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「社会学的想像力」 C・ライト・ミルズ

伊奈正人・中村好孝 訳  ちくま学芸文庫  筑摩書房

私的問題と公的問題の交差系


ミルズ「社会学的想像力」もちらっと。
社会学的想像力とはこの二つを繋げるパースペクティブのことを言うらしい。どちらか一方だけでは限界がある。
(2017 12/28)

 それ(社会学的想像力)は、人間とは隔絶されたような客観的な変化から身近な自己の親密性へと眼を移し、そして両者の関わりを見ることのできる能力である。それが駆動している背後には、個人がひとりの特徴ある存在として生きている社会・時代において、自分が社会的・歴史的にどのような意味をもっているのかを知ろうとする衝動が必ずある。
(p23)
 多くの個人的な生活圏における変化を理解するためには、それらを超えて物をみる必要がある。そして、私たちがそのなかで生きている諸制度が、相互に関連し、複雑に絡みあえほど、そうした構造変動の数や種類は増える。
(p28-29)


(2021 06/03)

ミルズ対パーソンズ


序章のような第1章「約束」を終え、第2章から第6章までは、既存の社会学の問題点洗い出し、第7章以降は「約束」に到達するにはどのようにすればよいのか実践編。

というわけで、第2章。
タルコット・パーソンズら「グランドセオリー」派の社会学をミルズは批判する。
言語学の言葉を借りて「彼らは社会学の統語論だけ極めて、意味論を全く論じない」と断ずる。
パーソンズの権威論では「正統化」(支配的シンボルや常套句)のみを取り上げて、それ以外を顧みない。

 彼らはいかなる種類の政治的な関わりにも注意を向けない。彼らはラディカルでもないし、反動的でもない。彼らは運動することを避けている。古代ギリシャ人たちは私的空間に閉じこもった人間を馬鹿者だと定義したが、それに従うならば、多くの社会の多くの人々は実際馬鹿者であると結論づけなければならない。
(p81-82)


アーレントの議論も思い出させる。確か3番目の類型…

 イデオロギーの役割ということからすると、説得的な正統化がしばしば行われず、大衆のアパシーが顕著であること、この二つが、間違いなく今日の西洋社会の核となる政治的事実なのである。
(p82)


(アパシー…無気力・無関心)
解説にもあるように、ミルズはパーソンズの全否定をしている、わけではない。そしてパーソンズらは、実際の歴史的社会を研究する場合は主にマルクス主義の用語を多く使うということ。研究方法のダブルスタンダードではないか、というわけだ…
(2021 06/07)

第3章「抽象化された経験主義」

ここでは中心人物としてラザースフェルドが挙げられている。統計的手法とインタビューによって数値化し、公分母を大きくし、研究の積み重ねをしていく、という。しかしそれはミルズによれば、薄い単発なものなだけであり、事実や理念と重ね合わせる視点がない、方法の為に研究を狭めていると指摘する。
でも、ラザースフェルドはミルズをコロンビア大学に招いた恩人でもあるのだという。

 「社会理論」は全体として、そういった概念、つまりは統計的な発見の解釈変数に有用な変数を体系的に集めたものとなる。
(p115)


他の社会科学の解釈や哲学を、科学に「変換」するのが、ここでいう「解釈変数」。
こうした研究はやがてこうなっていく。

 おそらく、彼らは[官僚主義的な社会学を]科学の自然史の一部と偽装することで、技術哲学のプロパガンダを行い、行政管理能力を賞賛しているのである。
(p116)


…でも、こういう行政と連動した社会学というのは、アメリカ特有なのかもしれない。アメリカでは社会学はこういう理由によって盛んなのか。日本にはない形ではないか。
(2021 06/08)

社会学と実用性、アメリカの場合


第4章「実用性の諸タイプ」…社会科学における価値判断の考察か…

 今日、アメリカにおける多くの-というよりはほとんどの-社会科学者は、気楽か不安げかの差はあるが、ともかくリベラルである。彼らは同調的となり、情熱的に何かに関与することを恐れている。そうした人々が、「価値判断をする」ことを批判する場合に望んでいるのは、「科学的な客観性」などではさらさらなく、関与を回避することなのである。
(p140)


