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「物語論 基礎と応用」 橋本陽介

講談社選書メチエ  講談社


プロップ、ブレモン、バルト


ウラジミール・プロップ
ロシアフォマリズム。ロシア民話による機能の同一性と、順番遵守(飛ばされる機能はあるが、順番が変わることはない)。

クロード・ブレモン

 単に実現した行為だけでなく、実現する可能性のあった行為についても考えたのである。このように考えると、物語の筋はプロップのように予め決定されたものではなく、次への展開可能性が複雑に絡まったものとなる。
(p26)


しなかったこと、開けられなかった手紙に物語の本意がある、とかいろいろ?

ま、バルトはいいか…

 バルトはこのように、物語を機能(動的)と指標(静的)の組み合わせとして分析した。物語によって、機能を重視するものと、指標を重視するものがある。昔話やエンターテインメントでは、物語展開の方が重視されるのに対して、心理小説などでは、心の動きに焦点が当てられる。とすれば、心理小説では、指標のほうが重要な意味を持っているということになる。
(p29)


ここをもっと現代小説に当てはめると、探偵小説やその他のエンターテインメント小説を換骨奪胎して、新たな文学作品にする場合では、「機能の指標化」(機能に指標としての役割を持たせる)が起こっているのではないか。

機能と指標、実践(というか場当たり)編


モラヴィア「倦怠」や今読んでいるエーコ「前日島」は上で述べたような「機能の指標化」(イタリアに多いってわけではないだろうけど)。イギリスの文学はまだ?指標を丹念に書くことが多い印象? そしてマルケスなどのラテンアメリカマジックリアリズムは、指標だけで物語を見せてしまおうという、あるいは機能までも指標の一部に取り込もうとするもの…だから、マルケスの小説は無時間性な印象が強い。
とか、果たしてどれだけ当たっているのやら…
(2022 06/30)

物語論の系譜


ソシュール、ヤコブソン、バンヴェニストの言語学、それからプロップらのロシアフォマリズムが二大源泉。
ヤコブソンがレヴィ=ストロースに影響を与え、一方トドロフがロシアフォマリズムをフランスに伝え(ナラトロジー「物語論」という言葉もトドロフの用語)そこからジュネット、エーコ、バルト、グレマスらに発展する。
(p33から35まで)

バンヴェニストの言語学とジュネットの物語論…

 伝統的な言語学では、主に文の「形式」と「内容」が対象とされていた。バンヴェニストはそこにその文を発話する発話者と、その聞き手という二つを分析に入れ込んだ。
(p42)


後にジュネットが「発話者」から「物語行為」へと発展させる。
例文として、「百年の孤独」冒頭

 ただし、この先説法は非常に特殊である。というのも、基準点が不明確になっているからである。
 最後まで読みとわかるが、この文は『百年の孤独』全体を貫く円環的時間を予告したものであり、基準点が不明確なのは、特殊な時間感覚に読者を置くための策略である。先説法と後説法の両方を使った恐るべき文である。
(p46)


過去形で書いてあるから過去?
過去のことを書いているから過去形を使う、のではなく、過去形(と呼ばれるもの)をなぜか使っているから過去になってしまう。
またバンヴェニストらしい…

 つまり、過去の事だから過去形を使うのではなく、過去形を使っているから過去のこととして読者が読んでいるのだ、というのである。
(p61)

 物語現在を語る場合、過去形と非過去形を両方使うことができるのは、過去を回想しているわけではないからである。これを私は「物語現在的語り」と読んでいる。
(p63)


物語現在の図

 語り手は物語世界を目の前に置き、物語現在を現在として語っている。ただし、実況中継とは違う。実況は目の前で起こることを同時に報告するため、それ以外の操作はできないが、物語の語り手は要約したり、詳細に語ったり、時間を飛ばしたりするなど、自由に行うことができる。目の前に物語世界を置いて語っているが、語りの位置は物語世界の外側にあるのである。
(p66)


(2022 07/03)

語りの現在と物語世界の時間との関係

 ジュネットの理論でも、語りの位置は物語世界外からは超越した位置の点とされており、「語りの現在」から「過去」を同一時間軸に並べてはいない。
(p75)


(2022 07/07)

二葉亭四迷の「浮雲」と「あいびき」ほか


「浮雲」は活動弁士や円朝の落語のような語り口調。「あいびき」(仮名表記は微妙に違うが)はツルゲーネフの翻訳で、最初は文末を「た」で止めることがほとんどだったが、改訳した時に他の文末や現在的言葉(今朝とか)が入ってきて、ほぼ今の小説文体(物語現在)になる。

