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「誘惑者」 ヘルマン・ブロッホ

古井由吉 訳  世界文学全集  筑摩書房

西荻窪、音羽館で購入。
(2013 11/09)

こっそり「誘惑者」


家でちびちびブロッホの「誘惑者」読む。二段組の大作なので読み始めたらこれだけで年内におさまりきらない…

語り手は若い頃は都市に住む科学者であったのが、田舎に「逃亡」して村医者になったという経歴を持つ老人。これはある程度ブロッホ自身の経歴と重なる。

短い語り手のまえがきで以上のような背景が語られた後、語りは前の年の3月から始まる。村で語り手はなんか気になるよそ者を見かけるのだけど…語り手の視点でずっと村の内部で語られながら、そのよそ者がトラックの荷台に乗って村に入り、同じトラックの荷台に乗って出ていく(のかいかないのか…)、その視点が並行する、奇妙な味わい。
(2013 12/04)

誘惑者と山の小説

 われわれの内の子供がたどたどしい脚で生涯われわれと道をともに歩んで来て、そして最後の夜こそ母の手で寝かしつけられたいと欲しているのだ。
(p41)
 なぜなら死は大きなことである、しかし死が人間の魂の中で生きるということは、もっと大きなことなのだ。死の力から生が不可思議に絶えまなく生まれてくるのだー魂の深みにおいて、山の深みにおいて、海の深みにおいて。
(p46)


こんな文章が次から次へと出てくるから先へ進めません(笑)…
でも、物語の筋もあるにはあって進み始め、ちらちら出てきたよそ者…「誘惑者」マリウスが、村を黄金探しに導くらしい。まだ旧鉱山に一人で偵察しに行っているところだが。

この「誘惑者」はどうやらプチヒトラーらしい…対して、誘惑になびかない村人もいる(って、解説にあった)。今読んでいるところのギションのおかみさんなどはそうであろう。
でも、ブロッホの構想はそれより高い(深い?)宗教的なところにある。ならばこの作品のタイトルはやはり研究者内の通称「山の小説」の方がいいのかな(遺稿なので、ブロッホ自身がつけたタイトルは無し)。どだろうか。
来年1月には読み終えていたいね…
(2013 12/08)

こだまと比喩


「誘惑者」第2章に移ってそこから今回は主に2つの話題を。
人間はこだまみたいなものだという。自然のまた共同体に自分の行為を投げかけ、そして返ってくる。しかし、都会ではこだまが返ってこなくて、無限に落ちていく。だから、語り手は都会から逃げてきたのだ、という。この無限という言葉、自然の中で宗教的に感じる時に使う場合と、さっきのように都会の深淵に使う場合と、この作品には二種ある。たぶん、原文も同じ語ではないのかなあ。
一方、比喩の方。

 年を取ると、多くのことが比喩にすぎぬということを、学ぶものだ
(p71)


ペリンという村の長老みたいな人の言葉。
あとは、ウェチーという語り手の隣人であって村唯一のカルヴァン派の家族の立ち位置でなかなかわかりにくい新旧教の日常的な差異がわかったり、復活祭礼拝終了後の飲み屋での会話の盛り上がり方がわかったり、などなど。緻密に書かれているから伝わってくるものも多いのだろう。
(2013 12/11)

夢と世俗的観察


「誘惑者」今朝は2ページくらいしか進まなかったけど、そこ(p116)に夢について書いてあったのは取り上げておかないと。

夢は過去はもちろん、未来も含んでいて押し流していく、そして、未来の時間が少なくなった老年期に初めて夢の解読に取り組める、と。そいえば、この第3章の章題は夢だった(と思う…)。なぜ、まだ知らない未来のことも夢に含まれるのかは、この小説全体のテーマに関わってくるのだろう。

この小説は宗教的、哲学的考察と、それからそれと一体化している壮大な自然描写に特色があるのですが、その小説のあちこちに細かな世俗的な観察がちらりと入っているのも見逃せない。今朝読んだところでは、アガーテが編んでいる毛糸の玉に商標がついている…とか。
(2013 12/13)

