見出し画像

「寄宿生テルレスの混乱」 ローベルト・ムージル

丘沢静也 訳  光文社古典新訳文庫

「門なし」少年一代記?

ホフマンスタール「影のない女」宙吊り状態で、同時期、同時代のムージルの「寄宿生テルレスの混乱」を70ページくらい(3章まで)読んだ。

 すばらしい宝の鉱脈を発見したと思っても、坑道から外に出てみると、もち帰ったのは、ただの石やガラスの破片にすぎない。にもかかわらず、闇のなかで宝はあいかわらず輝いている。
(p8)

これは序に挙げたメーテルリンクの言葉から。言葉によって出されると、やはり自分が見つけ出したと思ったものとは何か違和感を感じる。でも、それでもムージルが語ろうするのは、闇の中に輝いているものが忘れられないためだろう。 
「テルレス」とはドイツ語の「門」と英語の「~レス」との合成語で、いわば「門なし」という意味となる。日本語の名前に無理やりすると(順番変えて)「無門」さん? その「門」が何を意味しているのかというと・・・

 当時、性格と呼べるものがテルレスにはまったくなかったようだ。
(p22)

「門」=性格? では性格とは何? というか、皆さんは性格と呼べるものを持っているだろうか? 性格はキャラクターの訳語でもあることからしてわかるように、何らかの物語的要素、いってみれば人間が相対する他人(達)を理解しやすいように(また自分という「他者」をも理解しやすいように)配置する仕方、なのかもしれない。性格がなかった、と語るムージルは、そういう安易?な物語的要素を拒否したかったに違いない。
また、なんとなく自伝的なこの小説、全寮制学校で起こるいじめ、同性愛などといういかにも濃そうな筋に反してのこの即物的な、なんかの実験報告(ムージルは実験心理学も学んでいる)みたいな書き方(それを活かした丘沢氏の訳含め)も注目。 でも、なんか「門」っていうのとは違うような・・・では、こんなのは?

 性的なものが、思いがけず、ちゃんとした脈絡もなしに、テルレスのなかに押しかけてきたのである。 
(p40)

「なしに」って書いてあるから「門」=脈絡とも思えるけど(そうなると上の物語というのに近くなる)、ではなくて、何か押しかけてくるものを拒めない、何でも入り込んでくる、ゲートのない個人、境界のない個人、ということですか・・・「門」にだいぶ近づいてきた・・・普通は性的なものなんてのは個人内部に年齢とともに生成してくる、と考えがちですが、ムージルは違うらしい。
これと関連するのが、屋敷の扉を閉めて歩く母親や、幼い頃の暗くなる森に取り残された体験など。自分という境界を持つ個人存在の危うさ。 ま、こんな小説?なので、クンデラがムージルを高く評価するのもわかる(ちなみに「特性のない男」(特性・・・まさにキャラクター!)になると、どんどん物語的要素はなくなり、クンデラの評価も上がる(笑))。
さっきの即物的語り口合わせ、クンデラはムージルの後継者といってもいいのかも。この「寄宿生テルレス」は処女作ということで、クンデラの「生は彼方に」になんとなく似てる、かな。どっちも「入門」。「門」はないけど・・・
(2012 03/21)

予言の書?…いやいや…

青年期の混乱を、混乱のままお茶の間?の皆様に届けようとするのが、作者ムージルの考えなので、こっちも混乱してきますが…そいえば「門」という言葉そのものが出てきたなあ…明るい世界と暴力や悪の暗い世界、その境界線の「門」。テルレスにはそれがない…というのは違うような… 

