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「1冊でわかる文学理論」 ジョナサン・カラー

荒木映子・富山太佳夫 訳  1冊でわかるシリーズ  岩波書店

著者カラー氏は元々フロベールの研究者だったらしい。アメリカ人でフランス文学研究者でイギリス在住…
主要著書は「ディコンストラクション」、「ソシュール」、「バルト」など。
あと、この著者、「エーコの読みと深読み」で出てきた論者の一人ではないか…


まずは巻末の気になる文献から

現在文学批評においては、「文学についての理論」ではなく、「文学においての理論」だといわれることも多い。つまり先に理論(ポストコロニアル、マルクス主義など)があり、それを文学にも当てはめてみるというもの。
この本の巻末の解説に訳者の富山氏が、そういう「理論」を明確に意識した本を10冊くらい紹介している。
その中から、とりあえず自分に合いそうなのをピックアップ…
エンプソン「曖昧の七つの型」研究社
マシュレー「文学生産の哲学」藤原書店
ミラー「小説と反復」英宝社
エーコ「開かれた作品」青土社
グリーンブラッド「ルネサンスの自己成型」みすず書房

…して、図書館に出かける。
マシュレーは図書館になし。
(補足:マシュレーはアルチュセール派の人。アルチュセールの「資本論を読む」の第1巻にも寄稿)
グリーンブラッドはとりあえずあったけど今回は後回し(新歴史主義?)
エーコは…また後で

…で、借りたのは…
ウィリアム・エンプソン「曖昧の七つの型」(研究社初版→岩波文庫上下巻で。戦前の日本、日中戦争下と社会主義中国成立期の2回中国滞在)
J・ヒリス・ミラー「小説と反復」(英宝社)
(補足:両者ともまだちら見段階…)
(2019 02/24)

第1章「理論とは何か?」、第2章「文学とは何か?文学は重要か?」

 次々と介在してくる補遺はものそれ自体がそこにあるような感覚を、物自体の印象を、直接的にそれが現前する、起源を知覚したといった印象を生みだす一方で、物自体を先送りしてしまうのだ。直接性は派生的なもの。すべては媒介から始まる。
(デリダのルソー「告白」についての評論から)
(p18)

 理論に対する敵意のかなりの部分は、理論が重要であることを認めてしまうと際限なくかかわるしかなくなり、いつまでたっても自分の知らない大事なことが残っている状態に身を置かねばならなくなることから来ている。けれども、これは人生そのもののありようにすぎない。
(p24)

理論化というのは、人間に備わった能力(おそらく若干は本能的でもある)で、しかもその理論と目の前に横たわっている現実とは常に乖離が存在し続ける…というのが一般論で、この文章の事態はまさに自分個人の精神状態をよく表しているようにも思えてくる。
(2019  02/27)

 文学の「自己照射性」の問題に直面する。小説は、あるレベルにおいては、小説について述べたもの、経験を表象し、それに形や意味を与えることの可能性について述べたものでもある。
(p51-52)


自分はよく「この文章は小説全体や構造を言い表しているのではないか」などという感想を抱いて書くことがあるので、自己照射性は得意分野…

 つまるところ文学の「文学らしさ」とは、素材としての言語と、文学とは何かという読者の慣習的な期待の相互作用が生む緊張にあると言えるかもしれない。
(p53)

 文学はそれ自体の限界をさらけ出し、批判することによって、存続している制度である。
(p61)

また名文来た(笑)。特に小説においては、誕生の瞬間から批評を内在していた、作者自身という読み手という意味でも、書き手は読み手を常に意識し、読み手もそれに応じながら。文学批評はその先鋭化された現場。
(2019 03/03)

第3章「文学とカルチュラル・スタディーズ」

 この二つは相補う関係にあると言うこともできるだろう。「理論」は理論、カルチュラル・スタディーズは実践とみなして。カルチュラル・スタディーズとは、てっとりばやく「理論」と呼ばれているものを理論とする実践ということにして。
(p64)

 これら二つの文化の分析-人々の表現としての文化と、人々に押し付けられたものとしての文化-の相互作用は、イギリスでも、それ以外の所でも、カルチュラル・スタディーズの発展にとって重要なものとなった。
(p67)

 具体的な文化や実践は、ひとをある種の願望や価値観を持ったものとみなして「呼びかけ」たり、話しかけたりしてくるのであるが、人々はそれによって、どの程度まで主体として構築されるのだろうか。
(p67 「呼びかけ」とはアルチュセールの概念…説明は直後のp68にある)

 文学研究を長い間支配していた原則から-興味を引く重要な点は個々の作品の独特の複雑さだということから-解放されると、カルチュラル・スタディーズは容易に一種の非数量的な社会学になってしまって、作品それ自体で興味を引くものとはせずに、何か他のことの事例か徴候として扱うだけでなく、その他もろもろの誘惑に屈してしまうことになる。
(p75)

 すぐに理解したいという要求を一時停止すること、意味の境界線に眼を凝らすこと、言語と想像力の思いがけない生産的な効果にみずからを開いておくこと-こうした姿勢は、文学を読むためだけでなく、他の文化現象を考えるためにも、特に重要である。
(p77)

カルチュラル・スタディーズというもの自体が自分にはまだわからないけれど、ここでのカラーの立場は、好意的でもあるし、批判的でもある。少なくとも、まだ両者の間には対話(討論)が必要という認識がある。
(2019 03/06)

