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「笑い」 アンリ・ベルクソン

増田靖彦 訳  光文社古典新訳文庫  光文社

昨日買った本の解説先読み


またしてしまいました…
「笑い」の方は前に確か三田図書館で全集の始めだけ読んだもの。ほんとはいろいろな出来事に対し全て個別に考え対処しなくてはならないはずなのに、つい簡略化して自動化機械化してしまう。そこで失敗すると笑いが起きる。他にもいろいろ笑いの種類はあるけれど根本的には同じだという。反復するものに対してのフロイト(「不気味なもの」)との違いは興味深そうだけど、バタイユとの違いはまだよくわからない。
(2016 07/24)

笑い(笑)


特に考えたわけではないけど、ベルクソンの「笑い」にしてみた。
笑いの基本的事項3つ。

1、源泉は人間的なものであること。動物や無生物なものに笑う時は、必ずそのものと人間的なものとの関わりにおいて笑っている

2、笑いは情動をシャットダウンしたところに生まれる。これは一見意外?でも、当人とは無関係だからこそ笑える。音楽(情動)を遮断して舞踏会を見ると笑えてくる、というのは卓見。

3、笑いは社会的なものである。一人笑いはどうなの、と思ったけど、明記は特にないけど、想像の共同体が背後にあるのね。たぶん。社会的に逸脱しそうなものを笑いによって除去し滑らかにする、というとある側面を強調し過ぎているような気もするけど、確かにそれもある。

石につまづくことから、ドン・キホーテまで、あらゆる笑いは柔軟に環境に対応できずに、自動的機械的に対応してしまったために起こる。今日はまあこんなところまで、だけどレトリックがかなり巧みな文章だなあ。
(2016 09/22)

ベルクソンの中の「笑い」

ベルクソンの文章は明快なので、引用もしやすい。でも、頭と目の前の光景が分解されそうな感覚に捕らわれる。
この同じ姿勢でベルクソンは精神医学から記憶、進化論、特殊想対論などに入り込んでいく。そして全ての奥底には何か流れているものがある。それが純粋持続なのか。

この流れからちょっと離れたところに「笑い」はある。

 人間の身体による態度、身振り、動作がどのくらい笑いをとるかは、当の身体が単なる機械をどの程度までわたしたちに連想させるのかということ
(p53)


笑いは人間的なものに機械的なものが被さった時に起こるという。
(2016 09/25)

 現在の快楽の大半は過去の快楽の記憶でしかないとみなせるのではないだろうか。
(p99)


過去の記憶に蚕食される現在というベルクソン固有の考え方がここにも現れてきている。現在に生きているわけではなく、過去に生きている…
(2016 09/27)

ベルクソンいろいろ。家系はポーランド系とアイルランド系。プルーストの母の従姉と結婚したそうな。一年下にデュルケームがいるが、「笑い」の方ではかなりデュルケームを批判している。新渡戸稲造や九鬼周造とも面識あり。前者は国際連盟関連。後者は回想のベルクソンという著作あり。
いろいろ…は「笑い」の巻末年譜から。
(2016 09/29)

「笑い」の中の純粋持続

 わたしたちは自分の心の奥底で、時に陽気な、しかしたいていは愁いに満ちた、いつも独創的な音楽のようにわたしたちの内的生の耐えることのない旋律が歌われるのを聞くだろう。
(p200)
 実際にはその旋律の痕跡か予兆?なんだろうけど。それが外界との折り合いで変容を受け、区分される。
事物はわたしがそこから引き出せそうな実利に見合ったかたちで分類されたのだ。
(p202)


その一番強力な手段が言葉なのだろう。
あとは喜劇は実生活に近づく傾向性を持つ唯一の芸術とかいう辺り…
(2016 10/01)

笑いと波の泡

 それをたとえて言えば、海の表面では波が休みなく相争っているが、底層には深い平穏がみてとられるようなものである。
笑いはまた、この泡のように生まれる。
その気泡のように、笑いは泡立つ。そこには陽気さがある。その気泡を拾い上げて味見をしようとする哲学者は、ときどき、その量がほんのわずかであっても、かなりの分量の苦味を味わうことがあるだろう。
(p259~260)


かなり抽出してしまったけれど、この最後の部分はほんとは全部引用したかった。笑いと波の泡という比喩が余韻としてどこまでも残る。
それを受けて、解説ではこう書かれている。

 笑いにはエゴイズムと表裏一体となったペシミズムがあるのだ。そしてそれが笑いの冷めた部分、笑いに苦みが含まれる要因なのだろう。
(p293)


もう一箇所解説から。

 日常生活を送るための功利性に片方の足を突っ込ませたまま、その功利性に遮られて見えなくなっているわたしたち自身、それもわたしたちが気づいていないわたしたち自身へもう片方の足を踏み入れさせること、これが喜劇を創作する秘訣にほかならない。
(p293)


ベルクソンは喜劇を芸術(例えば悲劇)と日常生活との中間領域に位置づけている。
両足とも抜けられなくなることが多々ありそうな危険な賭けではありそうだ。
(2016 10/10)

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