で、標題ですが、テルレスの前に二人の不良?同級生が現れます。バイネベルクとライティング。バジーニというこれまた(美少年の)同級生の盗み事件を巡って、この二人の思想というかお喋りがテルレスの前で展開します。
ライティングの方は革命、暴力を代表する。それを聞くテルレスは「もう革命の時代は終わったのに…」とたぶんフランス革命か1840年代を想定して思うのだが…1906年に出版されて間もなく革命の時代それに乗じて暴力の時代となったのは、言うまでもない。 
一方のバイネベルクは、そういうライティングと他でもないバジーニが同性愛関係にあるのをみつけ、ライティングをはめようとする…らしいのだが、ライティングとの対比で注目すべきはバジーニに対する考え方。バジーニには生きている意味がないからどうなってもよい、とする思想、社会全体をなんらかの有機体のように見る見方は、ドイツ観念論に根を持ち、やがて全体主義にも発展しうる、その幼い形を感じる。 
というわけで、この「寄宿生テルレスの混乱」は予言の書でもある…戦争とファシズムの…でも、実際のムージルの周囲がどうだったかはともかく、こうした考え方、動き、というものは、ロシア革命やナチスに結実しなくとも、別の形でも常に存在しうる、そう考えた方が、この本の読み方としてはかなっているだろう。 
(2012 03/26)

虚数

 晩秋の太陽がぼんやりとした記憶で草地や道をおおっている。
(p133)

「記憶」ってのが中に入ってくることで、なんか独特の空気に、ぽんと投げ込まれる。普段は結びつかないものが、そこでは結びつく。この小説には他にもこのような表現が多い。

 一方では、発明者の力によって、たわいのない説明の言葉に縛りつけられたものでありながら、もう一方では、いまにもその言葉から逃れようとする完全なよそものであるのだから。
(p138)

今のテルレスはその二つによって引き裂かれて「混乱」している。語り得ぬものには沈黙? 上記は今朝の最初に読んだところからだったけど、一方、今日読んだところの最後には虚数の話が出てくる。

 それってさ、最初の橋脚と最後の橋脚しかない橋に似てない? そんな橋なのに、それ以外の橋脚が全部そろってるみたいな顔して、安心して渡るんだ。そんな計算って、ぼく、めまいがしそう。道の一部がどこ行くかわからないようなものだから。
(p162~163)

やられてしまったなあ… 自分が虚数習った時はこんなこと考えたことなかった…東京発大阪行きの飛行機に乗って、19世紀末のウィーンをかいまみてしまうような感覚? 
さて、この2つの哲学的ページの間には、例のバジーニいじめの場面がはさまれている。この思索と筋がどんな小説上の関係にあるのかまだ自分にはわからない。でも、最初の引用文の異質なものも、どこかで重なるのだろう。平行線でさえ、どこかでは交わるそうなのだから…
(2012 03/28)

人間なんてあまりにも日常的な鳥かごのようなもの

標題は「寄宿生テルレスの混乱」p204の文から、タイトル用に短くしたもの。 ということで、筋的にはテルレスはバジーニのことが気になって仕方がなく、まあそこから同性愛に発展していく…のですが、読みどころはその内容ではなく、テルレス少年あるいは青年が「自分」というものをどうやって「自然」的に考えていくか、そのプロセスにあります。

 でもいま、ぼくの考えは雲みたいでね、ある場所に来ると、雲の裂け目みたいで、そこから遠くの漠然とした無限が見えるんだ。
(p180)

こういう雲とかいう表現みると、量子力学の電子雲連想してしまいます。で、そこに青空の無限…強烈なイメージ。 この会話をバイネベルクとした夜、カントと数学教師などの夢を見て、その後の夢うつつ状態で自分の官能について発見?し、「明日ノートに書こう」と考えます。このノートはズベーボ「ゼーノの苦悶」のゼーノにとってのタバコみたいなもの?完成することはなくいつも先延ばし… で、翌日…

 テルレスという有機体におおいかぶさる大波を解釈するためにテルレスが使えたのは、テルレスの感覚が大波から受けとめたイメージだけだったからだ。
(p201)