語り手と視点人物。この二つ分けたのがジュネットの功績。その前は、バルトでさえ、語り手と視点人物は取り替え可能だとしていた。
ジュネット「叙法」(物語の法、語り手がどのような態度で語るのか)
1、語る量(多く語るか少なく語るか)
2、様々な視点で語る
1はここで出てきたミメーシスとディエゲーシス。プラトンに遡るという。
ディエゲーシス(語る)…要約的、詳細ではない。
ミメーシス(模倣する、再現する)…詳細
19世紀にヘンリー=ジェイムズが再び理論化。
(2022 07/10)

語りの人称あれこれ


高行健「霊山」…語り手である「おまえ」が語っているうちに、話の中の登場人物になっている(ジュネットの用語では転説法)そして、上に書いた通り、語り手が「おまえ」の「二人称物語」(「心変わり」とかと同じ)。

ジュネットの理論はどんな物語でも「語り手」が「聞き手」に語っていることが前提。「三人称物語」も潜在的な一人称の語り手がいると想定。「一人称物語」と「三人称物語」の差は、物語内部に一人称で語る語り手が登場人物として存在しているかどうか。
(p107 大意)

自由直接話法「内的独白」(例ユリシーズ)と、自由間接話法(地の文でありながら人物の内面を描く。

 自由直接話法は登場人物の発話や思考を「直接」表出するのに対して、自由間接話法では語り手が登場人物のセリフ・思考を模倣して語る。このため、語り手が語っているようで人物の言葉でもあるようにも感じられる。
(p111)


第三章終了。
(2022 07/18)

日本語の言語習慣と語り手

 英語などでは、自分自身すらも外側から客観的に眺めて語るのに対し、日本語ではその語られている状況の内部にいる人物に同化してしまうのである。
 (日本語の場合)「私」からみて「私」は見えないので、言語化されないのである。さらに言えば、相手のいるところに「行く」というのも、話し手の位置からの語り方である。
(p116)


第4章「日本語の言語習慣」。日本語独特の言語文化が文章表現にどう影響するか。

「ぼくは昨夜実験室に行ったが誰もいなかった」(日本語)
「ぼくは昨夜実験室へ行ったが、そこにはぼく以外誰もいなかった」(ドイツ)
(p116 金田一春彦『日本語のこころ』)

 換言すれば、語り手は完全に人物に同化するわけではない。人物のすぐ「背後」といっていい位置に移動し、代弁するように語る。私はこういう例をオーバーラップした語りと呼んでいる。
(p118)


日本語で三人称の物語の場合、視点人物の内面を語ろうとすると、こういう語りになることがある、という。ちょっといろいろ(どっちだ?)わからなくて、まず前に出てきた自由直接話法とどう違うのか、そしてこんな語りをする意味について…背後に行くなら別に内面入ればいいのでは?その効果は?…
自分がこういう語りに馴染みや気づきがないのは、やはり翻訳文学中心だからだろう。(本の中の引用文も何か異様に引っかかりがない…)。でも翻訳でもこうした日本語特性を考えた文章になっていることがあることを踏まえると…

物語化への道

続いての第5章「ノンフィクションは「物語」か」は、「物語化への道」とも言える章。

 おそらく著者は執筆時点で現在をきっちり保って回想しているというより、この時点を思い描いて書いているはずである。こうした語り方をするとき、物語化が始まっている。
(p130)


ここで例に挙げられている高野秀行『ワセダ三畳青春記』の文章がどんな本なのか見当がつかないのだが、それはともかく、物語化の始まり…回想を物語現在として語る。でも、逆に現代文学でよく見かける?回想記の中にしばしば介入する語り手や作者(回想する人物と同じでも違っていても)という図式は、こうした物語化による臨場感自体を問い直す意味があるのか…

(例がうまく思いつかないが、オートフィクション系(「物が落ちる音」、ルポルタージュ系「ただ影だけ」、真実追求系「九夜」とか?…饒舌系と言っていいのか、ゴンブロヴィッチやセリーヌとかは介入と言えるかどうか…ここまで来ると先の自由直接話法のジョイスとどう違う…そもそもゴンブロヴィッチやセリーヌってそんなに饒舌でしたっけ)

 洪建修は、取材者が成り代わって語っているように思考することになる。人物は、語りが語っている通りに語っているのだ。ここに物語化にともなう逆転現象が見て取れる。物語化してくると、語りは人物と独立した主体であることを止めはじめ、一体化してくる。
(p133)


この洪氏というのは中国ルポルタージュ「蟻族」の取材対象。このp133で挙げられている文章のタイプは、自分はあまり好みではないタイプ。よく新聞の特集記事とかで見かけるけれど、取材対象を自分の目的にはめ込んではいないかと気になってしまう。こういうのと、先程のオーバーラップした語りというのは共通点がある?

