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「弓と竪琴」 オクタビオ・パス(後)

牛島信明 訳  岩波文庫  岩波書店

長いので前後編で(それでも長い)。
今年読んだ「泥の子供たち」と並ぶパスの詩論(こちらの方が早い)。
「弓と竪琴」の邦訳は、最初は国書刊行会のラテンアメリカ文学叢書(1980)、続いて訳者も改訂に関わったちくま学芸文庫版(2001)、そしてこの岩波文庫版(2011)。岩波文庫に入れるにあたり、既に訳者は故人となっていたので、ちくま学芸文庫版のあとがきは割愛し、山口昌男の論考を収録。



声の既視感

 引き絞られた矢であり、発射されて常に空を切り、常に自らの前にあり、自らを自らの彼方に投げ出している矢である人間は、不断に前進しては倒れるが、一歩ごとに〈他者〉であり、また彼自身である。
(p301)


自らから一旦離脱して他者の声を聞くことを、このような比喩で…「弓と竪琴」だけど、弓より矢が先に出てきた。

 わたしを呼んでいる。しかし、その未知のものは親密なものであり、それゆえにわれわれは、回想の知識で、その詩の声がどこからやって来て、どこへ行くか確かに知っているのである。わたしはかつてここにいたことがある。生地の岩崎は、いまだにわたしの足跡をとどめている。
(p309)


昨日書いた〈声の既視感〉はここに繋がる。他者の声として聞く自分の声。そしてこの文章のあと、また「君」が出てくる。6行くらい、次のp310入ってすぐのところまで「君」が続き、そこで何かが裏返って、そして元に戻って「あなたがた」になる。
「インスピレーション」の章、そして「詩的啓示」の部が終わり。

「詩と歴史」の部の「瞬間の聖化」

 人間の創造するものがすべてそうであるように、詩もまた歴史的所産であり、時と場所の息子である。しかしそれは、歴史的なるものを超越し、あらゆる歴史以前の時、始原の始原に位置するものでもある。
(p317)


詩は社会的産物であるのと同時に、その社会の始原をそこに書き留めている。
(2022 09/12)

 もし歴史の本質が、ある瞬間から他の瞬間への、ある人間から他の人間への、ある文明から他の文明への継起にすぎないとしたら、その変化は画一的なものになってしまい、歴史は自然と変わらなくなってしまうだろう。
(p322)

 そして、瞬間を瞬間たらしめ、時間を時間たらしめるのは人間であって、彼がそれらと一体になって、それらを唯一絶対のものにするのである。
(p322-323)


章タイトルにある「瞬間の聖化」とはこうしたものを指すのであろう。ここで出てきた歴史の二重性は、今まで事あるごとに言われている詩の二重性と大いに重なるのだろうけれど、違いもあるのかな。今現在は何も浮かばないが…
「瞬間聖化」読み終わり。そして、この部の後続章では、ギリシャの悲劇・叙事詩、小説、近代抒情詩を取り上げていくという。小説と近代抒情詩は、叙事詩というジャンルの「例外」なのだという。
(2022 09/13)

「英雄的世界」

まずはギリシャ、ホメロスと三大悲劇詩人。最初にギリシャには、自然信仰と祖先の墓信仰があった。が、後者が廃れ、また小アジアイオニア海沿岸に移住してきたギリシャ人たちは、祖先の墓と断ち切られ、この祖先達が「英雄」となった。という流れ。
アナクシマンドロスの有名な断章

 事物は、互いに犯し合っているそれぞれの不正に対し、〈時間〉の命ずるところに従って、罰を受け、罪を償わなければならない
(p339)


これは因果関係に基づいた科学的考察でも、道徳的考察でもなく、事物どうしが相互運動の中で行き過ぎを抑えていく、という。これにヘラクレイトスはこうつなげる。

 アナクシマンドロスの格言-すべての事物は自らの行き過ぎを償う-はすでに、ヘラクレイトスのポレミックな存在論-宇宙は弓や竪琴の弦のような、緊張状態にある-の萌芽を孕んでいた。世界は、「変動しつつ静止する」のである。
(p341)