前ページの深い地底の地震というところも印象深いのだが… ここでいう大波とはさっき言った官能とか感情とかいったもの。
どうやらテルレス…或いはムージルは…官能とか感情を個人を越え出た全体的な波のようなもの、と捉えているようだ。この後では「人間たちから逃げてきた感情」といった表現もみられる。もちろんテルレスが体験しているこうした波は彼由来だが、回りのモノ、そして他人という個別性を越えたものを、テルレスは捉えようとしている。そこで、標題の表現につながる。 

大人テルレス登場

 人間が生きる人生と、人間が感じ、予感し、遠くから見る人生とのあいだには、狭い門のように、目に見えない境界線がある。できごとのイメージが人間のなかに入っていくためには、その門で圧縮される必要がある。
(p239)

またしても、「門」。今度はまたなんか違って前に少し書いた量子力学的な比喩になっている。さっと、何かをかんじている漠然とした雲のようなものに当てる、光、思考、言葉・・・それらは明確な形で取り出すことはできても、圧縮や変形が必ず起こる。そんな「門」が「門」なしテルレスにはない?・・・ことはないのだろうけれど・・・門がないのはテルレス個人の問題というより、この時期の少年の特有の精神なのかも。

 テルレスはどの感情の名前も知らなかった。どの感情についても、なにをはらんでいるか知らなかった。けれどもそうだからこそ、陶酔に誘う力があるのだ。
(p251)

続いて、テルレスもバジーニと性的交渉(の前段階みたいなもの)に至るけど、それでいてバジーニ自体は軽蔑してたり、それよりもっと他のものを切望していると書かれたり、なかなか複雑なものらしい。この辺に知性と魂のバランス関係論が出てくる。

 放蕩者が馬鹿だからだ。知性に対抗してバランスをたもつ魂の力がたりないからだ。
(p253)

この知性対魂という構図はよく(主に前期の)トーマス・マンに現れていたものだ。でも、構図は逆になっている? マンでは魂の方に芸術的・退廃的な力を見出し、ムージルでは知性に芸術・繊細なるものへの道を見出している。この辺りは単に訳語の問題か、自分の読解不足か、それとも二人の重要な差異なのか? 詳しく調べてみなくては・・・

さて、ムージルにとってこの小説の一番のキモにさしかかったみたいなこの辺で、いきなり大人となったテルレスの回顧話というのが出てくる。テルレスはカストルプ(マン「魔の山」の主人公)と違って長生きしたみたい。今までそんな素振りも見せずに、即物的な書き方だけど丁寧にテルレス少年に付き添ってきたのに、唐突な大人テルレスの乱入?に少し戸惑う。 20章(この文庫版での章分け方)まで。

包み込む海…そして

 灰色の、醒めた失望の海が自分とテルレスのあいだに割りこんできたように感じた・・・。
(p280)

ここで何の前振りもなく視点がバジーニになっているのも注目点だが、ここでも感情というものが個人の枠を越えた海というか靄というか渦というか、そういうものとして描かれている。小説最後の先生達を前にしたテルレスの「演説」も、こういう感情の海みたいなものについて言っていたと思うけど、その時にはこうした渦を半ば客観的に見ることができるようになっていた、ようだった。この辺はも少し再考の余地有りか?

最後は、テルレス・・・というかムージルの制作姿勢そのもののようなこんな印象深い引用で締めようか。

 自分の魂が黒い土地のように思えた。地中では芽がもう動いているのだが、それがどんなふうに芽を吹くのかわからない。庭師の姿がしきりに浮かんできた。毎朝、苗床に水をやっている。むらのない、じっと待ちつづける友情をもって。その庭師の姿がテルレスの心を離れない。
(p292)

…テルレスの虚数の話、橋脚の間の虚無の話から、到達する2つの地点。p274-275のバイネベルクの跳び石と、ここでの黒い土地。どっちが正しいか・・・ではなく、2つの側面と考えよう。一人の人間の発達で通過する、あるいは(ひょっとしたら)ある民族の、社会の思想史で見せる、2つの側面。
(2012 03/31)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?