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「ビルバオーニューヨークービルバオ」 キルメン・ウリベ
金子奈美 訳 白水社エクスリブリス 白水社
(現在は白水社Uブックスで出版)
著者のウリベはバスク語で作品を書く(スペイン語でも出していて、この翻訳は両方を参照した折衷版とのこと)。隠された物語。網によってつながる物語。というのがこの作家の得意とする観点。ゼーバルトやトカルチュクに感触近い。
白水社エクスリブリスで2年連続年越し?
(2014 12/25)
章の終わりの、開かれた文章
「ビルバオーニューヨークービルバオ」を夜に少しずつ。この本読みやすいのだが、そのまま流されて読んでしまうと上っ面だけで終わってしまいそう。
章の終わりくらいに、別の章とかもろもろにつながりそうな気になる文章が置いてある。
小説のために情報を収集するうち、僕は別のさまざまな航路へと導かれ、その途中で思いもかけなかった多くのことに遭遇した。
(p15)
船長は、航海図をけっして人には見せず、港に着くと束ねて家に持ち帰る。
死もまた、その航海図をけっして見せることがない。
(p41)
題名通り、ビルバオーニューヨークービルバオと(たぶん)回る「僕」の旅路に、絵画と航海のさまざまなモチィーフと家族の歴史が混ざり合う、そんな構成なのかな。
(2014 12/26)
指輪と郭公
祖母?が話してくれたという指輪を飲み込んだ魚という話は、ヘロトドス「歴史」に出てくるのを始祖とまあしておいて、一方ではイタロ・カルヴィーノが「千年紀のメモ」で書いたイタリア版、一方ではウリベの祖母?のバスク版として回ってきたのか。
小説現時点ではフランクフルト乗り換えニューヨーク行きの飛行機乗っている語り手だけど、そこで黒人女性が隣に乗ってきて読んでいるものとか、エストニアのどちらかというとマイナー言語の詩人の集まりみたいな話をするのは、小説後半で黒人という存在が重要となってくる前ふりなのか。
そのエストニアの集まりでのいろいろな話も興味深かった。最後に郭公の鳴き声が取り上げられ、それが次の話題を導いてくる。この小説、かなりウリベ周辺の現実の話や人物が取り入れられているみたいなのだけど、ではエストニアの集まりも実際にあったのかな。それ自体かなり面白そう。
でも、なんでフランクフルト回りなんだろう? マドリッドとかバルセロナからでもニューヨーク直行便はあるだろう。ひょっとしたら、ビルバオからも…
前になんでニューヨーク行きの行程しか描かれていないのに「ービルバオ」なのか、と書いたけど、その答えのヒントになりそうな部分が。地球上の半分が昼の時もう半分は夜。でも、時間が経つにつれて、夜だった部分に光があたり、昼の部分が闇に入る。人間の思考というか感性というかも同じなのでは、と著者は言う。今まで考えてこなかったことを考えられるようになり、今まで見えていた部分が見えなくなる。でもそれは仕方のないことではないか、と。
(2014 12/30)
小説技法の種明かし、鏡と作品
それならば、僕は小説の背後にあるものを、小説を書く際のあらゆるプロセスを提示しなければ、と考えた。疑念や、迷いを。だが、その小説自体は、小説のなかに登場することはないだろう。読者はそれを感じ取るだけだ。《ラス・メニーナス》(女官たち)でベラスケスが描いている国王夫妻の肖像画を、観客が感じ取るのと同じように。
(p152)
ファン・エイクやベラスケスの作品のように、作品の中に製作過程を織り込む、ただし絵画の場合も小説の場合もその織り込まれた情報が外側の観客が見ている作品自体と同一性が保証されているかは、定かではない。たぶん、ずれが生じているだろう。
ウリベの作品の場合は、鏡の断片があらゆるところに仕掛けてあって、相互索引みたいになっているのだろう。どこまで感じ取ることができるのだろう。
あと、もう一つ。この作品にはいろんな詩や歌が入り込んでいるのだが、この訳ではカタカナ表記とその翻訳が併記されている。原文表記がない。詩や歌の場合、原文表記が重要だとも思うのだけど…訳者金子氏はそれより響きの方が作品理解には必要だとして、不完全なのを承知の上であえてカタカナ表記にしているのだろうか。
小さな家への招待状
「ビルバオーニューヨークービルバオ」を読み終えた。といっても、昨日・今日でまた本買ってるから、未読が増えているのだけど…
僕らがしなくてはならないのは、家の前を通りがかる人たちを招き入れ、中でもてなすことだ。そこで僕らが差し出せるものが、どれほどわずかであったとしても。
僕らは、自分たちがもつ伝統はありのままに、それとともに前進していかなくてはならない。ただし、できるだけ多くの人を呼び込みながら。なぜなら、家の空気を入れ替える最善の方法は、窓を開け放つことだからだ。
そして、花の世話をする時間も確保することを忘れずに。
(p211)
これは著者ウリベにしてみれば、バスク語の文学についての決意表面なのだろう。ETA(バスク独立派武装集団)の武装放棄が2011年に発表され(この作品は2008年発表だけど)、ちょうどフランコ派の祖父にフランコ派の新聞を読み聞かせしていた独立派の母方の祖母のように、政治的(あるいはその他もろもろ)な立場は様々違えども、暮らしを共にすることは可能であり、それをバスク語の文学で垣間見ることができるのだ。
でも、これはバスクには限らない。個々人がそういう態度を貫けるか、他人に語ることができるか、全てはそこからだろう。
最後は訳者解説から。
こうした現実と虚構のあいだの曖昧さと、ストーリーの断片性という本作における二つの大きな特徴は、実は深いところで関係し合っている。
(p228~229)
(2014 12/31)
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