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「パウル・ツェランと中国の天使」 多和田葉子

関口裕昭 訳  文藝春秋

1968年ツェラン存命中最後の刊行となった「糸の太陽たち」を中心として書かれた、多和田葉子によるドイツ語の中編(120ページほど)。それに訳者である関口氏の「エピローグ」をつけたもの。「文學界」2023年6月号に、この二人と松永美穂氏の三者の対談が掲載されている。


マッス(塊)としての言葉

こういうのは一気読みだと(本当か?)、小説本文は読み終えた。
書き出しはこんな感じ。

 交差点にぶつかるたび、その患者はサイコロを持ちあわせていないことを後悔する。持っていれば、自分に代わってサイコロが決めてくれるのに。
(p4)

 追憶の家というものがある。その家を去ることは、また別の家に入ることである。ある世界の中にとどまりつつ、同時にその世界を去るということは矛盾しない。
(p15)


結末知ってここに戻ってくると、やはり最初から?

 二人称単数は一人称単数にとって脅威になるとわたしは思います。一種の鏡像病です。
(p72)


ここは、東欧でのホロコーストと、イスラエルがパレスチナで行う軍事作戦とが重なるところ。

 行動するために人はきっかけを必要とする。それは一回の瞬きかもしれないし、ひとつの合図か言葉かもしれない。柔らかな風のひとそよぎでも十分。最初の詩はひとつの瞬きである。
(p106)


言葉のマッス(塊)として読んでいると伝わる厚さが感じられるけれど、こうやって切り出してしまうと(特にこの本の場合は)失うものが多いと思う。

オペラとコロナと漢字

話の筋というのも一応あって、自分のことを「患者」というパトリックという男(ツェランを研究している両親がウクライナ出身(ツェランと同じく))と、中国?出身のレオ=エリック・フーという鍼灸師?との対話。この二人がツェラン、特に「糸の太陽たち」(1968)について語る。理解は及ばないところもあるが、引き込まれていく体験。
このフーが、ツェランの書き込みをフーの祖父が写したという中国医学の文庫をパトリックに貸す。書名の「中国の天使」、そして中国医学(気功)の考えや名称が、「糸の太陽たち」にも出てくる、という。

もう一つこの小説のテーマというか話題というかがオペラ。パトリックはオペラのDVDを結構見ていて、すぐ近くに住んでいる?著名なオペラ女歌手を空想では追っている。特に出てくるのがリヒャルト・シュトラウスで、多和田葉子自身が結構好きらしい…が彼の戦争責任についての皮肉も同居してたりする。

あとは2020年2月から書かれたこともあり、コロナの影響が背後にところどころ見られる。閉鎖された(だからパトリックはDVDでオペラ見ている)劇場とか、手術台のコウモリとか、汗だくのベッドとシーツとか…でもそれは、いろいろあるモティーフの一つであって支配的にはなってはいない。
ラストが(言い方がなんだが)お洒落で感動するのだが、だとすると、どの時点でパトリックは死んでいたのか、最初からなのか、気になる。

訳者関口氏が言及している「宀」の感じの列挙の箇所。空、窓、穴…著者は日本語に訳されることを計算して書いたのだろうか、と関口氏は言っているけど、著者は多和田氏だからそれは当然ではないか…とも思うが、しかし、ツェランの詩を翻訳(「閾から閾へ」)した時に「門構え」が多く出てくるとか、「tt」という文字の重なりが旧字体の「くさかんむり」に似ているとかまでくると、「エクスフォニー」で出た言語の極限まで探求する多和田葉子の力であると思う。
あとツェランが「糸の太陽たち」の時期に、レヴィ=ストロース「野生の思考」読んでたというのも意外だった。というか「死のフーガ」でホロコースト扱ってるからといってその時期のみの詩人と思い込んでいる自分が問題なだけ。他の詩人のドイツ語訳も結構しているようだ。
注は明日。
(2023 05/21)

言葉への果てなき探究

注も(ほんとにざっと)読み終わり。
「大勢の人間が前倒しになる」という原義を持つ氷河地形用語(またこういう言葉をツェランは見つけてくる)と、多和田の「エクスフォニー」にもあったツェランからの引用。ベンヤミンのいう「一つの言語」とは具体的な一言語ではなく、様々な言語を呼び覚ます祖語のようなものというところ。
(2023 05/22)

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