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「漱石と三人の読者」 石原千秋

講談社現代新書  講談社

はじめに
第1章 夏目漱石という文化
第2章 小説と格闘した時代
第3章 英文学者夏目漱石と小説
第4章 『虞美人草』の失敗
第5章 『三四郎』と三人目の読者
第6章 『こゝろ』と迷子になった読者
第7章 まだ見ぬ読者へ
あとがき
参考文献一覧
全小説のあらすじ

以前のちら読みから

「漱石と三人の読者」。三人とは、漱石が知っている顔の見える相手、漱石が狙っている読者層(そこそこ教養持った男性読者層)、そして漱石自身は想定外の未来の読者層。この三者の錯綜体と漱石がどう向き合ったか、という話。具体的な作品解析はこれからだけど、とりあえず…

  自然主義文学は「構成」そのものを愚直に排除しようとしたが、漱石は「構成」を排除する方法を「構成」に組み込んだのである。読者が仕事をする、つまり想像力を働かせる場所を「小説」の内部に作り出すためである。
(p80)


それは漱石が作家である前に英文学者であったからこそ可能だった、ということで第3章以降につながっていく。
(2018  08/12)

「漱石」は第3章がやっと。「坊ちっゃん」は近代知識人から見た近代批判という、この時代では特権的だったこの立場が今では現代人一般の「顔」になっていると石原氏。
(2018 08/19)

「三四郎」のとこだけ、図書館で少し。「三四郎」も枠物語」だという。それもある意味不完全な(最後の章が冒頭の上京の場面と呼応するように全知の視点で書かれている)。そして多くの人にとってこの小説は、美禰子と三四郎の淡い恋物語として理解されているが、実際の動きとしては結婚直前だった美禰子と野々宮の別れが事件であり、読者の視点は三四郎に寄り添っているので見えにくくなっている、という。

 漱石は、この「事件」を三四郎の死角に隠したのである。
(p162)


(2022 03/06)

第1章「夏目漱石という文化」


「虞美人草」と当時の女学生堕落作品(小杉天外「魔風恋風」、小栗風葉「青春」など)との呼応。
前期三部作「三四郎」「それから」「門」が女学生のその後をも描く。
朝日新聞(下町→山の手)の読者層移行にあった漱石
二つの漱石神話破壊…修善寺での病から「則天去私」の境地に至ったという第一の神話は江藤順?によって批判。戦前の「教養・修養主義」の残滓としての神話への批判が大杉氏によってされる。
漱石の主たる読者層への対応は無意識的どころか意識的。明確に読者層を規定。
(2022 03/15)

 「小説」への違和感が、かえって漱石を自由にしていたのではないだろうか。いや、漱石の試みの連続は実は自由などではなく、試行錯誤の軌跡だったのかもしれない。
(p57-58)


(2022 03/16)

写生と構成


松岡子規の「写生」ありのままに書く、ということが、一人称小説、語りの実況中継のような小説に移行する。
美文調(尾崎紅葉ら)に対する「写生」、「自然」が、「余裕派」と「自然主義」に分かれる。
「自然主義」は「無解決無理想主義」、反=構成主義…後には自然主義の人生観にもなった無解決無理想主義は、最初は小説の技法、構成を削ぎ落とす努力についての言葉だった。といってもこういう主義はだんだんただ書いてあるだけの平面的な作風となっていく。漱石の場合は「虞美人草」を除き、構成(物語の型)をそのまま当てはめたのではなく、結末を回避し続けて空白にしてきた。

 自然主義文学は「構成」そのものを愚直に排除しようとしたが、漱石は「構成」を排除する方法を「構成」に組み込んだのである。読者が仕事をする、つまり想像力を働かせる場所を「小説」の内部に作り出すためである。
(p80)


第3章「英文学者夏目漱石と小説」


 文学言語は読者が自らの仕事を果たすことによって文学言語たり得ていると言える。だから、文学言語は多義的であってもかまわないし、断片的であってもかまわないのだ。いや、そうあるべきなのだ。それを縫い合わせ、一つの「物語」に織り上げるのが読者の仕事なのだから。
(p87)
 人々は自分が批判していることはわかっている。しかし、どこから批判しているのかは忘れているのだ。
(p109)


「坊つちゃん」は主人公の差別発言や思想が目立つ「差別小説」である。それはある程度、漱石自身にも重なり合う。具体的には、東京帝国大学の英語の採点を押し付けられそうになった「講師」(この当時は)漱石が、場所だけ四国の松山にして「鬱憤」を晴らした作品でもある、という説もある。
(2022 03/18)

第4章「虞美人草の失敗」

 「虞美人草」や「藤尾」という言葉だけが記号として流通したのだ。そうでなければ、流行になるはずもない。文化記号が作者の意図を裏切り、あるいは作者の意図を超えてしまうことを、漱石は思い知らされたのだ。
(p150)


この時、漱石は第三の読者、作品を読みもしない「のっぺりとした顔の見えない」読者の存在に気づく。

「失敗」とは、この当時の漱石の倫理観に基づいて、「勧善懲悪」(女の方から結婚相手を積極的に選ぶのははしたないという)の構成を入れたこと。これは漱石の限界(漱石自身については石原氏は関心を持っていない)でもあるのと同時に、第一の「顔の見える読者」(木曜会という漱石門下の若者)に対してのメッセージでもあった。この若者の中から、藤尾に惹かれると言う人が出て、漱石はそれを諌める手紙書いたりしている。が、実は「虞美人草」は漱石生前には他の作品よりかなり売れた作品でもある。