多層な空間の源


「誘惑者」は3~4章。

 このようなやはりまだ地上的な空間の背後には、数知れぬほかの空間が存在するのだ。それはえも言われぬほど多様な、それゆえもはや土地風景をなさぬ空間であり、われわれはそれをしも、ほかに適切な表現もないので、無限な空間と読んでいる。
(p136)


そういう空間が出てくる代表的な場がこの章の題でもある夢なんだろうけど、それ以外の日常生活でも不意にそういう空間がぽっかりと開いて見えることもある。ブロッホはその源を見つめていく。

章が変わり、物語も動きが出てきて、6月「石の祝福」という儀式が始まる。次はその儀式の最初に号砲が鳴り響く場面から。

 万有の音楽の不十分な模像。地下的なものを発する異教徒のどよめき。
(p146)


これも異空間の現前の例。そしてこのキリスト教の儀式の中にある昔の異教的要素を感じる。こうした宗教的テーマはこの作品の土台でもあるし、それを離れて民俗的にも興味深い。
(2013 12/17)

夏と夢


久しぶりに進めた「誘惑者」から、夢と夏に関するこんな表現。

 それゆえ、夢はわれわれ自身の中をひとつの息吹きのごとく流れ、しかもわれわれも依然として夢の中を歩みつづける、あたかも樹冠も根も区別のつかぬ森の中にあるごとく。
(p195)


そんな森あるのか…といった感じ…
こうしたメビウスの環的感覚というか構造はなんとなくこの小説全体にもいえるのかな。ここの部分はパヴィッチとも、直前の小川の表現は「生は彼方に」のクンデラなども思い出させる。
この段落のも少し後の方のこの文はどうだろう。

 たしかに、夏はわれわれの問いに答えない。しかし、夏はわれわれを問いから解きはなつ。
(p195)


夏に関してこんなこと考えたこともなかった。でも先の文での夢が人間の内部にも外部にも存在しうる、ということをふまえるとこの文も納得がいく。夏は他の季節と違って、人間一人一人と対等ではなく、包みこんでゆくような、そんな感覚。
筋的には、医者の語り手が感染を防ぐという形で、お隣ウェチーの娘ローザを引き取ってきたところ。イルムガルトと対極に位置する構図かな?
(2013 12/21)

「誘惑者」は語り手が渓谷から川沿いを歩きつつ、夢と川を対比しているところが印象的。
(2013 12/25)

鍛冶屋の位置

 そうなのだ、わたしは夢であったし、また夢である、形象を存在の中に、存在を形象の中に盲目的に映す夢なのだ
(p234)


こんな、文章。このちょっと前のところでも、語り手が出会った人の夢から抜け出て、語り手自身の夢に入る、みたいな表現があったけど、ブロッホはこのどこにでも入っていける?語り手を使いながら世の中の根源の探求に向かっているみたい。それが解説中には宗教的だと書いてあるところだと思う。

この文章の直前には語り手は鍛冶屋と話をするー誘惑者マリウスと村の若者を家に集めて集会などさせているみたい…だけど、マリウスを「火」として自分の若いエネルギーの再演として見ているとともに、少し突き放しても見ている、この鍛冶屋の位置はこの小説中重要かも。この小説は誘惑者マリウスが村をどう煽動していくか、というのか一つの大きな筋なんだけど、その煽動され方というか受け止め方というかが、いろいろな人によって違ってくる、ということが語り手によって報告されているし、また読みどころでもある。
(2013 12/27)

見せかけの成長と現実的静止

 まやかしを彼は築く、そして見せかけを彼は築く
(p275)
 そしてそれが静止して幸福でいられるのは現実的なものの中なのです
(p276)


「誘惑者」で、地震?が起きた後に来たマリウスにおかみさんが語る中に、「男の知識」(前者)と「女の知識」(後者)というのがある。これは実際の男女というより陰陽思想の変わり種とでも言えるのか。どっちが優れているとかいうことではなく、それらが結婚し交わることが重要。

でも、マリウスは女=機械論を出して、女の時代は終わった、男の時代がこの地震によって来る、と言って話し合いは折り合いつかず(最初の方はちょっと交わりそうなところもあったけど…)。
まやかしすら作らない自分はどうなんだろうか?
(2014 01/06)