第4章「言語、意味、解釈」

 しかし、二つの研究法は原則としてまったく別々のものであり、目標も異なるし、論拠とするものも異なる。意味や効果を出発点とするのと(詩学)、意味を発見しようとするのとでは(解釈学)、根本的な違いがある。
(p92)

 作品の意味は、作者が創作中のある時点で心に懐いていたことでもなく、創作が終わってから作者が作品の意味だと思っていることでもなく、むしろ作者が作品にうまく具体化しおおせたことなのだ、と。
(p99…ここの段落の最後まで、結構重要なところ)

書く、という行為によって生まれたそのものが、という…

 (1)テクストは、その機能を通して、何か言う価値のあることを持っているとする解釈(前ページから議論されている、再構築の解釈学、疑いの解釈学双方)
 (2)テクストを何か非テクスト的なもののー徴候として扱う「徴候論的」解釈
(p102の当該箇所を一部整理変更)

テクストとは何か、という問いは、類似の問い(文学とは何か、意味とは何か、言葉とは何か等)と如何に異なるのか。解釈にも様々な種類があるらしい。突き詰めて考えたい主題ではあるが、ここまでの理解は自分にはまだ…
(2019 03/07)

第5章「レトリック、詩学、詩」

この章は前章を受けて詩学的側面を。そうしたレトリック、技法は根源をたどれば人間の認知・表現能力に到達するのではないか、という認知言語学に通じる議論。

 われわれが何かを知るのは、それを別の何かとして見ることによる。
(p106)


これはメタファーの例。他にもメトニミー、シネクドキ、そしてアイロニー…メタファーとメトニミーはヤコブソンによって「言語の二つの基本構造」とされ、この4つをヘイドン・ホワイトは「経験を理解する基本的なレトリックの構造」として彼の歴史研究に使われている。

 詩は、魔力や呪文を生みだすために、意味に直結しない特徴をー音、リズム、文字の繰り返しをー前景化しながら、片言を言うようなものだというのである。
(p116 ノースロップ・フライ「批評の解剖」)


後半部分はちょっと理解できてないところが多いけれど、最後にエズラ・パウンドの二行詩「メトロの駅で」を引用しておく。

 群衆の中のこれらの顔の出現
 濡れた黒い枝の上の花びら
(p120)


(2019 03/18)

第6章「物語(ナラティブ)」、第7章「行為遂行的な(パフォーマティブな)言語」


第6章は物語論(ナラティブ)。ここは自分の興味の中心であり、なおかつ発達心理学も絡んでいるとあれば、じっくり読まないといけない。もし、物語のプロット等を求める心性が(詩と違って)全人類共通なものとするならば、それはどこから来ているのだろうか。また提示される欲望が宙ぶらりんになる状態が不安定でその解決が物語であるという説も魅力的。

 つまり、「誰が話すのか」と、「誰が見るのか」は別の問題である。誰の観点から出来事に焦点が絞られ、提示されているのか。焦点人物は語り手と同じ場合も、そうでないこともある。その変数は無数にある。
(p132)


ミーケ・バールやジェラール・ジュネットは後者のことを「焦点化」と言っている。同じジェラール・ジュネットの「擬似反復」って何だろう?

第7章はオースティンの行為遂行的な発話について。始まったばかりだが、これはある概念がどう文学の理論に取り入れられていくのか、の具体例を見ていく章らしい。
(2019 03/20)

「文学理論」第7章読み終え。行為遂行的発話はオースティンのようなその発話で形成される行為に着目するのと、フェミニズム(ゲイとかもろもろも)理論のような周りから(あるいは自分からでも)言われた(言った)ことがやがてその人の帰属を決定していくというのと、向きは逆のような気が…
(補足:自分の記録で自分の考えを(珍しく)言っている箇所だけど、何の「向き」?)
文学は行為遂行的かどうかというのも…
(2019 03/22)

第8章「アイデンティティ、同一化、主体(サブジェクト)」

「私」というものは何か。これを所与のものか構築していくものかの軸と、個人的なものか社会的なものかの軸の座標で考えていく。前章の言葉と遂行的言語の議論を自己論として取り込むことにもなる。

 真の自己は愛情を通して、家族や友達との関係を通して見いだすものだという考え方はー今では広く受けいれられているが、もとをただせば、一八、一九世紀に女性のアイデンティティのとらえ方として始まったもので、後に男性にも拡げられたにすぎないのである。
(p169  ナンシー・アームストロング「欲望と家族の虚構」?(邦訳無し?))

 つまるところ精神分析は、有名な本格小説の数々から引き出される教訓を再確認するかたちになる。つまり、アイデンティティは達成されず、われわれは男にも女にもうまくなりおおせることができず、社会規範の内面化はつねに抵抗にあい(社会学者は円滑に容赦なく起こるものと理論化するのだが)、結局はうまくいかない、ということを。われわれは自分がなるはずのものになることはない。
(p171)


社会学も好きな自分としてはそっちから再確認したくなる(しろよ(笑))。

 要するに理論とは、一組の解決法を提供してくれるものではなく、さらに踏み込んで考えるための見通しを与えてくれるものなのである。理論は、ひたすら読むことを、前提に挑戦することを、あなたが前提としていたことに疑問を持つことを要求する。
(p179)

疑問…持ってましたっけ(笑)
(2019 03/24)

 大切なのは、このような複雑性の楽しみが発生するためには文学とは何か、作品とは何かが厳密に一義的に規定されていない方が都合がいいということである。
(p202 富山氏の解説から)

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