「決闘・妻」 アントン・チェーホフ
神西清 訳 岩波文庫 岩波書店
…まずは釈明。旧仮名遣いと旧漢字もろとも(例:ボオイ→ボーイ)などは自分でわかりやすいように直しています。本物の神西訳はぜひ文庫であたってください。ごめんなさい。
「決闘」
「決闘」第1章のこのライェフスキイの言葉は、読者にとっては逆に見える。ライェフスキイが前者、サモイレンコ(軍医)が後者。こういうのは作者チェーホフの読者に対する揶揄というサービスだろう。
次はそのライェフスキイの人物評を、若い動物学者のコーレンが述べるところ。
これより前の若い時代の、チェーホフがユーモア短編を書いてたのを思い出す。チェーホフって普通のイメージよりは結構笑える作家なのでは?
…とにかく、このライェフスキイとコーレンという二人が、決闘騒ぎを起こす、というのがこの小説(チェーホフとしてはかなり長い文庫で200ページ)の内容。
(2021 04/17)
「アンナ・カレーニナ」を下敷に
ライェフスキイとコーレンの決闘話が持ち上がるところまで。下の文章はライェフスキイの決闘前夜の精神状態の一部。一方、上の文章はナジェージダ(ライェフスキイの同棲相手)。この主筋の裏で、警察署長?キリーリンと2晩だけ逢引する。その現場をライェフスキイに立ち合わせる男もいて…
列車に轢かれる人妻への言及が何箇所か見られ、「アンナ・カレーニナ」を下敷きにしていることを明確にしている。
(2021 04/19)
決闘の文学
コーレンの言葉から。ライェフスキイとコーレンの意見対立…小説読んでる一読者としては、どっちかというとコーレンに傾いている。もちろんコーレンの社会ダーヴィニズムは危険であるけれど。
この文読むと、ニーチェそのものではないか、とも思う。チェーホフはダーウィンだけでなくニーチェも研究していたのだろう。あと…ヒトラーとパウンドとそれからコーレンの三人で居酒屋とか行ったら、誰が中心になるだろう、そして誰か一人はこういう仲間が嫌になって思想から降りそうな気もするけど、誰だろう。
チェーホフの前の作品に似たような対立構図のものがある、というから追い続けてきたテーマなのだろう。こういう対立から決闘という構図は「魔の山」に受け継がれる…決闘が時代遅れの手段というのが、十九世紀のこの時点でも明記されているのにかかわらず…パロディとしての構図なのだろうか。
(2021 04/20)
決闘とケルバライ
決闘ってどう進行するんだっけ…となんだかなしくずし的な始まり方に苦笑…
決闘がコーレンの弾丸がほんの少しだけライェフスキイの首筋にかすっただけで終わった後、輔祭がケルバライの茶屋に立ち寄る場面。ここは前にピクニックの場面でも出てきたとこ…うーん、貧乏人の方が異教徒とかに喧しいような気も正直するけど、まあここは丸く収まる話と、それからチェーホフを信じましょう…
最終章では、ライェフスキイは真面目にコツコツ働くようになり、船で旅立つコーレンを見送る。
ということで、「決闘」を読み終わり。
(2021 04/21)
「妻」
上の階…夫、下の階…妻
前篇と同じく1891年作。農村を飢饉が襲い、夫はある程度の金額を寄付すればいいという考えだったところ、どうやら下の1階室で夫抜きで救援活動の委員会が開かれていた…という幕開け。
夫からのイメージ投影は多少あるにしても、この「妻」の性格も伝わってくる。
19世紀末はまだまだロシアでの女性の立場は弱かった。ここでの夫を差し置いて飢饉にあった農民の義援に乗り出す進歩的な女性であっても、こういう表情。とこの文章は夫側から見ている立場というのがポイント。夫が見たい妻のイメージが投影されているだけかも。
(2021 04/24)
チェーホフ、どこへ行く…
「妻」読み終わり。
ブトィガとは家具とかの職人らしい。ここら辺、アレントの「人間の条件」の労働観を連想させる。
ソーポリ(医師)のイヴァン・イヴァーヌィチ評。「私」は一日このイヴァンの家でソーポリと過ごし、自身との差に考えさせられる。
ラストは「生まれ変わった」ように書いてあるが、さてその後どうなるのか、恐らくチェーホフ自身がよくわかっていなかっただろう。作者もいろいろ逡巡していたと解説にはあった。
考えてみれば、チェーホフが書いた1891年から神西氏が訳し出版された1936年の間より、1936年から現在(2021年)の方が2倍近くあるのだよね…
(2021 04/25)
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