それはともかく(二度目)、高野秀行氏(自分自身の回想)→蟻族(取材した相手、基本的にその時だけの関係)→歴史小説(そもそも過去の人物)と、自分と対象との距離が離れるほど、物語化されやすい、余地がある、と言えるだろう。
(2022 07/19)

実践編突入


1部の最終章
詩学は解釈の反対で「どうすればこういう効果が得られるのか」と問うもの。物語論も詩学の一部。文体論や表現論との組み合わせで実践編。

2部第7章は、「シン・ゴジラ」や「エヴァンゲリオン」から、トニ・モリソン「ピラウド」、ルルフォ「ペドロ・パラモ」など。面白く読ませるための戦略。パラレルワールドというのは、ゲーム等の影響か若者には馴染みのある手法、しかもそのパラレルワールドが行き来できない平行世界から、ある特定の人物は異なるパラレルワールドを行き来できるものが類型としてあるという。
(2022 07/20)

「百年の孤独」と中国

「百年の孤独」は修飾語に多くの印象深い語が使われている。この言葉が述語に位置するとそこまで面白くなくなるのが不思議。

 こうして彼らは、言葉によってつかの間つなぎとめられはしたが、書かれた文章の意味が忘れられてしまえば消えうせて手のほどこしようのない、はかない現実のなかで生きつづけることになった。
(p205-206)


「現実」にかかる長い修飾節が面白みを生み出す。
後は「百年の孤独」の魔術的リアリズムが中国で誤読させられていた、という。例に挙げられているのは、莫言の「紅い高梁」南米の魔術的リアリズムでは、実際には起こることのない出来事を、なるべくジャーナリスティックに客観的に語る語りなのに対し、中国の作家達(莫言だけでなく世代的なものだという)のは、実際に起こることを幻想的に語っており、方向性が逆転になっている。
(2022 07/23)

キャサリン・マンスフィールドとアブラハム・イェホシュア

今日読み終わり。

 日本語訳では語りの審級を訳しわけるのが習慣であるが、原文は同じ形式を繰り返し、審級を曖昧にすることによって、微妙な感情を表現しているのである。
(p222)


まずは、キャサリン・マンスフィールドの「園遊会」の例。ここまでくると、もう原文読めないと味わえなくなってくる。今、例文読み返して思ったのだが、「隠さなければならない」というのは果たして「地の文」か? 自分などは、これも人物の内的表現にも思えるのだが…と思ってしまうのは、(マンスフィールドより)ウルフの読み過ぎ?だろう。

 思うに、人物の感情が直接書かれると、読み手としては一歩引いてその人物を見てしまう。言ってみれば、作中の人物は人物、読み手の私は私で、別の人間という感じになりやすいのに対して、間接的に伝えられると、より共感しやすいというか、人間の感情に同化しやすいのではないか。
(p223)


こちらは、イスラエルの作家アブラハム・イェホシュアの「エルサレムの秋」から。読み手側からのアプローチだとこのp223のようになるけれども、逆に感情抱く側から見てみると、そんなに喜怒哀楽をきっちり感じることは意外に少ないのではないだろうか。表面上は怒っていたとしても、内心は「なんでこんなに怒っているのだろう」と不思議がっていることもある…心理学的にも考察してみたいところだが。

物語把握とそこから外れていくもの


第2部実践編最終ページ。

 思うに物語というのは、人間の観念による構築物である。現実は物語的に把握され、物語は把握された現実のように表象される。
(p260)


二つ目の文の前半はよくわかるが、後半の意図するところは何だろう。物語化と逆のプロセスを経て物語が書かれる…というように取れるとは思うけれど、まだ含むところもあるかな。
最後に「おわりに」から。

 物語化から外れてしまった出来事は、どうやっても知ることはできないのである。
(p261)


この本読んだ最初の方で考えていた「どのようにして「出来事」を切り分けるのか」という問いに直結する。出来事が切り分け方で様々にできるのであれば、完全に「外す」ことは果たして可能か?
そして、そのようなもの(物語化からどうしても外れてしまうもの、それはもはや「出来事」とは言えないものかも)があるとするならば、それは実は多くの小説で登場人物が求め続けているものでもあるだろう。
(思いついた例で言うと、「隔離の島」での語り手とか、それから「前日島」でロベルトが追い求めた鳩とか…)
(2022 07/22)

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