そう、タイトルの「弓と竪琴」初見。これはヘラクレイトス由来なのか。弦楽器(ピアノも)は、普段あまり気にしないけれど、常に張っている状態にある…
三大悲劇詩人からは、今まで読んだことのないエウリーピデース。

 彼は悲劇的緊張を破ることによって相対論と心理学への扉を開き、存在の理念の基盤を侵食してしまった。しかしわれわれは、エウリーピデースがまた、人間の潔白をも主張したことを忘れるわけにはいかないだろう。
(p347)


ここはアイスキュロスやソフォクレスとは違う考え。人間は潔白であるのに、罪を負っているのならば、それこそ悲劇ではないだろうか…というところから、それ以降の演劇につながっていく。
(2022 09/14)

演劇について

 古代ギリシャ人にとっての〈運命〉、そしてスペイン人にとっての神に似て、人間の本性は曖昧な神性である-
(p362)

 シェイクスピアやウェブスターの主人公たちは、ことばの最も根源的な意味において孤独である。なぜなら、彼らの絶叫は虚空に消えてしまうからである。神も〈運命〉も、すでに彼らの空から姿を消してしまっているのである。神々が姿を消すことによって宇宙は統一を失い、偶然が跋扈するようになる。
(p362-363)


カルデロンなどのスペイン演劇から、シェイクスピアのイギリスエリザベス朝演劇まで。
(2022 09/15)

まずは、シェイクスピアやラシーヌの時代の演劇から。

 ヨーロッパ文学は一体をなしており、それを構成している各国の文学は、その全体の中に位置づけられてはじめて、十分に理解されうるのである。
(p365 注)


文学という視点から見れば、この時代はそうらしい。彼らはデンマークからスペインまであるとあらゆるところのテーマを共通財産として使っていたという。このことはパウンドが指摘している、と本文中に、上に挙げた注ではクルティウス「ヨーロッパ文学とラテン中世」が参考として挙げられている。

 状況-もしくは、その中で主人公たちが動き回る、複雑に絡み合った事情と関係-が、神と必然性にとって代わる。そして、与えられた状況に対する個人的反応たる性格が、自由の占めていた位置を占める。この意味では、シェイクスピアもラシーヌもすこぶる近代的である。しかし、シェイクスピアの宇宙は反逆する激情の宇宙である。そして、他ならぬその反逆が彼の宇宙に悪魔的な、すなわち、神聖な性格を与えている。ラシーヌ劇における感情の高揚はすさまじいが、それが超人間的な調子を帯びることはまずない。
(p367)


シェイクスピアに関しては、少しだけしか読んでいないながらこの文章はよくわかるのだが、ラシーヌは読んでない…この章最後は、「人間の〈非現実性〉をもっとも徹底して明らかにした劇詩人」ピランデッロで締められる。ピランデッロも演劇集1冊買ったまま…

「小説の曖昧性」

 革命とはすべて、冒瀆であり、同時に聖化である。
 革命運動は古い偶像をひきずり降ろすのであるから、瀆聖行為である。しかし、この権威剥奪には常に、それまで異端と見なされていたものの聖化が伴う
(p373)


ただし、近代においては、その聖化に失敗している。初期にあった一連の聖化の試みは、理性を宗教化しようとするコントなどの試みなどは「歴史の生きた空気に触れるやいなや崩壊してしまった」(p374)。そこに意識に空白が生まれる。あと、この辺りからあとの革命論では、パスの政治的信条の変遷が見られそうな箇所。初版とその後の版を見比べることができれば。

 人間を社会の基盤として聖化することの不可能性なのである。この聖化の不可能性は、旧勢力を打倒するために用いられた手段-批判精神、理性的疑念-そのものの性質によるものである。
(p377)


…この辺も前の文章に引き続き、バーガー「聖なる天蓋」の問題意識にも通じそうな箇所ではあるが、果たしてパスとバーガーの論点は収束するのであろうか、それとも真っ向から対立するものなのであろうか。個人的な今の感覚では、おおまかには対立関係にありそうだが、細かいところ及び依り立つ原理の大元のところでは共通する場面もありそうな気もしている。

