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「死者の軍隊の将軍」 イスマイル・カダレ

井浦伊知郎 訳  東欧の想像力  松籟社

カダレの作品は日本語にも4作品ほど既に翻訳あるが、これまでのは、前に読んだ「夢宮殿」含めて全てフランス語からの重訳。アルバニア語からの翻訳はこの井浦氏のが初めて…のはずだが、本にはフランスの出版社の名前が…この出版社がアルバニア語版とフランス語版を出している(その後、アルバニアでも全集が出版されている)。

死者の軍隊の将軍

第二次世界大戦中アルバニアを併合したイタリア、敗戦後20年ほどしてアルバニアに取り残されたイタリア軍の遺骨を回収しに、将軍と司祭が派遣される。
作品はこの二人の会話、遺骨回収作業、現地の村人の回想、それに字体も改めて戦争中の手記などで構成。多分カダレ自身の出身地での出来事だろうと思われる、村の娼館での殺人事件の後の、お互い手をぎこちなくも振る場面など印象的。

  霧の下を狂おしく駆け巡るもの、まるで痛みによってぎざぎざに切り裂かれでもしたようなそれは、敵意という他に説明のつかないものだった。
(p10)

この後読み進めていくうちにわかるが、この遺骨回収作業は秋に行われ、アルバニアではずっと霧と雨が続く時期になる。このイメージは今と戦争中、精神の表層と深層、などいろいろな位相で現れる。 

繰り返しとテレビの眼

第3章から引用。

 その時将軍は、その司祭の瞳がサロンの隅にあるテレビの画面と同じ色をしているような気がした。まるでちっとも映らないテレビだ。将軍はそう思った。それとも、わけのわからない同じような番組をずっと流し続ける画面のようだと言った方がいいかな。
(p31)

将軍と司祭の会話…といっても、どうやら司祭はアルバニア体験が長くあるらしいが、将軍にはたぶんないのだろう、という差異がある。

司祭の瞳の表現は、司祭のアルバニア滞在中の体験によって、何かが極限値を越えたことを示唆している。 

 そんな話はいくらでもあるし、大抵は不思議なほど似ているものだ。
(p34)

前の文にも似た、ずっと同じような番組を流し続けるテレビみたいなものは、現実そのものにも当てはまる、からこそ、文学の力というものが生まれるのだろう…とも思った。でも、登場人物の側も読んでいる側も、厭世的な気分になってくる。繰り返しの連鎖とそこから抜け出したい願望と視野。その視野を持つことができたからこそ、人間は人生に儚さ、無意味さを感じることができる。
(2015 01/04)

ニク・マルティニの歌

歌が古くからあるのは、切り株のようなものだ。それでも枝や花びらは若々しいのだ、と
(p175)

イタリア軍が海からアルバニアに侵攻してきた時の戦闘で、命を落としたアルバニア側のニク・マルティニという人の歌が残っているという。その歌は本当に元々ニク・マルティニの為の歌だったのかはよくわからない。でもこうした民衆の歌にはそういうことがつきものだ…ということで、上記の文章につながる。カダレの歴史認識にもつながる?

伴う逆回転の物語

残りも僅か。このまま読み進めてしまうことも可能だけど、ちょっと留め置く。 
物語は第2部になって1年経過したらしいのだが、相変わらずずっと地道に遺骨回収作業をしている。
現地の墓堀人のうちの最も長老格の人物が破傷風みたいな感染症で亡くなったり(第1部)、影の主役であるZ大佐に夫を殺されたニツァ婆さんに婚礼の踊りの最中に呪われたり、といろいろ大事件に発展しそうなところはあるのだが、次ではまた淡々と筋が進んでいく。
将軍の頭の中では逐一何かが加算されていき、疲労していくが、読者にとってはそこは察するしかない。

もう一つ気になるのは章の名前で、普通に第○章と名付けられた章と、番号のない章とか付けられた章がある。遺骨の回収作業に関係あるのが番号付き、ないのがない章? 番号のない章の方が文章量は少ない傾向。

   司祭と二人して出直して、陰鬱な巡礼者のごとく、山から山、谷から谷へと渡し歩いて、骨を一つ、また一つと、もとの掘り出した場所に戻していくのだ。
(p207)

将軍が妄想してしまう、さまざまな思いつきから。フィルムを逆再生したような、そんなイメージ。でも、実はこの主筋である遺骨回収の場面に寄り添うような感じで、見えないようにこの逆回転筋も進行しているのだ、と読み取ることもなんとなく可能にも思える。それが僅かの隙間に主筋に代わって現れたりもしてきた。イギリス兵の遺骨を回収したけどまた埋め戻した場面とか、他にもたぶん… 
(2015 01/05)

降る雪の末路を知らない空

「死者の軍隊の将軍」を先程読み終えた。

 制服姿の将軍は、そんな短命の雪を見つめていた。時折彼は空に目をやったが、その空は、自らの生み出したものが地面でどうなっているかにはおかまいなしで、さらに失われるべき幾千の雪ひらを降らせ続けるのだった。
(p290)

最終章から。雪ひらを死んだ兵士と捉えるか、もっと広く将軍や読者含めた人間一般と捉えるべきか。 表は裏になり、裏は表になり…兵士の手記など以外にも裏に通じるような箇所は多かった。
例えば、将軍の会話で言おうとしている内容を地の文で書いたのち、すぐ実際の会話文が全く同じ言葉で続く…というところが散見されたけど、その地の部分は何かに通じていく穴みたいなものかもしれない。 
或いは、将軍にとって、司祭または中将というのは、実は自分の分身の様々な形態の一つでもあって、そこにも隙間が成立する。どこかに通じる…
(2015 01/06)

カダレ作品に多く存在する、裏側の世界の手法。「夢宮殿」でも「死者の軍隊の将軍」でも見ることができる。例えば後者では将軍と中将の会話中で見た深夜の軍隊の場面。死者の軍隊→現世アルバニアの軍隊、という構図。


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