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「ベルクソン=時間と空間の哲学」 中村昇

講談社選書メチエ  講談社

著者中村昇氏には「落語-哲学」という本もあるという。気になる…


とりあえず…

 進行している世界、この世界があるからこそ、そこから逆算して推測できる裏面(のようなもの)。それが〈わたし〉ということになる。
(p18)

 どんなに短時間の知覚であっても、実際には、知覚は常にある一定の持続のうちにあり、その結果として、おおくの瞬間を相互に嵌入させながらさきに延ばしていく記憶機能の一定の努力を必要としている。
(p63 「物質と記憶」から)

 あなたの知覚は、どれほど瞬時のものであろうとも、数え切れないほど多数の想起された要素群から構成されている。そして、本当のことをいえば、あらゆる知覚はすでにして記憶なのだ。われわれは、実際には、過去しか知覚していない。なぜなら、純粋現在とは、過去が未来を蚕食していくとらえがたい進展だからだ。
(p64 「物質と記憶」から)


ベルクソンの図式においては現在という固定点はないようだ。

 哲学するとは、思考のはたらきの習慣的な方向を逆転すること
(p44 「思想と動くもの」から)


「笑い」もそうだけど、ベルクソンの文章は明快なので、引用もしやすい。でも、第1章読んでいるだけで、頭と目の前の光景が分解されそうな感覚に捕らわれる。
この同じ姿勢でベルクソンは精神医学から記憶、進化論、特殊想対論などに入り込んでいく。そして全ての奥底には何か流れているものがある。それが純粋持続なのか。
(2016 09/25)

羊を数える

 現在の快楽の大半は過去の快楽の記憶でしかないとみなせるのではないだろうか。
(p99)


こちらは「笑い」から。この間書いた、過去の記憶に蚕食される現在というベルクソン固有の考え方がここにも現れてきている。現在に生きているわけではなく、過去に生きている…

メチエの方では、羊を数えるイメージのところで、著者中村氏はこういう空間的イメージで人は(少なくとも中村氏自身は)数えないのではないだろうか。としているけれども、自分も別に頭の中に空間的イメージは特に作っていないけれども、ひょっとしたらベルクソンだったらそういう頭の構造しているのかも、とちょっとだけ思った…
(2016 09/27)

無音の森


先程、中村氏の「ベルクソン=時間と空間の哲学」を読み終えたところ。引用したいところはとりあえずは5箇所くらいあって、それはたぶん土日にでもゆっくり書くことにして、その中で印象的なイメージをもたらす一文を(つまりはあと4箇所)。

 聴覚をもつ存在がいない森で、大木が倒れたとしてもコトリとも音はしないのだ。その森には、音はまったく存在しないのである。それとおなじように、記憶をもつ存在がいなければ世界はそもそも存在しないだろう。つまり、掛け値なしの無である。
(p193)


純粋な持続の流れはそのままでは捉えられないので、空間の要素を入れて記憶として外界を取り込む。記憶がなければ無音の森。ベルクソンは「無」ということを執拗に嫌ったという。
(2016 09/29)

ベルクソンまとめ(その1)


まずは物質の不可入性について。これは同じものが同時に2つの場所にない。物質が互いに入り込まない、というわたしたちの信念みたいなものだが、果たしてそうだろうか、とベルクソンは問う。

 実際には、この不可入性というのは、物理的な必然性ではなく、ふたつの物体は同時におなじ場所を占めることはできない、という命題と結びついた論理的必然性なのである。
(p121)


人々が仕方なく?実生活の為に物質や数を導入しているだけなのに、本来的に流体で区分できない自分の感情のようなものまでに数の概念を導入している、とベルクソンは言う。

続いてはある町に滞在して何かの建物などを見た印象の後々の変化。

 これらの対象は、わたしによっていつも知覚され、わたしの精神のなかでたえず描かれているうちに、とうとうわたしの意識存在のいくぶんかを借りていったようだ。わたしが生きたようにそれらも生き、わたしが年齢を重ねるようにそれらも年老いた、そんなふうにおもわれる。
(p155)


そうかなあとも思うし、そうでもないのではとも思う。でも意識存在のいくぶんかを借りるという表現が面白くて引っ張ってきた。まあ、建物そのものを知覚しているわけではないことは確かだろう。
その知覚意識存在するわたしという固定点については(その2)で…

ベルクソンまとめ(その2)

 しかし、その固定点をなぜわれわれはうつのだろうか。あるいは、どうしてうつことができるのだろうか。
(p163)

 この世界というスクリーンをみている観客は、自分の座っている席をたしかめることはできない。
スクリーンで展開される世界だけが存在しつづけていく。その裏面はない。それだけだ。そして、そのスクリーン上の出来事は、すべて記憶であり痕跡にすぎない。
(p216)


こちらでは中村氏オリジナルの文が並んだけれど…この本の最初にあった「わたしという固定点」という議論の総括の部分。もちろん「存在とは何か」なんていう問題に答えができるわけではないけれど、これでまた有益なアナロジーの一つを手に入れたことになる。

そして中村氏はベルクソンを通して、ベルクソンとは反対の結論にも到達しているけれど、それは長く寄り添ったからこそなのだろう。
(2016 10/02)

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