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「またの名をグレイス(上)」 マーガレット・アトウッド

佐藤アヤ子 訳  岩波現代文庫  岩波書店

文紀堂書店で購入。
(2023 04/01)


第1章「ギザギザの縁」、第2章「石ころだらけの苦難の道」

3ページの断章(第1章)、たぶんその頃流行ったグレイスに関する歌(第2章)なので、とりあえず物語が見え出すのは第3章から。章の前には、同時代のいろいろな人の言葉が置かれている。エミリー・ディキンソンはその中では重要な位置を占めていそうで、アトウッドはディキンソンとグレイスを並べて見ているのではないか。

第3章「隅っこの猫」


(章の下の節の数は第1章からの通し)
語りはグレイス(とりあえずこの名で)本人の一人称、時は1859年。事件(殺人犯したらしい?)から何年か経過して、今は服役している身であるが、懲治監長の夫人の取り計らいで夫人の女中みたいなことを昼間はしている(元々事件を起こしたトマス・キニア氏の屋敷でも女中だった)。

 足を見せないで漂う。白鳥のようだ。あるいはうちの近くの岩だらけの港にいたクラゲのよう。まだ私が子供の頃、長くて悲しい航海をする前のことだ。鐘の形をしていて襞淵があり、水中で淑やかに揺れてきれいだった。でも浜に打ち上げられて陽に干されると、影も形もなくなった。淑女なんてそんなもの、中身はほとんど水。
(p24)


ここで喩えられているのは、当時流行の淑女の広がったスカート。またこの後では鳥籠に籠は檻に連想される。淑女の脚は殺されたナンシーの発見された時の脚をも連想する。

 皆どうしてそんなに覚えていてもらいたいのか、私にはわからない。どんないいことがあるのだろうか。誰からも忘れられるべきことがある。そして、二度と口にされないことが。
(p32)


アトウッドはその「忘れられるべきこと」を書くのだろうか。それとも違うのか。

 独りぼっちでこの部屋に置き去りにされたくない。壁は空っぽすぎる。絵もなければ高い小窓にはカーテンもない。見るものが何もないから、壁を見つめる。しばらくそうしていると、やがて絵が見えてくる。赤い花が生えてくる。
(p44)


前の文章からこの文章の間に、節が変わり、前節最後で訪ねてきた医者に叫び声を挙げた(医者の手を「生肉が詰まった手袋みたいな手」と言っている)グレイスは、取り押さえられ、牢獄に入れられている。このp44の文章は次の章冒頭のp61のディキンソンの詩と連動している。
この節で、この時代の狂気の考え方取り扱い方、骨相学に精神医学の杜撰さが暴き出される。ウルフやら(作者の名前は出てこないが黄色い部屋とかいう短編の人とか)、またはフーコーとか…ここではp46でバナリング先生なる医者から襲われそうになり彼の指を噛んだ(ここで前節の叫び声、そして手の比喩の意味がつながる)ことが書かれている。
そして次の節では別の医者、サイモン・ジョーダンが入ってくる。今度の医者は今のところグレイスと対話し、グレイスも叫んだりはしない。彼は「君に話す気があるなら、聞こうと」と言う。するとグレイスは…

 嘘をつくかもしれません、と私は答える。
(p57)


ここで、そう答えているのはグレイスだけではないはずだ。作者マーガレット・アトウッドもそう答えている、と思う。
それに対するジョーダンは「そうかもな」と答える。読んでるこっちも、アトウッドに対して「そうかもな」と思う。
もちょっと読み進める。

第4章「若い男の夢想」


第6節は、これまた手法を変えて書簡集。そこからジョーダン医師の背景を炙り出す。物語とは直接関係ないけれど、ここで出てくるビンズワンガー博士(ジョーダンがヨーロッパで知り合い(師事?)らしい)って、ちくま学芸文庫のフーコーコレクションの第1巻で出てきたあの人物?
第7節は、通常語り(三人称)になって、サイモン・ジョーダンの背景続き。繊維工場(前の節で母親がミシンについて言っていたのはそのせいだったか)の経営者の父、そして家は落ちぶれて…といったところ。現在のキングストンの下宿、その女中のドラに対して結構酷いことを言っているのが(お互い様だけに)笑えるが、この時点でのジョーダンは自分の位置が定まらない、緩慢な危機の状態でもある。
ジョーダンは下宿の窓からオンタリオ湖を眺める。