「誘惑者」はあんまり進んでいないが、まだ自分にはよくわかっていないけど、ブロッホの中では世俗的な地上的なものと、宗教的な地下的なものとが、はっきり別れているわけではないものの対比されているのでは、と思う。その中でマリウス(ヒトラー)の登場というのは一部分に過ぎない。戯画でしかない、そんな気がする。
(2014 01/10)

目に見える聞こえない歌と多様性と一体性


「誘惑者」今朝は310ページ辺り。
この辺り、ブロッホの宗教観の凝縮されたページとなっており、密度も濃い。目に見える聞こえない歌というのを語り手は感じ、それは聞こえる歌、鳴き声よりも深いものに到達するという。これは最初は見えるということに対する西洋思想がずっと与えてきた特権に発するのかとも思ったけど、どうだろうか。見えるというのは幻視的なものを含む。

あとは、人間の人格は、複数の人格が心の中で争っているという単純なものではなく、もっともっと多様性なのだ、と。そうした存在だからこそ、人間は一体性を求めるのだ、と書いてあった。多様性の根源が語り手の言う「地下的なもの」であるのだとしたら、暴力もまたそれに由来する根源的なものなのか?
(2014 01/14)

「誘惑者」は思索的な部分から筋的な部分へ。ウェンツェル率いる若者部隊とのちょっとした小競り合い。その後のこういう若者達には先導がいるのか、先導自身がそれに取り込まれているのか、という会話が気になった。マリウスはどっちなの。そしてその他の…
(2014 01/15)

旅の思想


「誘惑者」は昨日第7章読み終えた。相変わらず全部を引用したいような濃密さだが、そんな中でこんな表現を見つけた。

 旅に出ないと、彼らは自分が何も知らぬということを知ってしまう。
(p333)


ほんとはもっと章の中盤に引用すべき文あったような気がするが…それはともかく、「無知の知」を意識的にあるいは無意識的に避ける為に旅に出る…とは。旅というのは移動する旅だけではなく、その他もろもろの娯楽や夢想?含むのだろうけど。でも、ここで言う彼らがマリウスのような人達を指すのなら、ヒトラーの生涯もまた自分の無知を避ける旅だったのかも(って、想像すると、ぞっとする)。
(2014 01/17)

「誘惑者」を再開した。第8章から。
今のところ、隣人ウェチーの息子の病を治そうと子供の横にいるところ。語り手たる医師は結局は誰も逃れられない死との対決を経ながら、宿命と敗北感の板挟みになっているみたい。この状態が小説最後でどうなっているかがまたポイントかな。
(2014 01/27)

記憶がつながるなにものか


「誘惑者」は山あいの村をしばし離れて、語り手の過去、都会で医院長をしていた頃の回想になっている。
この辺りの宗教的記述は正直自分には飲み込めない、または書いてあること自体がわからないのだが、なんか最終的にはあらゆるものは一つの何かに包みこまれる?らしい。

語り手が田舎を列車で走っている時の車窓の記述からも、車窓にある様々なものは一回性だけど、それが語り手の記憶に入ることによって、先ほどの包みこむ何かに含まれて、いろんな人が共有する…というような思想が見えてくる。これなどはムージルにもつながっていくのではないか?
(2014 02/03)

「誘惑者」の玉ねぎ構造と嵐の比喩


「誘惑者」は語り手の回想部分が終わり、物語の現時点に戻ってくる。回想部分ではバルバラという女医との出会いと死が語られる。助かると思った子供が亡くなり、一方彼女には語り手との子供が産まれる…と思った矢先の自殺。
この小説の大枠はギションのおふくろさんの死とアガーテの出産という生と死の対比であるけれど、これを一番の外皮に、いろいろな生と死が折り重なって、一番内側に両方とも死の閉じられたこの語り手の回想がある、という一種の玉ねぎ構造になっている感じがする。

