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「チョンキンマンションのボスは知っている アングラ経済の人類学」 小川さやか

春秋社

以前図書館で、タンザニアの商人の本「都市を生きぬくための狡知 タンザニアの零細商人マチンガの民族誌」を借りて少しだけ読んだ。その著者が、今度は香港に移住したタンザニア商人の話をまとめた。初出は春秋社のサイトの連載。

北条早雲、黒田重隆、そしてチョンキンマンションのボス

なんだかよくわからないタイトルだけど、黒田重隆(官兵衛の祖父)は質草をとらず低利で金貸しをして領民を助けた。これ北条早雲とも似ているところがある。これとまた似たようなことを、今読んでいる「チョンキンマンションのボスは知っている」のカラマが言っていた。初めて香港に来たアフリカ人を騙して金を取るのは簡単だけど、そうしなかったから信用を増すことができた、と。
(2020 08/08)

香港とニューヨークの異国人たち


「チョンキンマンションのボスは知っている」より第2章まとめから。

 前述した通り、彼らは常々「誰も信用しない」と断言している。それは「素性」「裏稼業」を知らないというより、誰しも置かれた状況に応じて良い方向にも悪い方向にも豹変する可能性があるという理解に基づいているように思われる。
(p82)
 つまり「ペルソナ」とその裏側に「素顔」があって、「素顔」が分からないから信頼できないのではなく、責任を帰す一貫した不変の自己などないと認識しているようにみえるのだ。
(p82ー83)
 要するに、彼らは「助けあう人間を区別・評価する基準を明確化すること」と「助けあいの基準・ルールを明確化すること」のどちらもしていない。むしろ彼らの組合運営やそこでの相互扶助は、厳密な基準や取り決めによって「互いに無理やストレスを強いること」をできるだけ回避すること、をルールとしているように思われる。
(p84)


ここの第2章では、タンザニアと香港の助け合い組合(そこに広州やケニアやウガンダの組合も加わる)の実際を、香港で亡くなった人の遺体輸送(東アフリカでは故郷に送って葬儀をしたいという人がほとんど)を。中心となるメンギという人の場合は、正式な許可を得て働きに来ており、また双方に家族がいたことから順調にいったが、ボス・カラマも含む非公式(難民申請)とか初めてきた人の場合とか、それでも彼らはできる限りのことをするという。その考えの枠組みが上の通り。また様々な人が「ついでに」いろいろなことをできることだけやっていくことの連鎖が組合をもたせている。
(2020 08/09)

カラマの自動車ブローカー業

 客筋の不侵犯により緩やかなニッチを確保しつつも、商売のやり方を積極的に教授することでライバルを増やし、そのライバルとの間で情報を「シェア」していくことは、みずから商品や仕入れ先をめぐる競争を激しくする行為にも見える。だが、ここには、「ついで」に無理なく助けあうことで香港での生活を成り立たせている「生活の論理」と、市場競争という「ビジネスの論理」とのあいだにセーフティネットを創出・維持する、「仕事のしかたをシェアする実践」があるように思われる。
(p126)


カラマと著者の関係もそうであるように、対客の人間関係ではその人の「友人」という身分が宣言され周りはそれを認めるが、その他の物品やノウハウなども含め多くは、タンザニア出身の香港中古自動車ブローカーの仲間内で上に述べたように「ついでに」の理論でよって分け合う。
またここで詳細に見た中古バス?の購入の際には、バスをコンテナに入れたあと車内外の隙間に商売あるいは顧客自身の用途のためにいろいろ買って詰め込むこともある。こうした物品の価格も手間賃も一切ブローカー側が持つ。顧客にはあくまで売れた車の台数の代金のみしか請求しない。
とりあえず第3章読み終わり。
(2020 08/11)

転落や裏切りも包括する緩やかな仕組み

 TRUSTでは相変わらず誰もが信用できるし誰も信頼できない世界・人間観が維持されており、それゆえに取引実績や資本規模、過去の失敗や裏切りにかかわらず、誰にもチャンスが回ってくる。
(p144)


こういう場を作るための一環として、カラマ達のインスタグラムやフェイスブック、ライブ配信などのネタも使われているという。こんな中、こうした写真などによって著者はカラマ氏の「妻」だと勘違いしているアフリカ人も結構多いらしい…

 贈与交換は負い目を持続させ、分配は負い目を曖昧なものにし、再分配は負い目を返済できない無限のものとして永続させ、そして市場交換では負い目を消去する。対等な主体どうしの贈与交換は、持続的な機械的連帯をつくり、中心と周辺の間の再分配は持続的な有機的連帯をつくる。そして遊動社会に特徴的な分配はその場限りの機械的連帯、市場交換はその場限りの有機的連帯をつくる。
(p159-160)
(小田亮「構造人類学フィールド」から)