 かくして、彼は一方で、想像し詩化しながら、他方では、場所、事実、そして人間を記述する。彼の作品は詩とも歴史とも、そして、神話とも心理学とも境を接している。リズムと意識の検討であり、また批判とイメージである小説は、曖昧である。その本質的な非純粋性は、それが散文と詩、そして概念と神話との間を、絶えず揺れ動いていることに由来する。
(p381)


「彼」は小説家。小説の存在価値の一つは、この隣接性そのものにあるのだ、ともいえよう。

 双方の融合によって解消されるのである。その融合がユーモアであり、アイロニーである。アイロニーとユーモアこそ近代精神の偉大な発明である。それらは悲劇的葛藤にとって代わるものであり、それゆえ、われわれの偉大な小説の数々は、ギリシャ演劇との隣接を拒むのである。アイロニーによる融合は、あらゆる有効な結末を妨げる仮の統合である。小説の葛藤は、悲劇的芸術を生み出すことができないのである。
(p386)


ユーモアとアイロニー、これらのキーワードは「泥の子供たち」でも出てきた。小説と悲劇は普通には親しいものだと思われているが、意外にも反発しあうものであるようだ。
20世紀に入って、小説や演劇は詩の方向へ舵を切った。小説ではジョイスやカフカらが、演劇ではクローデルやブレヒトらがそれを行う。「しかし、詩の勝利は近代の消滅の徴候である」(p392)
(2022 09/18)

「実体のないことば」

 詩人は聖典から誤りを一掃し、それまで罪と読まれていたところには潔白を、権力と書かれていたところには自由を、永遠と刻まれていたところには瞬間を書きつける。人間は自由であり、欲望と想像力が彼の両翼である、そして、天は手の届くところにあり、それは果実、花、雲、女、行為と呼ばれる。
(p404)


詩人とはウィリアム・ブレイクのこと。この後書かれるドイツ・ロマン派(ノヴァーリスとヘルダーリン)にも同じ特徴が見られるという…詩の歴史(ガイドのようなもの)ないかな。ブレイクとイェイツどっちが先?というくらいなので…

 自己の具体的な、そして歴史的な実在を失い、石と金の都市にたたずむ亡霊となった詩人は、手をこまねいて、ただ、われわれは何かから根こそぎにされ、虚空の中に-歴史の中、時間の中に-放り出されていると感じるのである。自分自身から、そして自分の仲間から追放された詩人は、孤独の究極点に到達しない限り、この処罰は終わらないだろうと直感する。
(p413-414)


古代の詩人-ホメロスとかウェルギリウスとか-には、社会に居場所が確保されていた。近代になり、宗教から自己の存在理由を奪い取った哲学や科学は、また詩人の居場所も無くしてしまった。近代詩人の苦悩はそこから始まる。

 わたしは、その(自動記述)実効ある実践は不可能だと言いたい、なぜならば、それは個人の存在と、常に社会的であることばとの同一性を前提としているからである。言語の曖昧性は、まさしくその対立の中にあるのである。
(p419)


自動記述の目論見がもし達せられたとするなら、それは雲霧消散してしまうだろう。パスは(シュルレアリスムから出発したとがいえ)自動記述の方ではなく、言語の曖昧性の方に賭けている。

「エピローグ」…「回転する記号」

 日々の新しさはついに繰り返しとなりはて、動揺も静止へ向かう。われわれはどこから出発しているわけでもなく、どこに行き着くわけでもない。「地獄の罰、それは円の中の運動のようなものだ。」とラモン・リュイは言った。
(p431-432)


ラモン・リュイ(1233-1315)はスペイン、カタルーニャの神学者…この円環運動を地獄と見る近代詩人がランボーであり「地獄の季節」である、というのがパスの見立て。

 自我の増大は、言語を二重の機能-ダイアローグとモノローグ-において脅かす。ダイアローグは複数性に依拠し、モノローグは同一性に依拠している。前者の矛盾は、各自が他者と話す時に、自分自身と話していることにあり、後者の矛盾は、わたしがわたし自身に向けて言うことを聞いているのが、決してわたしではなく他者であることにある。詩は常に、ダイアローグのわたしをモノローグの君に変えることによって、この不調和を解決しようとする試行であった。
(p439-440)