第5章「三四郎」と三人目の読者


というわけで

 (「三四郎」では)文化記号のネットワークの中に「事件」を隠すことを覚えたのである。
(p160)
 漱石は、この「事件」を三四郎の死角に隠したのである。
(p162 再録)
 『三四郎』は隙間だらけ、穴だらけの小説だということができる。そこに、読者が仕事をする余地があるのだ。漱石は、ようやく読者を信じ始めたらしい。そして、読者との間で解釈ゲームを楽しもうと思ったらしい。
(p164)


当時の(今も?)「三四郎」の読者は、この話を三四郎と美禰子の淡い恋物語として見ていたが、隠していた「事件」は美禰子と野々宮の結婚話の破局。
「三四郎」では、第三の読者の位置は御光(三四郎の故郷福岡で待っている結婚相手)としている(第12章と第13章の間に三四郎の帰郷が入り、その後の第13章は全知視点から語られる)が、「それから」では第三の読者については無しとされ、「門」に至っては第二の「なんとなく顔の見える読者」(朝日新聞の主要読者)になんとか目配せをするだけで精一杯だという…それは漱石の胃病の進行に関係している。

修善寺の大患以降

そうして、この後、いわゆる修善寺の大患になるわけだが、それを越した「彼岸過迄」には小説への実験の試みが語られ、後期三部作(「彼岸過迄」「行人」「こゝろ」)が始まる。
後期三部作共通点
1、短編連作として読める
2、作品は終わっていても、話はまだ終わっていない、謎が読者の前に放り出される
3、サスペンスを含んだ後半が重要視され、前半は軽んじられる
4、というわけで、読み終わった読者は、伏線確認のため、前半に戻って読み始める

新聞連載の読者と、単行本の読者を分けて考えていた。「彼岸過迄」の時間的二重性(個々の短編の時間と、語り手が語っている時間)、「行人」の「いま」という語り、「こゝろ」の冒頭で頭文字を使うことについての青年の批判(それは「先生」批判になる)する…など。
それが、最後の「明暗」では、裏返されて、新聞連載読者も単行本読者と同じ水準になるように設定したり、「女の側」から書こうとしたりしている。

 小説中に書かれた「手紙」や「告白」といった手段も決して「真相」にはたどり着かないし、「事件」の解決にも役立たないことを寓話的に語っている。「自我」のあり方と小説の構造とが重ねられているのだ。
(p204)


「自我」の迷宮を読者も彷徨うという。それも時系列にも錯綜した作品世界をも(「彼岸過迄」)

 そう、青年が「先生」を「解る」ことは、「先生」の自殺が「無意味」だったことを暴いてしまうのだ。いや、正確に言えば、「先生」はKへの贖罪というはっきりとした理由があって死に急いだのではなく、「自我」の「空虚さ」に耐えられなくて自殺したことを暴いてしまうのである。
(p216)


こう見ていくと、「前半」は全く軽くない。そしてもちろん、読み返す、という行為は単行本読者にしかできない行為である(記事をスクラップしていれば、連載読者でも可能…そういう熱心な読者もいて、そのスクラップ帳の一部は売られてたりもするという)。

 人が親しく身知っている自分の顔はいわば内面の顔であり、日々他人に見せている外面の顔こそが自分にとっては身知らぬ顔だという。
(p230 市川浩「〈私さがし〉と〈世界さがし〉」から)


何かを隠している、ただし隠していること自体は見せたい、何を隠しているかは問題ではない。
上の「明暗」の小説世界を、人間の顔という機能が、何の意識もないまま常時実践している。
(2022 03/19)

漱石補足:石原氏とテクスト論


解説中には、「この本を書くに当たっては「テクスト論」の立場をとらなかった」と書いている。

例えば、「こゝろ」のところでの三つの位相。
第一の「読者に読み方の方向づけをする位相」(倫理的読み方)
第二の「いかに表現されているかという物語言説のレベル」(語り手(書き手)青年は「先生」を理解しているのに、理解していないふりをしている)
第三の「語り手(書き手)青年の「その後の物語」の位相」。
「こゝろ」冒頭では、この青年の「手記」であること、そしてこの「手記」を公表するつもりで書いていることが書かれている。
(この辺りp210-211のまとめ)

 ただし、第三の位相を紡ぎ出すのはいわゆる「テクスト論」の仕事なので、ここでは第一と第二の位相について考えておこう。
(p211)


とある。
要するに、自分が「いわゆるテクスト論」をわかっていないだけの話なのだが、第一、第二の位相もテクスト論の範囲ではないのか、とただ漠然と思っていたから、ますます謎?は深まるばかり…

この「漱石と三人の読者」という本は、タイトルからすると「読者論」のようだが、実際はどう読まれたかとかの「読者側」より、読者を自身の小説にどう組み込むのかという「作者、テクスト」側の論になっている。だから余計に「これはテクスト論ではないの、ではテクスト論とは一体何?」的な疑問湧いてくる。
このp210-211の例でいうと、「テクスト」の外部、外挿の行為が「テクスト論」というように読めるのだが…
(というか、論者によって、大きなブレがこの辺ありそう)
…長々、補足を失礼…
(2022 03/20)

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