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「詩という仕事について」 ホルヘ・ルイス・ボルヘス

鼓直 訳  岩波文庫  岩波書店

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ボルヘスとバークリー

ボルヘス「詩という仕事について」少しずつ。これは(も)どこかの講演か講義が元。引用は後にするけど、あのボルヘスですら、家に読んでない本がたくさんあり、でも新刊を買う誘惑に勝てないというのには、びっくりしたというか、安堵したというか…(ひょっとして謙遜?)…
(2018 04/08)

 哲学の歴史は、ヒンズー人の、中国人の、ギリシア人の、スコラ神学者の、バークリー主教の、ヒュームの、ショーペンハウアーやその他の人間の、困惑の歴史そのものではないでしょうか? 私はただ、この困惑を皆さんと分かち合いたいわけです。
(位置番号119)

 私の信ずるところでは、生は詩から成り立っています。詩はことさら風変わりな何物かではない。いずれ分かりますが、詩はそこらの街角で待ち伏せています。いつ何時、われわれの目の前に現れるやも知れないのです。
(132)

 時折りですが、我が家にある沢山の本を眺めていると、読み尽くすことができずに死を迎えるだろうという気がします。しかし、それでも私は、新しい本を買うという誘惑に勝てません。
(310)

 われわれは何かについて何も知らないときにのみ、その何かを定義し得ると、むしろ言いたいわけです。
(655)


ちょっとだけ、補足。ボルヘスってバークリー好きみたい。この本でもリンゴの味というものは、リンゴと食べる自分の接触においてしか存在しない、というバークリーの説引用しているし。最後の文は詩というものに出会っている人はそれを定義できない。詩を定義しようという試みは出会っていないからこそ行えるという意味。
困惑中だし、勝てないし、定義もできないけど、詩には出会ってないなあ・・・
(2018 04/09)

第2章隠喩

 単語はすべて死せる隠喩である
(位置713)


言語行為そのものが隠喩の認知によって行われるという。語源に遡れば何事かの隠喩に突き当たる。

 人間の心理にはどうやら、断定に対してはそれを否定しようとする傾きがある。・・・(中略)・・・それが誰も納得させられないのは、まさに論証として提示されるからです。われわれはそれをとくと眺め、計量し、裏返しにし、逆の結論を出してしまうのです。
(1050)


だから隠喩を使用して、綻びに迷い込ませる、そこの方が人間にとって居心地がよい。

 (アイルランドの古い物語では)戦いを「人間どもの織物」と呼んでいます。
(1335)


中世タペストリーとか見るとそうだよね。この章では、「概念メタファー」という考えを思い起こさせる(先取りしている?)
(2018 05/22)

第3章「物語り」

ボルヘスはここで「詩」という言葉で何を言い表そうとしているのか
だんだんと深みにはまりわからなくなってきている・・・
というわけで「詩という仕事について」の第3、4、5章。今まで読んだところの引用祭り(笑)
第3章「物語り」

 その相違は、叙事詩において大事なのは英雄、あらゆる人間にとって典型である人間であるという事実にあります。
 小説の多くの本質は人間の崩壊、人物の堕落にあるのです。
(位置 1587)

 彼(カフカ)は幸福と成功の物語を書きたいと本心で願ったけれども、自分にはそれができないことに気づいていました。
(だから自分の作品を焼き捨ててくれと遺言したという)
(1604)

 あらゆるプロットは、恐らく少数のプロットに帰着するのではないかという考えかたです。もちろん、現在ではわれわれを眩惑するほどの数のプロットが創造されつつあります。しかし、この創意の発露は恐らくは一時的なものであり、それら多数のプロットも少数の本質的なプロットの幻に過ぎないのかもしれません。
(1629)

小説は追放された人間の物語。追放はいくら積み重ねても断片に過ぎなく、読み手はその断片を組み合わせて総図を見ようとするが、お互いにお互いを含むジグソーパズルはいつになっても完成することはない。

第4章「聖書の調べと翻訳」

 逐語訳という考えかたは聖書の翻訳から始まったと考えています・・・(中略)・・・聖書の見事な翻訳が行なわれるのを見て、人びとは、外国語の表現のなかにも美があることを発見し、そのように感じ始めました。
(2374)

逐語訳の肯定的見方。直訳好きの傾向のある?自分にとっては嬉しい…

 人びとが美を巡って出来事や状況をほとんど気にしない時代が来るはずです。人びとは美そのものに関心を抱く。恐らく、詩人らの名前もしくは生涯にさえ心を遣わなくなるはずです。これは結構なことです。あらゆる国の人びとがそんな風に考えることを思えばです。例えば、私はインドの人たちに歴史感覚があるとは考えません。インド哲学史を書く者、あるいは書いた者たちが頭を悩ましたことの一つは、あらゆる哲学がインド人によって同時代的なものと見なされていることです。
(2425)


(「これは結構なことです」とボルヘスが言う時、彼はそれを真意で言っているのだろうか。また「気にしない時代が「来る」はず」なのか、あるいは「もう去ってしまった」のか。少なくとも現在の文明と思想が一回破滅されてからでないとそんな時代は来そうもない)

第5章「思考と詩」

 アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドが次のように書いているのを思い出してください。多くの思い違いのなかに、完璧な辞書が存在するという思い違いがある、あらゆる知覚に対して、あらゆる言説に対して、あらゆる抽象的観念に対して、人はそれに対応するものを、正確な記号を辞書の内に見いだし得ると考える錯誤がある、と。言語が互いに異なっているという事実そのものによって、そうしたものは存在しないと考えさせられるわけです。
(2502)

ホワイトヘッド…難しそうだから手に取ってすらもいないけれど、読まないとダメかなあ…
ソシュールの言語の恣意性とも似ているけれど、違うものだろうし…それに言語という領域を越えたものについて言っているような気がする。
(2018 06/17)

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