 執拗なまでに水平的で、感嘆して眺めるような景色ではないが、見た目が単調なものは時には思考を促すことがある。
(p76)


またまた好みな文章。これからどう発展していくのか。
今日最後に第10節から気になる箇所を。ジョーダンはベリンガー牧師の牧師館へ招かれる。

 サイモンは図書室へ案内される。ふと放火してみたくなるようなしゃちほこばったまさにそんな図書室である。
(p112)


そんな重要でもないような箇所だけど、そこに納まらない過激な物言いである。ここは三人称語りだけど、ジョーダンの視点が若干入り込んでいるようだ…だとしたら、穏やかそうに見えるジョーダンもそれだけではない人物なのだろう。
もっともこの小説全体的に、急に感情が噴出する文章が出てきて戸惑う箇所がある。例えば、その前、p91でグレイスが二人の男の看守とともに監長邸まで行く場面の最後に、グレイスの一人称で罵り言葉が出てくる。もちろん、ジョーダンの心情でありグレイスの言葉であるだろうけれど、それだけではない、作者アトウッドの配慮というか狙いというか何か(捨て台詞?)か、とにかくある。
(2023 12/03)

 注意を払うまいとするが、たえず彼女の匂いが気になって仕方がない。煙の匂いがする。煙、洗濯石鹸、塩の匂いがその肌から漂ってくる。肌そのものの匂いがする。湿っぽい、豊満な、熟した地肌。何だろう? シダとキノコ、潰して発酵した果物。
(p136)

第5章「割れた皿」

 ジョーダン先生は私の向かいに座る。イギリス風な、髭剃り石鹸、耳、そして長靴の革の臭いがする。心が落ち着くような臭いだから、嗅ぐのが愉しみだ。
(p142)


p136とp142、双方の文章は、グレイスとジョーダンの対話を、双方から書いてきたもの。双方とも相手を匂いから読み取ろうとしていたようだ。
(2023 12/04)

グレイスの一家の、北アイルランドでの生活、そしてカナダへの大西洋航海、その途上での母の死、トロントに着いて住み込みの女中として働きに出るまで。前に挙げたp24の文に出てきたクラゲは幼い弟妹を連れて港へ来た時の話、悲しい航海は母を亡くしたカナダへの航海。
ずっと、ここはジョーダンにグレイスが語っているところなのだが、果たしてこんなに明瞭に話せるものなのか、まるで小説の語りみたいではないか(まあ、実際そうなのだが)とも思えなくもないが、ジョーダンはグレイスのことを冷静だと判断しているし、今はこのまま読み進めてみよう。あの事件に近づくに連れ、割れた皿のような断片が増えてくるだろう。たぶん。

 実は、幼い弟妹たちを桟橋に、裸足の脚をだらんとたらしながら一列に座らせた時、私の頭には邪な思いがありました。一人か二人、背をちょっと押せば食べ口が減るだろうし、洗濯する服も減るだろう、と思いもしました。
(p161)

 私は重い鉄鍋のことを考えるようになりました。そして眠っている間に父の上に落とせば、頭蓋骨がぱかっと割れて、殺せるだろうし、それに事故だと言うつもりでした。
(p198)


仕事もせずに、母の形見の品を酒代に売っては飲む父親に対して…しかし、明瞭な語りの中に、たまに差し込まれるこういった思い。誰しも何かしらのこういった側面を持っているとは思うが…ひょっとして、ジョーダンの欲しそうな情報を小出しにして狙っている? 何を?
それはともかく、グレイスは弟妹たちに再会はできたのだろうか。できなかったようにほのめかされてはいるけれど。
(2023 12/05)