自我が解体する、それはなくなるのではなく、増殖する。違いはなく繰り返しである。閉じこもり、他の自己と無闇に戦う、「同一物の繁殖、蔓延」(p439)
そうした増殖した自己が、ダイアローグとモノローグに歪みを与える、というのが上の文章。

 過去の作品は、ことばの二重の意味において、宇宙の原型の〈レプリカ〉であった-普遍的なモデルの模写と世界に対する、宇宙が自身に向けて歌う詩に対する、人間の返答。世界の表象および世界とのダイアローグ-前者は宇宙のイメージの再生であるがゆえに、そして後者は、人間と外的現実の交点であるがゆえに。
(p443)


スペイン語での〈レプリカ〉は、「返答」という意味と「模写」という意味がある。ここ読んで、自分は例えば教会のカテドラルが宇宙観の現れであり祖型であるというのを思い出した。

 その記号(科学技術の)は言語ではなく-人間と未踏の現実の間の、絶えず動揺している境界を示すしるしである。科学技術は、あらゆる神話から想像力を引き離し、それを未知のものに直面させる。それを科学技術自体に直面させるのだが、そこには世界のイメージが欠如しているものだから、想像力がそれ自身で形をとるようになる。こうして形づくられたものが詩である。科学技術の記号と同じく、形状の定かならぬものの上に植えつけられた詩、絶えず手もとをすり抜けてしまうような意味を探し求めている詩は、空虚な空間であるが、緊迫感によって充塡されてはいる。それはまだ実在ではない-自身の意味を探求しつつある、そして探求以外、何も意味することのない記号の群れである。
(p444-445)


これは近代以降の詩…もっと言うと現代20世紀(以降)の詩についての言及であろう。

 われわれの日々の行為によって織りなされた体験である〈他者性〉は、何よりもまず、われわれがわれわれ自身であり続けながら他者であること、また、われわれが今いる場所にいつづけながらも、われわれの真の存在は他の場所にあることの同時的認識である。われわれは他の場所なのである。つまりわたしが、今しもここで、これを、あるいはあれをしながら、他の場所にいることを意味する。また、わたしは、常にここであるどこか知らぬ場所で、孤独であり、君と一緒にいる。ここで君と一緒にいるのだ。君とは誰だろう? わたしは誰だろう? われわれがここにいる時われわれはどこにいるのだろう?
(p449-450)


ここに至って、「君」は、個人的体験を通り越して、誰にでも潜む他者への呼びかけとなる。最近読んだので、今ここでは自分はレブレーロの「場所」を思い出した(あの小説、結局自分の部屋から一度も出ていないのだろう)けれど、こうした例はもっとあるはず。
(2022 09/19)

 「偶然というものの存在の前では」と『イジチュール』の原稿は言う。「否定も肯定も暗礁に乗り上げてしまう。偶然は〈不条理〉を包含している-〈不条理〉を孕んでいる、しかし潜在的な状態であって、それが存在するのを妨げる。かくして〈無限〉の存在が可能になるのである」。
(p459)


この節は、マラルメの「骰子一擲」。
(2022 09/20)

 今日では、空間が動き、起きあがり、そして律動的になる。従って、話しことばの復活は過去への回帰を暗示しない-空間はより広大な別のものであるし、何よりも、散乱したものとなったからだ。それは運動する空間、回転することばになっている。複数の空間に、そしてことばの三角州のような、中天で破裂する世界のような、新しい語句になっている。内部の、そして外部の空間にさらされたことば。脈動の中に取りこまれた星雲。太陽のまたたき。
(p472-473)


このエピローグ章のタイトルにある「回転」することばが出てきた。この文章の後半は…論ではなく詩そのものである…という感じ。詩の読者は、お互い孤立しているけれど、古代の共同祭祀のような、そのような共同行為である、と今日読んだところのどこかに書いてあったのだけれど、見つからない。ひょっとして次の補遺にあったのかな。
というわけで「弓と竪琴」本編は読み終えた。
及び補遺の「詩、社会、国家」まで読み終えた。
(2022 09/21)