一方、物語の現時点に戻ってからは、麦うちの背景の中でマリウスとイルムガルトの対が怪しい展開に…ここで、嵐に従うのは生命だけだ、という意味ありげの文が出てきた。ブロッホにとっては、世界大戦もヒトラーも嵐にほかならない、それに従わざるを得ない人間をここでは暗示しているのかな、とも思った。
400ページまで、あと少し。
(2014 02/05)

「誘惑者」8章から9章へ

 思考と言語の、気違いじみた根源、地上的なものの、もはや理解されぬ吸引力ではあるまいか。
(p392)


8章の最後の方から。なんか言葉の根源について言っているみたいなのだが…この文も理解されぬ感じ(笑)、こうした言葉が大きな吸い込む力を持ち、それが地下から生じているというところはわかるような気も。そして、地下では何もかもが混ざりあい渾然一体に…

 しかし人間というものはいつでも大きな火のもとへ還ることを欲するんだ、だから彼らは黄金を探すんだよ…
(p399)


こちらは9章。鍛冶屋がマリウスに煽動されて村が黄金探しに熱入れているのを評した言葉。火というのも技術や戦争などいろいろなものを連想させますが(プロメテウス以来…)、それと黄金(と黄金に例えられる収穫終わった穀物の穂)が繋がって、物語の重要な2つの鍵が結び付いた感を得られる箇所。
(2014 02/07)

マリウスの立ち位置


今のところは「誘惑者」を、ちびちびのんびり通奏低音みたいに読んでいこうと思っている。というわけで、今朝は4ページほど。

そこはマリウスに家を提供しているウェンターと語り手との対話の場面。ウェンターの「神を信じてきたけど、よくわかっていないし救済もされない。ならば大地を信仰してもよいのではないか」との問いに、語り手は心の中では半ば同意するも、マリウスについてまたウェンターに反論する、という構図になっている。
マリウスはブロッホが当時執筆していた時のヒトラーにつながると言われるが、この作品の中のマリウスの立ち位置はもっと微妙。ひょっとしたら、マリウスの一側面はブロッホの思想の現れ、なのかも。少なくとも一部は。
この辺、もうちょっと注意して作品読んでいこうと。
目標3月末?
(2014 02/12)

石の儀式と羽虫と蚊

 そしてときおり彼女は耳を傾けて、流れに逆らう鱒のように立ち止まり、そして涼しさと音楽を自分の肌に流れ過ぎさせた。
(p433)


なんかまた石関係の儀式とお祭りらしい、そんな中の一光景。鱒という表現が印象深いが、この文が、集っている村人達をある種の流れに見立てている中で一段と映えて見える。

 広場におおいかぶさる熱気の雲に誘い寄せられて、あたりの羽虫や蚊がのこらずわたしたちのまわりに集まった。鋭くかぼそく響く虫たちの合唱が、たった一本の絃を切れんばかりに張った不思議なバイオリンによってかなでられた意地の悪い裏声じみた高音部のように、ダンスの音楽を伴奏した。
(p434)


もう説明不要な印象深さを持つ文章。たぶん、この作品中の一番のクライマックスにさしかかっているみたいなんだけど、それを盛り立てバックアップしているかのよう。長い長い作品だけど、そういう意味で全く無駄な部分がない、そういう感じを受ける。
(2014 02/17)

舞台という深層心理


「誘惑者」はついにこの作品の核となるイルムガルト殺害の儀式。どうやらここの下敷になっているのは、旧約聖書のアブラハム(だっけ)の生贄の話らしい。太古の信仰である大地崇拝と生贄の儀式の再来が目の前で行われようとしているのに、語り手たる医者の中にも「やれ」という声が聞こえてきたという。しかもそれに対し驚いたり、儀式をやめさせようとはなかなかせずに、埋没してしまっている。そのことに驚かない。でも、緊張の瞬間には神が生贄としての子羊を差し出すのでは、と語り手は感じる。

しかし、子羊は登場せず、ギションのおふくろさんがマリウス達と対峙する。結局、この対峙の構図のまま、イルムガルトは殺されて(彼女は恍惚状態)しまうのだが、下手人は誰かという問題もあるが、語り手がギションのおふくろさんもなんだかこの儀式に参加しているみたいに見える、と感じているのが自分には気になる。
そこで舞台という概念を考えてみた。人間には何かしらの舞台という深層心理があるのではないか。
人類はいつから衣服を着るようになったのだろうか。
(2014 02/19)