第6章「秘密の引出し」


ここからは、グレイスがパーキンソン家に住み込んで女中として働くところ。これまでで一番明るく楽しい章。それはひとえにすぐ年上でいろいろ教えてくれる楽しい友人メアリー・ホイットニーのおかげ。このメアリー・ホイットニーという名前は、グレイスが例の事件の後に使っていた名前。ということは、第6章のメアリーは事件の時点では既にこの世にいないということに(りんご占い?の場面でそれを暗示させている)。

グレイスがその話をする前、ジョーダンの下宿での話が挟まる。下宿のハンフリー夫人が彼の朝食を持っていく途中で卒倒してしまう。今まではドラという女中の仕事だったが、夫人の話では、夫のハンフリー少佐がお金を持ったまま逃げてしまい、ドラには給金払えずなんと殴られてしまい…ということらしい。ジョーダンは彼女を彼のベッドで寝かせたり、その後、市場で食べるものを買ってきて夫人に食べさせ、2か月の家賃先払いをすると言う。ここで、ジョーダンが市場で物の買い方がわからない(市場にいるのは女中か貧しい家庭の女)とか、火の起こし方がわからないというのが気になるポイント。今よりもっと格差社会かつ男女隔離社会では、こうなるのか…今までのこういった小説ではあまり描かれない場面の生き生きした描写と、何もできない男(できるのは飲んだくれたり、持ち逃げしたり、だけだ)。

さて、グレイスとメアリーの話では、これも表階段ではない裏階段を使う人々の、今までは見えていなかった情景を描きながら、楽しいエピソードが語られていく。

 結局は私たちの方があの人たちより有利なの。彼らの汚れものを洗濯するから、あの人たちのことは私たちはよく知っている。でもあの人たちは私たちのものを洗濯しないから私たちのことは何も知らないわ。
(p240-241)


ちょっと前で、「あの人たちは火一つ起こせやしない」と言っている。これらメアリーの言葉は、前の節のジョーダンの行動に照応し合っている。

 ベッドで起こるかもしれない危険なことがたくさんあります。ベッドは私たちが生まれる場所です、つまり人生最初の危機に遭う所です。また女はベッドの上で出産し、それが元で死ぬこともよくあります。今はっきりとは言いませんが、おわかりのように、女と男の行為が行われる所です。それを愛と呼ぶ人もいれば、絶望と言う人もいます。あるいは単に耐えしのばなければならない屈辱的な行為と考える人もいます。そして最後にベッドは私たちが眠る場所、夢見る場所、しばしば死ぬ場所です。
(p245)


今度はグレイスがジョーダンに語っているところ。ここのベッドも先程ジョーダンが夫人を寝かせたベッドを思い出させる。それにこの前の場面で、グレイスとメアリーは街の娼婦街を散歩したりしているし、
(2023 12/06)

 彼女の体臭はナツメグから塩漬けの魚の臭いに変わりました。
(p265)


楽しかったクリスマスの思い出が過ぎて、メアリーの調子がおかしくなっていることに、グレイスは気づく。その時の文章がこの文章。臭いに敏感なこの小説ならではの文章。
メアリーはこの頃から妊娠していて、男は逃げ出していて、身の振り方に困ったメアリーは堕胎しに医者のところへ行き(第3章で医者を見て失神してしまったグレイス、その原因がここにある)、それが原因で翌朝ベッドで亡くなる(p245の文章も思い出される)。パーキンソン夫人が来て、叱ると思いきや、最後はうやむやにされる…やはり、メアリーの相手は息子のジョージなのだろう…グレイスは死んでいるメアリーの声が聞こえたような気がする。
そして、血などの洗濯などを済ませた後で、使用人たちを呼んで、メアリーが死んだことを知らせる。

 その場に相応しく、泣いている者も、悲しげな顔をしている者もいました。それでも死の周りにはいつも不思議な興奮があり、普段よりみんなの血管に血が強く流れているのが見えました。
(p277)


グレイスはよく見えているというか、感じているというか…こうした体質?体験?が、この後の展開にも響いてくると思われる。
(2023 12/07)

