講演の内容。ただ、「統治されたくない」という批判は、「統治の限界」を指し示すことにより「統治」とセットでその広がりを支えていた。そこで出てくるのが、カントの「啓蒙とは何か」。
(2024 01/11)

 知識や支配の概念では、正統性という観点が入ってきますが、知と権力の概念には、この観点をいれないようにすることが大切なのです。
(p103)

 一つの知や一つの権力が存在すると考えてはなりません。単独で機能する知そのものとか権力そのものがあると考えるのはもっとまずいのです。知も権力も、分析のための格子にすぎません。
 またこの分析のための格子は、たがいに異質な要素からなる[知と権力の]二つのカテゴリーで構成されているわけではないこと、片方に知があり、片方に権力があるという構成ではないことはお分かりになると思います
(p103-104)


「知と権力」を巡るフーコーによる3つの留意点(2つめ、3つめは続いているが)。

 わたしは知について語るときには、当面はそれが精神医学者の語ったことであるか、数学者の語ったことであるかを、まったく区別しないのです。わたしが違いをみいだす唯一の点は、精神医学や数学など、科学の領域の内部で、こうした学者が語った命題が、どのような権力の効果を誘発するかということです。
(p137)


ここなど結構意外な箇所でもあるが、それも「格子」としてみる故の観点であろう。でも「当面」ではあるのね。
…後半はなかなかほぐれず一面的理解(してるの?)に留まってしまった、と思う。特に、講演参加者の質疑応答の部分は何が問題なのかもよくわからず…とりあえず、「啓蒙」という概念の問題と、ソクラテスの知とフーコーの考古学で取り上げる知の連続性の問題が、多く取り上げられていたような気がする…
(2024 01/12)

「医療化の歴史」


(1974年10月、リオデジャネイロ大学での講演)

 わたしの立てている仮説は、資本主義の訪れとともに、集団的な医療(古代的な民間治療など…引用者注)から個人的な医療に移行したのではなく、まさにその逆のことが起きたというものです。一八世紀末から一九世紀初頭にかけて発展した資本主義は、生産力と労働力に応じた形で、その最初の対象である人間の身体をまず社会化したのでした。
(p147)


身体の社会化とはいかなるものか。統計的に、社会・国家の戦略に組み込まれる、ということをすぐ想像するが…

 ここで再構成してみますと、社会医学は次の三つの段階を追って形成されてゆきました。すなわち、最初は国家の医学であり、次に都市の医学となり、そして最後に労働力の医学になったのです。
(p148)


前ページには、当初、医学的権力は、人間の身体を労働力としては重視していなかったと書いてある。それが重視されるのが3つめの段階になるのか。これから先の論述は、この段階を追うことになる。舞台は、最初はドイツ、続いてフランス、最後はイギリス。
ドイツでは各地に所領が分割されていたことにより、各々競争し他領と比較・均衡をとることが重要だった。故に官房学に寄り添った国家医学が発達した。国家による標準化としてドイツでは医者が対象となり、同時期のフランスでは大砲と教師を標準化(個人化)の対象とした。

 ペストをきっかけとして誕生した医学的な対処方法は、癩病の場合とは異なり、患者を隔離したり、都市の中心部から外れた場所に集めたりはしませんでした。これとは反対に、都市の内部を綿密に分析し、絶えず記録をとりつづける方式です。こうして、宗教的なモデルに代わって軍事的なモデルが登場したわけです。この政治=医学的な組織のためのモデルとして役立ったのは、基本的に徴兵検査のモデルであり、宗教的な浄化のモデルではなかったのです。
(p165)


これはフランスの都市の医学。こうして都市の医学は発展し、複数の貧民・富裕層共住の街の併存たる都市から都市計画へと移行、墓地の郊外移転、街路の拡張、上下水道管理などが行われる。この都市医学(公衆衛生)は、環境に働きかけるものであり、そこに住む人間を対象としたものではなかった。

イギリス、労働力の医学。18世紀までの都市では、貧民はそれほど多くなく、かつ彼らが、今では公共サービスと思われているもの(郵便・ごみ収集など)を行っていたので有用だった(そういえば、SF小説などで、主人公を助ける地下組織みたいなのが西洋小説ではたまにあるが、その原型はこうした街を隅々まで知っている貧困者たちなのだろうか)。だが19世紀になると、公共サービスが発達し貧民の仕事を奪い、フランス革命の影響を受けた都市騒擾を起こしたりして、都市上層部は、貧民の管理の必要性を感じるようになり、労働力と管理の医学を発展させる。そのプロセスが救貧法であり保健所システムであった。こうした医療、例えば健康診断などに反発する層は一定数いて、英米では主に分離派の一派が「病気になる権利」を主張し闘争する。カトリック圏では、その代わりルルドなどへの巡礼地が新たに作られ巡礼者が増加する、とフーコーは見ている。

 こうした宗教的な営みを、古代の信仰が現代にまでうけつがれたと考えるのではなく、権威主義的で政治的な医療化と、医学の社会化と、主に貧しい住民にとって大きな負担となる健康診断にたいする政治的な闘いの現代的な形式を、そこに読みとるべきではないでしょうか。現在でもこうした宗教的な営みが活気を失わないのは、ある階級の利益のために、貧しい人々に医学的な措置を実施するこの社会医学(イギリスの医学はその一例です)にたいする反発という意味があるからなのです。
(p183)

「近代技術への病院の統合」


(1974年10月、リオデジャネイロ大学での講演…上の講演の次)
この講演は「病院と規律の誕生」。

 規律とは何よりも空間の分析のことでした。空間ごとに個人を特定し、その個人に定められた空間にその人の身体を配置することで、分類と組み合わせが可能になるのです。
(p202)


軍隊や学校とともに、病院もその一例として機能している。病院の前身として語られる施療院(死を迎えるために訪れる)とは全く異なる思想。

 規律とは、権力システムが個人を個別化することを目的とし、かつ個人の個別化を実現する技術の全体を指します。これは個人を個別化する権力であり、その基本的な手段は検査です。
(p204)

 規律が病院の空間に適用され、それぞれの個人を別々に管理し、患者を一床のベッドに寝かせ、食事管理の処方を書くことができるようになったために、個人を対象とする医学への移行が起こったのです。
(p213)


引用文がまるで規律三部作(笑)。それはともかく、これは前の講演のp147の文章と呼応している箇所でもある。
雪か霙か、それが降る中、ようやくこの本読み終わり。
(2024 01/13)

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