ひとひらの葉


今朝は少ししか進まなかった「誘惑者」は宴の後といった感じのところ。

 それは無限と無限の間を通うやさしい風の使者、無限から来て、無限へと流れ行き、しばらくの間われわれをひとひらの秋の葉のごとく運び、われわれをして予感せしめんとする
(p461)


まだ文は続いているが…
ここで示されているのがこの小説でずっとテーマとなっている「知識」。前のページにある「異教的なもの」生贄の血を必要とするものでも、技術によって陶酔?するものでもなく。

昨日の捕捉だが、この作品全体が3つの構図でできているのではないか、とも思う。
現実の人間達の対立と、異教的なものと先に述べた「知識」との対立、そしてその全体を包み込んでいる「舞台」。昨日のところでは、個人の側の心理面について主に書いたのだけど、全体的な(宗教違うけれど)お釈迦様の手みたいな、そういうものが意識されているように思う。
(2014 02/20)

医者たるものの心得とおふくろさんの夢


「誘惑者」から、まずは語り手の医者の言葉で思わず吹いてしまったので、報告?。
アガーテから、ギションのおふくろさんは病気なのか?と聞かれて答えたのが…

 そんなことお医者にたずねるものじゃないよ。第一にお医者にはそれがけっしてわからない。第二にはお医者はそれに答えるわけにはいかないのだよ…
(p470)


皮肉とユーモアこもった表現ですが、ではどなたにたずねればよろしいのでしょうか(笑)

近くにこんな人がいれば最適人者のギションのおふくろさんですが、p479にはそんな彼女が見た(いつ?)夢の話が挿入してある。
家畜の群れはある境界を軽々と越して庭に入るのに、人間の男女はその境界を越えれない。羞恥の為だという。この章のタイトルにもなっている羞恥。羞恥は知識に至る道を邪魔する何かなのか、あるいは知識に至る必要不可欠なものなのか。この夢がこの構図の原型らしいことは確かなのだけど…
(2014 02/21)

こだまと窒息


印象深い文を引用してたらキリのない「誘惑者」…

 そのわたしもまたおのれのこだまの源泉を探し求めているのではあるまいか。わたしもまた崩れ落ちる夢の下敷となり泥沼に息をふさがれる危険にあるのではなかろうか。
(p493)


前のイルムガルトの犠牲の儀式の時もそうだったけど、語り手はまたブロッホは異教的なものに惹かれつつある自分を気にしている。この黄金探しの坑道落盤事故の場面では、語り手の医者に命からがら逃げ出してきた若者がこだまの話をし、それを語り手が事故現場に引きずっていく。坑道内部ではこだまは聞こえないがある一点では聞こえる、のだという。そこはあらゆる泥水が流入し窒息し何もかもが一体化する場所でもある。
(2014 02/22)

夢の深淵のまわり


昨夜は実は3か月かかって読んでいた大作「誘惑者」を読み終えた。最後の章から。

 われわれはたえず夢の深淵のまわりを、登りくる深淵、堕ちゆく深淵のまわりをさまよい歩く。しかし死においてこそはじめて深淵はわれわれを受け取るのだ。
(p528)


死はいつも夢みたいに自らの近くにある、という意味か。この小説の世界が池のまわり一点に凝縮された印象。
最後はこの長い小説を簡潔にまとめてしまったかのような、アガーテの一言。

 あたしの子供が全体で、あたしはただ一部分なの
(p533)


普通に構図を考えればこれは逆のはずなのに(子供は母親の一部)…この小説には、正反対なものの並置(真夜中の底の真昼、といったような)や、直前の文の全否定(そうなのだ、いやそうではない)といった表現が重ねられていくけれど、こうした作品の文体が徐々に作品中の人物に浸透していくような感じ。
ラストはギションのおふくろさんの死とアガーテの子供の誕生。生と死の並置、あるいは対比。
(2014 02/25)

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