近代資本主義・近代国家は市場交換と再分配、そしてカラマたちのこの仕組みは分配の上に市場交換が乗っかった格好になっている。分配から市場交換というこの順番は入れ替えられないという。
(2020 08/13)

カラマは何故帰らないのか

 相手が何者で何をして稼いでいるのか、なぜ良い人なのに悪事に手を染めているのか、なぜ彼/彼女は私に親切にしてくれるのかといった問いと切り離して、共に関わりあう地点を見つけられるのは、彼らが商売の論理で動くからである。
(p231)
 贈与経済や分配経済が潜在的に持っている負の側面を資本主義経済によって動かしていくヒントが隠されていると考えている。
(p232)


第6章。セックスフレンド、シュガー・マミー?と周りの人々という前半と、カラマたちは何故母国に帰ろうとしないのか?という問いの後半。彼らは地元になんらかの投資、不動産購入などをしている。もし香港からの遠隔操作で対処できない事業があったとしたら、その時初めて帰るという。
(2020 08/14)

抜けているから最適な社会


今朝読了。前に読んだイランの商人の本「「個人主義」大国イラン  群れない社会の社交的なひとびと」(岩﨑葉子)と共通点大有りそう。あっちでも中国への買い付け事例あったし。この二人実際の接点もたぶんあるのでは?

最終章から

 そうした関係では、私が与えたものと相手がくれたものが等価であるか、その場その場で貸し借りの帳尻があっているかが常に気になる。そこで、どちらかが「損をしている」と感じると、好循環の相互性はやすやすと、悪循環の相互性へと転化する。
(p242)
 自分自身が何でもこなせる人間、完璧な人間になるべく努力して、自身の可能性に賭けていく代わりに、あるいは価値観や資質の似通った少数の同質的な人間と深く関わり、そこでの互酬性、応答の義務にきちんと応答していく代わりに、なるべく多くの能力や資質、善悪の基準、人間性の異なる相手と緩やかにつながり、他者が生みだす「偶発的な応答」の可能性に賭けることは、「異質性や流動性が高くて、誰が応えてくれるかわからない」という状況における戦略として不合理ではない。
(p246)
 人類学者たちが明らかにしてきた狩猟採集社会は、それほど単純ではない。彼らの社会にも「所有意識」はあるし、嫉妬もある。集団内の能力的な差異もある。だが、分配を受ける側は獲物が貧弱であることをなじり、与える側はひたすら恐縮してそれをわびるといった気配りや、捕獲者と獲物の所有者を分離するなどして、与えられる側に「負い目」が発生したり、一方通行の分配を維持する側に「威信」が生じたりしないような細やかな実践をしながら、不均衡な貢献を問題にしないようにしているのである。
(p250-251)
 香港への移住と金儲けが、遠く離れた母国の人びとのためだけではなく、また自身の将来の夢を実現する「手段」「プロセス」としてでもなく、香港での「いまここ」にいる自身と仲間たちとの生活のためにもあることを実感する。
(p261)
 あくまで金儲けのために香港にいると表明しあうことが、バックグラウンドの違いや日々従事する活動の是非を超えて、香港のタンザニア人たちが気軽につながりあうことを可能にしているのだ。
 金儲けの目的は彼らを瞬時につなげると同時に、つながりを適度に切断することも可能にする。
 仲間をつくり贈与を回していくために金儲けをするのではなく、金儲けを仲間や贈与を回していくための「手段」にする。金儲けこそが、社会をつくる遊びなのだと。
(p262、263 適宜抜粋)


カラマは「俺たちは真面目に働いているわけではなく、いまここの香港の暮らしをエンジョイしていたいんだ」というようなことを言っているけど、それはアフリカ人だからいい加減なのではなく、実は最先端の暮らし方、社会のあり方なのかもしれない。
この辺の金儲けと個人主義と緩いセーフティネットというのは、先に挙げたイランの事例にも当てはまりそう。

最後に参考文献から、ここでの論点に関するものを、また興味深いものをピックアップ(まだ読めていないが)

マルク・R・アンスバック「悪循環と好循環-互酬性の形/相手も同じことをするという条件で」杉山光信訳 新評論

田中二郎・掛谷誠編「ヒトの自然誌」平凡社 から市川光雄「平等主義の進化史的考察」

岸上伸啓編「贈与論再考-人間はなぜ他者に与えるのか」臨川書店 から丸山淳子「誰と分かちあうのか-サンの食物分配にみられる変化と連続性」

(2020 08/15)

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