補遺から

今日は補遺の「詩と呼吸」、「アメリカの詩人、ホイットマン」及び牛島氏の「オクタビオ・パスについて」を読んだ。あと解説と補論を残すのみ。
昨日の「詩、社会、国家」は大雑把に言って、国家というものが芸術の創造元になったことはない、という内容。今日の「詩と呼吸」は詩の朗読の高揚は、呼吸で一続きとか発音とかいう要素だけではなく、それらも含んだ呼応、照応の一連の流れから来るという内容。

「アメリカの詩人、ホイットマン」に関しては、

 そしてわれわれの大陸は、その固有の性質ゆえに、それ自体で存在するのではなく、創造され発明されてゆく何かとして存在する大地である。
(p502)

 アメリカは存在しなかった。そしてそれは、黄金時代に向けて進行中の歴史である限りにおいて、つまり、ユートピアである限りにおいて存在する。
(p502-503)

 もしアメリカの現実が不断の自己発明であるとするなら、いささかなりとも、他に帰しえないような、あるいは同化しえないようなところの見えるものはすべてアメリカ的ではない。
(p505)


アメリカ大陸は、コロンブスの〈発見〉以前から、ヨーロッパの歴史を一切持たないユートピアとして霧の中にあった、という。
時間の剥奪されユートピア化したアメリカ大陸の中で、時間を過去・現在・未来を取り戻そうとした運動がメキシコ革命だったという。
アメリカのユートピア幻想、それを夢を見て書いているホイットマン。その他のアメリカ大陸作家では、ポー、ダーウィン、メルヴィル、ディキンソンらはアメリカの悪夢から逃れようとしているという。
(2022 09/22)

松浦寿輝と山口昌男の論考(主に後者)

昨夜、松浦寿輝の「大いなる一元論」読んで、とにかく大鉈で密林を進んで綜合していくパスの視覚的イメージが残り、今朝6時半に起きて、残りの山口昌男の「オクタビオ・パスと文化記号論」を読んでやっと読み終え。
この山口昌男の論考は、山口氏の岩波現代文庫「文化の詩学Ⅰ」から録ったもの。この論考自体は1978年の山口氏の学内講演をもとにしている。
というわけで…

 記号そのものは、反記号を対として持っており、それを排除することによって成立しているのですが、所詮は、反記号も潜在的な部分を構成していて両者は通底し合っているということ
(p537)


反記号なんて概念自体知らなかった(物理学の反物資とか連想するけど)…記号(例えば単語)はその反対の意味を含み持つというわけか、論理学的構図と違って人間の認知は隣接するあらゆる概念を引っ張り出してくるだろうし。とにかくこれが換喩とか類似性につながるという。
この想像力が活性化すると現れる「メタ・アイロニー」は「断定と否定の彼方にある領域で、一種の活性化された宙吊りの状態」(p544)とパスが述べているという。

 中心の構造化された部分において、ことばは一義的で相互排除的です。周縁にある「有微」のことばは、多義的です。したがって後者は、中心の圏内にありながら論理的に相互排除的なことば(あるいは概念)を仲介するとともに、それ自体が潜在的に前者のことばの「ネガ」になっている。
(p547)


「有微」というのも初だが、山口氏といえば、の「中心と周縁」につながっていく。先程の反記号は記号単体、こちらは記号構造全体という見分け。

 言語の役割りは意味を指示し、それをコミュニケートすることにある。しかし我々近代の人間は記号をその意味のレヴェルだけに、コミュニケーションを情報のレヴェルだけに還元した。我々は記号は自然の事物であり五感に働きかけるものであるということを忘れた。
(p551)


パスの「結合と分離」より。その重層性こそを、身体と記号との結びつきを、文化記号論は探究しなければならない、と山口氏は言う。
他にもあるけれど、この辺で(この岩波現代文庫は今は出ているのかな)…
(2022 09/23)

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