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「小説の技法」 ミラン・クンデラ

西永良成 訳  岩波文庫

元々は法政大学出版会において「小説の精神」金井裕・浅野敏夫訳として出版→「小説の技法」として岩波文庫から西永良成訳で新版。それを東京駅丸善で購入。確かに最初はフッサールの「危機」から論を進めている。フッサールが近代において見落とされてきたという「生活世界」を掬ってきたのは小説であると。
(2020 03/17)


小説の存在理由と詩の消滅

 ただ小説だけが発見できることを発見することこそ小説の唯一の存在理由だ、と執拗に繰り返し述べたヘルマン・ブロッホを私は理解し、彼に賛同する。
(p14)

 まだどこに偉大な詩人がいるでしょうか? 彼らが消え去ったのか、あるいは彼らの声が聴きとれなくなったのか? いずれにしろ、これはかつて詩人なくして考えられなかった私たちのヨーロッパにおいては途方もない変化です。しかし、もし人間が詩を必要としなくなったのだとすれば、果たしてその消滅に気づくことがあるでしょうか? 終末とは黙示録的な爆発ではありません。たぶん終末ほど平穏なものは何もないのです。
(p64ー65)

クンデラの私淑する作家の一人がヘルマン・ブロッホであり、チェコ時代は詩人として出発した。それが以降にも語られる。
(2020 03/19)

「生は彼方に」

クンデラの作品に「生は彼方に」というものがある。読んだ時、このタイトルの意味がよくわからなかった。とそんな時見つけた、沼野充義著「亡命文学論」からヤン・スカーツェルの詩。

 詩人が詩を考え出すのではない
 詩はどこか彼方に
 ひとりで存在している
 詩は果てしなく長いあいだずうっと
 そこに存在し続けてきた
 詩人の仕事はそれを発見するだけのこと
(p101~102)

沼野充義著「亡命文学論」

カフカもその彼方にある「詩」を見つけたということ。とともに、「どこか彼方に」という詩句は、このエッセイのタイトルそのものでもあるのだが、「生は彼方に」を思い起こさせる。

この詩とクンデラの作品「生は彼方に」について、今度はこの「小説の精神」の収録されている当該エッセイ「その後ろのどこかに」を読む(同じ本に収められた「構成の技法についての対談」では「生は彼方に」の構成、上記アダージョ、プレストについても書かれている)。微妙に上記沼野氏の記述や訳と違う。

まず、ヤン・スカーツェルの詩から。

 詩人たちは勝手に詩を作り出すのではない
 詩はその後ろのどこかに、
 遠い、遠い昔から存在しているのだ
 詩人はただその詩を見つけるだけだ
(p160)

上の詩の方が、日本語としては巧みな気もするが、「四行詩」ということだから、下の方が原詩には沿っているのか。

 のちになって、私の視覚は「詩」の光に慣れていき、じぶんを眩惑したもののなかにみずからの経験を見はじめたが、あの光はつねにそこにある。
(p161)

カフカ「城」を読んだ体験(ここでは14歳となっているが沼野氏の本と異なる)。これがクンデラの原体験のようだ。

 詩人は人間の可能性の一つ(「遠い、遠い昔から」すでにそこにある「詩)を「ただ見つける」だけなのであり、〈歴史〉もまた、いつの日かその可能性を見つけることになるだろう。
(p162)

クンデラのいう詩とは、「生は彼方に」で描かれていた「踊る」詩とは違う、いや最初は踊る、眩惑されるのだが、また詩人は新たな人間の可能性を見つける旅に出なければいけない、そういうことか。

…あと、この章冒頭の「亡命者」や家庭内権力の発動(第4節)など、「カフカ的状況」のあれこれが気になる。
(2020 03/24)

第2部「小説の技法についての対談」

 人間と世界はかたつむりとその殻のように結びついているのであり、世界は人間の一部であり、人間の次元であって
(p55)

比喩は直感的にはゾクゾクするほどわかるが、実際に何を意味しているのかは考えてみないと。後半は普通逆(人間は世界の一部であり)なんだけど、そうでないとすれば…

 この「自然の支配者にして所有者」は科学や技術の分野でいくつも奇蹟を成し遂げたあと、突然みずからが何も所有しておらず、自然の支配者でもなく(自然は地球から徐々に退却していく)、〈歴史〉の支配者でもなく(歴史は人間の手を逃れていく)、じぶん自身の支配者でもない(人間はじぶんの心の不合理な力にみちびかれる)ことに気づいたのです。
(p63)

 小説は現実ではなく、実存を検討します。そして実存とは過去に起こったことではなく、人間の可能性の領域、人間がなりうることのすべて、人間に可能なことのすべてです。
(p65)

そしてクンデラは、カフカを実存の小説の端緒とする。この系列に続くのが、ブロッホであり、ムージルである。
(2020 11/07)

第3部「『夢遊の人々』によって示唆された覚書」

 ブロッホにおいて、人物は束の間の真似しがたい唯一性、あらかじめ消え去ることを運命づけられている奇跡的な一瞬ではなく、時間の上に架けられた強固な橋-そこではルターとエッシュ、過去と未来が出会う橋-として構想されている。
(p82)

この観点からマンの「ファウスト博士」やフェンテスの「テラ・ノストラ」を読むページが続く。

 過去の時間が突如、一つの全体として明らかにされ、輝かしく明確で完結した形を見せるのは終焉(愛の終焉、人生の終焉、時代の終焉)の時だ。
(p84)

橋が架けられるのもまた終焉の時においてだろう。

P95からの「未完成のもの」は、特に第三部「ユグノオ または即物主義」に対するクンデラの不満だけど、次ページのその不満に対する「探求」なるものは、そのままクンデラ自身の著作術に通じるのではないか。