ミルズ自身はかなり「情熱的」な研究をしてきたのだろう。それはともかく、価値判断から全く自由な客観的な研究とか立場などは存立できないはずなのだが、当時の認識はどうだったのだろうか。
(2021 06/09)

 「文化遅滞」という概念が、この「ユートピア的」で進歩主義的な思考スタイルの核となっている。この概念の骨子は、進歩するテクノロジーの状態と「同じ水準までもってゆく」ために、何かを変える必要性を提起する、という考え方である。
(p156)


「実用性」2種。リベラルな実用性とリベラルでない実用性。前者はアメリカ移民研究などで用いられた、親社会に対する個人の「適応度」という考え方。上の「文化遅滞」もそこで用いられる概念。後者は企業、軍隊、国家などの組織に役立つものが重要視される。

 社会科学者の立場は、学術的なものから官僚的なものへと変わる。社会科学にとっての公衆は、改革運動から意思決定機構へと変わり、取り組む問題も自分自身で選んだものから新しいクライアントの選んだものに変わる。
(p168)


まだ、第4章、少し残っている…
(2021 06/10)

第5章での見立て

第4章終わるのに当たって、ちょっと皮肉な箇所を。

 こうしたことが意味するのは、アメリカの学問状況において、イデオロギー的な転向も、政治的罪悪感もなしに、新しい実用性を選び取ることが可能だということである。誰かが「売り渡している」などとこれを表現するのは、適切さを欠いているし、ナイーブすぎる。なぜなら、そうした厳しい言い方が適切なのは、売り渡すに足る何かがある場合だけだからである。
(p173-174)


パーソンズはともかく、ラザースフェルドという名前は(たぶん)初めて聞く名前なので、ちょっとwikiで。ラジオ研究(例の火星人侵略ドラマ事件も)、大統領選挙(オピニオンリーダー)、コミュニケーション研究等、あのアドルノもこの人の研究室で働いていたのだとか。というか、ラザースフェルド自身も移民か亡命してきたらしい?

これまでの流れを。ミルズが考えるアメリカ社会学の主流の(間違った)二つが、第2章グランドセオリーと第3章抽象化された経験主義、そのうち後者が第4章のリベラルでない実用主義と結びつきできたのが、これから読む第5章の「官僚制のエートス」。

 これらの官僚主義的な研究スタイル、それを体現する研究機構は、現代社会構造の主要な動向、時代に典型的な思考法と一体になっている。両者が表裏一体であることを認識できてはじめて、官僚主義的な研究の展開を説明し、十分に理解することが可能だと私は思うのである。
(p185-186)


抽象化された経験主義はイデオロギー的な性格を持たない。それを体現するのはグランドセオリーの方である。特に示し合わせたわけではないけれど、このミルズの見立てでは両者が「二者独占」し社会科学の発展を妨げているとしている。
(2021 06/11)

第6章「科学哲学」、第7章「人間の多様性」

 ところで、「基本問題」とその解答のためには、個人史の「深層」から生じる不安と、歴史的社会構造から生じる無関心との双方に注意を注ぐ必要がある。問題を選択して定立することにより、まず第一に、私たちは無関心を公的問題に変換し、不安を私的問題に変換する。そして第二に、定立された問題のなかに私的問題と公的問題の双方を位置づけなくてはならない。どちらの段階においても、できるだけ単純に、正確に、問題に含まれる価値と脅威を論定し、照らし合わせなくてはならない。
(p225-226)


ちょうど本の折り返し地点。第1章の「約束」を想起させている。「不安」は公的問題なんだっけ?
次から第7章

 ある意味で、本書は全体として、このバイアスへの反論である。私の考えでは、重要な問題を真剣に考察するようになれば、大半の社会科学者は、国民国家よりも小さな単位で定式化するのは非常に難しいことに気づくのである。
(p234)


このバイアスとは、抽象化された敬虔主義の研究が陥りがちな、国民国家よりミクロな単位だけを抽出しようとするもの。彼らは国民という単位は大きすぎてうさんくさいとしている、とミルズは述べる。今の世界をミルズが見たら何を言うのだろうか。
続いては社会科学の「統一」について。今までの議論で「社会科学」(「社会学」ではなく)という言葉が主に使われてきたことに違和感もありながら読んできた。