第7章「スネーク・フェンス」


(スネーク・フェンスとは田舎の屋敷の柵のことらしいが)
前半では、トロントの街の賑わいと様子から2箇所。

 お使いで外出すると町にはたくさん見る物があり、時には見せ物やお祭りがありました。他にも街頭説教師や、路上で歌って投げ銭をもらう男の子や女の人がいました。私は火を食う男や、声をはりあげる男、数を数えることができる豚、口輪をはめて踊る熊、といってもよろめいているだけなのですが、そんなものも見ました。浮浪児たちは棒で熊をつついていました。
(p311)


1840年頃だから、江戸時代後期、そう考えると結構似ている光景かも。世界的大都市でもあった江戸と、多分そこまででもないトロントだけど…ただ、「声をはりあげる男」って何。この並びだと商売か少なくとも見せ物らしいが。
あと、ここの熊もロマ達の見世物だろうか?

 ときどき条約金を取りに来ていたので、インディアンはトロントで見かけたことがありました。パーキンソン市会議員の屋敷の裏口に籠や魚を売りに来るインディアンもいました。彼らは無表情なので、何を思っているのかわかりませんでしたが、でも立ち去るように言われれば、帰りました。
(p317)


こんな街の一コマも垣間見られて楽しいが、このインディアン達はひょっとしたら元々その場所に住んでいたのかもしれない。何かを売る口実でただそこにいたかったのかも。そして無表情なのは、たぶん策略からだろう。と深読みしてみたが、どうだろう。とにかく、アトウッドが先住民の立ち位置を作中に残しているのが考えるべきポイントであると思う。
今日読んだところの最後は、パーキンソン夫人の屋敷を出てから、数々の屋敷を女中見習いとして移っていき、最後にナンシーと会って、彼女が勤めるキニア邸に向かったところ。ナンシー、キニア、そしてマクダーモット。この屋敷で会った人々は、事件の6か月後にはグレイス以外いなくなってしまう。グレイスは当時を思い出しつつ妙な気になる。
(2023 12/08)

 先生のような男たちは自分が散らかしたものを片付けなくていい、でも、私たちは自分の散らかしたものも、おまけに彼らのものもきれいにしなければならない。そういう点では彼らは子供みたいで、見越して考えたり、後のことも気にかける必要もない。でもそれは彼らのせいではない、育ち方によるのだ。
(p333)


申し訳ない…散らかしっぱなしは自分もそう…
よく古典作品でいろいろな悲劇の場面があると思うが、そこで出てくる様々なもの(例えば死体とかゴミとか)片付けているのは誰かと考えながら読み返すのも有意義だろう。

 まあ、子供っぽい空想です、子供は見えないものについて自分でお話を作るのが好きですから。
(p351)


それはアトウッド自身にも当てはまるのだろう。もちろんそれだけではないだろうが、底の底にはそれがある。

 やがて夕闇が深まりました。木々や灌木の背後からも、畑の向こうからも闇が広がって、一つに繋がりました。水のようだと思いました。地面から湧き上がるように、海のようにゆっくりと満ちるように。私は夢想にふけって、大海原を渡った時のことを、また一日のその時刻に海の色と空の色が同じ藍色になってゆき、始まりと終わりの区別がつかなくなってゆくのを思い出していました。思い出の中では、これ以上ないほど真っ白な氷山が漂っていました。暖かい夕べなのに、寒気をおぼえました。
(p362)


ナンシーとマクダーモットとジェイミーとそしてグレイスが一時一緒にいて、夏の夕暮れにジェイミーのフルートを聴いている。軽口を言っていたマクダーモットですら聴いている。ここで時間が止まればいい、というグレイスの願いにあるように美しい場面、それはこの後すぐに壊れることを気づいているから。彼らも読者も。そして、ここで上巻終わるとは出来過ぎにも思うのだが…
氷山は、大西洋航路で母が亡くなった時の光景。海の色と空の色、始まりと終わりが一体化する世界は、また生と死も重なっていく…
(2023 12/09)

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