1、徹底した簡略化の技法
2、小説的な対位法の技法
3、小説に特有のエッセーの技法
(p96)

最後にブロッホ自身が言ったというこんな言葉を。

 過度な労働分化と極度の専門化の時代にあって、小説は人間がまだ総体としての生との関係を保ちうる最後の場の一つだ、と。
(p98)

これは歳を重ねるごとに実感が深くなる…
(2020 11/08)

第4部「構成の技法についての対談」

(第二部と対談の相手は同じ、第三部のブロッホからの課題?から話は始まる)

セルバンテスの頃から、小説は単線的流れをなんとかして打ち破ろうとしていた。セルバンテスは違う話を「はめ込む」ことによってそれに対処した。ドストエフスキー「悪霊」において、同じテーマによる三つの物語の並走という形が生まれた。ブロッホはこの手法の「物語」という同一ジャンルのポリフォニーから、5つの違うジャンルのポリフォニー(長編小説、短編小説、ルポタージュ、詩、エッセー)のポリフォニーとする。さて、クンデラはブロッホに足りないものは「声部の等価性」と「ひとつの声部がなくても小説には支障がない」ということ。

 定義上実存の明晰な検討であるべき小説の中に、いかにして統制されない想像力を統合するのか? いかにしてこれほど異質な要素を統一するのか?
(p116)

クンデラの若い頃、ピアノ、ヴィオラ、クラリネット、打楽器の四重奏曲なるものを作曲した(当時は小説家になるなど考えていなかった)というが、これがまた七部構成で、異質な要素の構成。

「セルバンテスの宿屋」ヴォードヴィル的要素。「ドン・キホーテ」第一巻で今までの登場人物が同じ宿屋に集まって…本当らしくはない、喜劇的な要素。他の例として、カフカは「アメリカ」冒頭において、ジッド「法王庁の抜け穴」やゴンブロヴィッチ「フェルディドゥルケ」など。クンデラでは「別れのワルツ」や「可笑しい愛」の「シンポジウム」など、これは五部構成。

 喜劇的なものの真の天才とは、もっとも人を笑わせる者たちではなく、喜劇的なものの未知の地帯を明らかにする者たちのことだ。
(p172)

最後の文章は、既に第6部「六十九語」に入っている…(2020 11/15)

小節線と戯れ、忘却に漂う

(タイトルは適当かつ(クンデラが聞いたら)それこそ「キッチュ」だと言われそうだけど)

 性愛の冒険と牧歌とを和解させることは快楽主義の本質そのものだが、また快楽主義の理想が人間には近づきがたい理由でもある。
(p181)

 キッチュへの欲求とは、物事を美化する偽りの鏡にじぶんを映し見て、ああ、これこそじぶんだと思って感動し、満足感に浸りたいという欲求のことである。
(p185)

 卑猥とは私たちを祖国に結びつけるもっとも深い根のことだ。
(p198)

 忘却とは、絶対的な不正であると同時に絶対的な慰めのことなのだ。
(p200)

 (私は同義語という概念そのものを認めない。どの語にも固有の意味があるのだから、意味論的には取り替えられないものなのだ)
(p202)

 彼(小説家)はおのれの声ではなく、彼が追求する形式に心を奪われるのであり、みずからの夢の要請に応える形式のみが彼の作品の一部になる。
(p205)

 リズムのもっとも偉大な巨匠たちはこの単調で予測できる規則性を沈黙させるすべを心得ていた。
(p207)

 ロック音楽のリズムの退屈きわまる原始性。これは人間が瞬時もみずからの死への行進を忘れないために増幅される心臓の鼓動のようなものだ。
(p208)

 画一的な生活の幸福感の中で、人々はもはやみずから身につけている制服に気づかないのである。
(p213)

ということで、第6部「六十九語」。事典風にまとめている。人間は徹底的に何かをするということが苦手。忘れたり、自惚れたりする。ロックに関する言葉は手厳しいとも思うけど、よく読めば全否定でもないとも思う。
(2020 11/17)

第7部「エルサレム講演-小説とヨーロッパ」

 「人間は考え、神は笑う」というユダヤのすばらしい諺があります。この格言に気をそそられ、私はこんな想像をしてみたくなります。ある日、フランソワ・ラブレーに神の笑いが聞こえ、そのようにして最初の偉大なヨーロッパ小説の着想が生まれたのだ、と。
(p221)

 スターンの小説に見られる言外の答えはそれとは違っています。彼によれば、ポエジーは行動の中ではなく、行動の中断の中にあるというのです。
 おそらくここに、間接的な形ではあれ、小説と哲学のあいだの大いなる対話が始まったと言えます。
(p225)

ライプニッツは「おおよそ偶然に見える出来事もなんらかの要因があるのだ」と定式化する。それと対話し、反対方向に拡張するのが、小説。
そして因果関係のほころびには、笑いが生まれる。

 ポエジーは行動の中ではなく、行動が中断するところ、原因と結果のあいだを繋ぐ橋が砕け、思考が甘美で無為な自由をさ迷うところにあると言うのです。スターンの小説は、実存のポエジーは逸脱の中にこそあると言っているのであります。
(p226)

この評論集?も七部構成だが、最初と最後が講演でこだましあっていること、第2、4部が対談(同じ対談を分割)、第3、5部がブロッホとカフカの評論、第6部がちょっと異質に見える用語集…3、5がアダージョな音楽的構成、なんてクンデラの他作品のように考えるのも楽しい。
(2020 11/18)

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