「嵐が丘」 エミリー・ブロンテ
鴻巣友季子 訳 新潮文庫 新潮社
嵐が登場人物、丘が語り手
「嵐が丘」中盤。第14章まで読み終えた。もう荒れ狂ってすごいのなんの(笑)。これほどまでに憎悪むき出しの人物達はほかにないのでは?と思うほど… この、ある種お昼のワイドショー的な(しかし、本当に優れた文学作品というものは、どこかにこういったワイドショー的な部分を持っているものだが)、また一人の人間の身体を越えて憎悪(他もあるんだけど…)の感情が飛び交っているという現代文学にも通じている、こうした捕らえられない部分を「嵐が丘」の「嵐」だとすれば、彼らを読者に見えるようにしている語り手(ネリーであり、その外枠の語り手であるロックウッド)は「丘」に当たるのかな、と勝手に考えてみた。
と、訳者の鴻巣友季子さんも言っているが、スリリング… でも、笑いも忘れてない、この語り手達は…第15章から、もともとは第2巻とされていた後半部分に入る。
(2009 09/29)
照明が消えない映画館
「嵐が丘」後半、元の構想では第2巻とされていたところ・・・
に入ってきて自分がなんだか思うのは、こっちの方が語り手ネリーの自然描写が明るくすがすがしくなってきたなあ、ということ。前半部分の読みが足りないせいかもしれないのだが(笑)、でもなんか読んでいてそう感じる。物語の筋的にはどんどん陰惨化しているので、コントラストの為の描写かもしれないけど、にしても明るすぎると思う。照明ついたまま映画館で映画見ている感じ(今年は映画見てないなあ)。物語のある部分と他のある部分が遊離して引き裂かれて行くような印象・・・を自分は受ける。
関係ないけど、一日に本を読む量ってどのくらいが一番よいのだろう?まあ、読まなくても死なない?かもしれないが、一日中読んでいてもやっぱり死なない??かもしれないけど、例えばこの「嵐が丘」に関して言えばただそれだけ読んでいて半月、他の本と並行すればひと月かなあと自分のペースでは思う。研究者とか読書家とかの場合はどれくらいで読むのだろうか? あんまり早くてもなあ、ある程度(50ページくらい)読んだら、本置いてじっくり考えてみたいし。
(2009 10/12)
今日は「嵐が丘」を読了報告…
(2009 10/14)
補足「作者の消滅」
解説にはヒリス・ミラーが「ブロンテは「全知の語り手の不在」「作者の消滅」という技法を戦略的に用いて読者を作品の奥に誘いこんでいるのだ」と言ったと書いてある。このミラーの本含め、鴻巣友季子氏が参考にしたというリストが全部英文なのが悩みどころ(これなど翻訳出てたのではないか?)。
(2019 04/07)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?