「浦からマグノリアの庭へ」 小野正嗣
白水社
小野正嗣の書評とエッセイ
大分県佐伯市…昔の蒲江町出身の小野氏の(たぶん)初エッセイ。前に読んだボルヘス論の他、W先生とM先生のラブレーは宮下志朗訳ガルガンチュア第1巻の解説からの再録。
研究者・詩人・翻訳家そして菓子職人のクロードのオルレアンの家にお邪魔してのフランス生活。を描くエッセイ編を挟んで、こうした書評や批評が並ぶ。その中には「ミスター・ヒップ」、「死者の軍隊の将軍」「アラブ、祈りとしての文学」など、自分が読んでいた本も含まれて嬉しい限り。
まだたどり着いていないけど、後の方に、クルタークの家に行く、という話があってそこまで読みたい。リゲティと同じ出身の作曲家だが、クルタークはずっとルーマニアに留まった。
(2020 02/28)
ラブレー二大訳者
上のラブレー論。最初の方こそW先生(渡辺一夫)とM先生(宮下志朗)の翻訳の比較で楽しみながらニヤニヤする展開だったが、後半になると、看過できない指摘が次々出てきて困った?展開に。
そしてこのラブレーの時代、ルネサンスの流れで、読書という行為が変わりつつあった時期でもあった。文献学の発達とともに、テクストをそれが書かれた時代・文脈を理解して読んでいく、という今では当たり前になっているそういう読み方が出来上がりつつあった。
(2020 02/29)
浦の作家
前に(たぶん)読んだボルヘス論のところは抜かして、マリー・ンディアイのところから書評の半分まで。
ンディアイの魅力自体もそうだけど、その場に居合わせているかのような小野氏の書き方に惹かれる。
ンディアイの夫、ジャン=イヴ・サンドレもまた作家。静のンディアイに対して動のサンドレという感じらしい。そのサンドレはブルターニュの小さな村での、老先生による児童虐待行為を摘発した(その後それに関する本も書く)。ンディアイの方の作品については「家族」というものの捻れた拘束性と身体的表現に特徴があるという。
次のマグノリアの章は、例のポルトガル系のイネスというヘルパーさんの一家に降りかかる悲劇が中心。
その他、学内いじめのリーダー的存在の少年の父親が、学校関係者及びいじめの被害者の親(アルジラというイネスの代わりに来た人もその一人)らの前で、ベルトを振り上げ罰するというより破壊欲求を満たすように少年を痛めつけてという挿話も痛ましい。その父親が移民としての理不尽さに耐えてきたことの転移でもあるだろうから。
書評ページから。
デニス・ジョンソン「ジーザス・サン」から
姜信子「イリオモテ」から
書評ページに入ったところで、2008-2009のここでの紹介された本を列挙…
フリオ・リャマサーレス「狼たちの月」
エンリーケ・ビラ=マタス「バートルビーと仲間たち」
堀井照陰「限界集落」
大江正章「地域の力」
レナード・ツィプキン「バーデン・バーデンの夏」
コーマック・マッカーシー「ザ・ロード」
アルベルト・マングェル「図書館 愛書家の楽園」
マリー・ンディアイ「心ふさがれて」
ポール・オースター「幻影の書」
堀江敏幸「未見坂」
岡真理「アラブ、祈りとしての文学」
沼野恭子「ロシア文学の食卓」
デニス・ジョンソン「ジーザス・サン」
フィリップ・プティ「マン・オン・ワイヤー」
姜信子「イリオモテ」
ロイド・ジョーンズ「ミスター・ピップ」
イスマイル・カダレ「死者の軍隊の将軍」
ガルシア=マルケス「生きて、語り伝える」
蓮實重彦「映画論講義」
アール・ラヴレイス「ドラゴンは踊れない」
村上春樹「1Q84」
エルサ・モランテ「アンダルシアの肩かけ」
リュドミラ・ウリツカヤ「通訳ダニエル・シュタイン」
オスネ・セイエルスタッド「チェチェン 廃墟に生きる戦争孤児たち」
マリー・ンディアイは「ロジー・カルプ」(小野氏訳?)も。
「1Q84」から
「アンダルシアの肩かけ」から
次のマグノリアの章は、クロードとエレーヌのところにやってくる移民・難民の人たち。カンボジア、コートジボワール、イラン…(フランスでは国内で生まれた子供は基本的にフランスで保護されるが、親はそうではない。だから親は苦悩する)
(2020 03/06)
カズオ・イシグロと大江健三郎
昨夜はこの続きで第4部「ふるさと」からカズオ・イシグロと大江健三郎のところまで読んだ。前者ではイシグロの作品では作者が全く消えて作品の語りに同化しているという指摘(「普遍的で明確なテーマを、いわば現実の陰影だけで浮かび上がらせる」訳者飛田茂雄の言葉)、後者では大江健三郎の古義人三部作?に出てくる分身・二人組の存在と人はそもそも誰かの生まれ変わりであるという四国の木に止まって生まれる命を待っている魂という伝説を踏まえての指摘。
坂口安吾と中上健次
続いて今日は坂口安吾と中上健次の章。
まずは「ふるさと」について安吾から。
という「ふるさと」という言葉とは正反対だと思えるこうしたイメージを取り掛かりとして論は進む。
バルザックとの共通点(安吾はバルザックを愛読していた)「海辺の髭」や「ルイ・ランベール」などとの比較も興味深い。
前文と後文は本当に等価なのか?
一方中上健次は、さっきの柄谷行人に坂口安吾を読むよう勧められ「ふるさと」論に感化される。でも安吾の拒絶されたような風景とは異なり、中上健次の「ふるさと」は容器であるように思える。主に「鳳仙花」から。
相手の男のそれぞれの輪郭が曖昧にぼやけてくる。それは匂いというものの特質であろう(ここで取り上げられているフォークナーだけでなく、草という言葉からクロード・シモンも思い出す)。
(2020 03/07)
副テーマとしてのサミュエル・ベケット
最終章のマグノリアから。ここでの大きなテーマは「受け入れる」こと…
この辺、自分が一番苦手としているところではある。
話題としては、旧ユーゴスラビア紛争から逃れてきたクロードの友人を介してのクルタークの家訪問(ンディアイと同じく、この時期はボルドー近郊に在住)、アブダビでの翻訳プロジェクト、クロードと共に韓国の詩人、作家との交流など。
この本、これで読み終えたわけなのだが、実は隠しテーマというのがサミュエル・ベケットなのではないか、と特に後半に関して思った。大江健三郎のところでも、坂口安吾のところでも、クルタークのところでも。自分にとってベケットというのはどうしてもアイルランドのイメージだけしかなかったのだが、ベケットは英語とフランス語半々で書いている。小野氏にとって、ベケットは生涯追いかけている作家に違いない。
というわけで、最後にここを引いておく。
たぶんこれが、翻訳、そして芸術活動全てにわたる過程になるのだろう。
ところで、クロードとエレーヌの庭40周年には果たして行ったのかな。
(2020 03/08)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?