 実際、歴史的に見ると、専門分野としての経済学と政治学は、近代西洋という歴史段階においては各制度秩序が自律的領域であると主張されていたということから解釈されなければならない面がある。しかし、自律的な制度的秩序からなる社会というモデルは、社会科学でうまく機能する唯一のモデルではないことは確かである。
(p240)


この辺りものすごく興味ある。ミルズがこの本の出版後3年で亡くならなかったらどのような地平が開けたのだろうか。「パワーエリート」というのはこういう横断領域の成果の典型例でもあろう。
ミルズがどう展望していたのかについてはこの章最後にヒントがある。それは問題(意識)による、学問分化という可能性。

 専門は、学問の境界線によってではなく、主題とする「問題」によって分化すべきである。
(p243)


この提言、現在では半ば事実化してる?
(2021 06/12)

歴史と社会と心理

 しかしなによりも、社会科学者はいくつかの主要な趨勢を同時にまとめて見ようとしている。
(p261)


第8章は「歴史の利用」。ここでは歴史学だけでなく、心理学の利用も扱っており(なんかこの本、章の名付けが不適切…というか、ミルズが最初の構想より脱線しがち、なのかも)、最後には心理学も歴史を利用すべきと提言している。

 ある社会に、ある歴史段階が欠如していることに私たちが気づくのは、比較研究によるしかないのであって、しばしばこの欠如は、その社会の現在の形を理解するためにまったく不可欠なのである。封建時代の欠如は、エリートの性質や極端な地位流動性といったアメリカ社会の多くの特徴にとって本質的な条件であるが、この欠如が、階級構造の不足や「階級意識の不足」と非常にしばしば混同されてきた。
(p266)


現代はイブン・ハルドゥーンの「歴史序説」的世界観、歴史の循環、砂漠の世界とは異なり、これらの過去のさまざまな社会に比較して「歴史的な説明が重要でない段階の社会」となっている。それが社会科学者が歴史を軽視する理由ともなっているのだが、この文章に挙げたように、その「歴史的説明が重要でない段階の社会」という考察自体が歴史的考察であって、その歴史的状況がこのアメリカの事態の説明をしている、ということ。

ここからは心理学ゾーン…

 おそらく、近年の心理学と社会科学で最もラディカルな発見は、人間の最も内面的な特徴のいかに多くが、社会的にパターン化されており、教え込まれているのかという発見である。
(p272)


感情と社会的個人史、物質界の認識や生理機能の社会的パターン化、個人の動機づけと動機を現す語彙とその揺らぎ…

…最後の引用、長くなっていいですか…

 人間としての人間に共通するなんらかの「人間性」という考え方は、人間の研究における注意深い仕事が必要とする社会的歴史的特殊性に違反している。少なくとも、社会を研究する者は、そのような抽象を行う権利を得ていない。私たちは人間について実はそれほど多くを知っておらず、私たちのもっている知識は、歴史と個人史のなかで明らかになる人間の多様性を取り巻く謎めいたものを完全には取り除いていないということを、時折しっかり思い出すべきである。私たちはたまにはその謎にふけり、結局自分たちはその謎の一部なのだと感じたいこともあるし、多分そうするはずである。しかし西洋人である私たちは、人間の多様性を研究することも避けられないだろう。それは私たちにとっては、視界に入る人間の多様性から謎を取り除くという意味である。その際、私たちが研究しているものが何であるか、人間と歴史と個人史についていかにわずかしか知らないか、私たちがその被造物であると同時に創造者でもある社会についていかにわずかしか知らないか、忘れないようにしよう。
(p276-277)

第9章「理性と自由について」

 極端な場合、合理性が拡大し、その中枢と管理が個人から大規模組織へと移動するに伴って、ほとんどの人にとり理性の機会は破壊される。そこに存在するのは理性なき合理性である。そのような合理性は、自由に相応するものではなく、自由を破壊する。
(p287)
 そのような装置を使う人々が、それを理解していない。それを発明する人々が他のことをあまり理解していない。だからこそ私たちは、技術的な豊かさを、人間の資質と文化の進歩の指標として決して使ってはいけないのである。
(p295)


ここも「パワーエリート」的な箇所。こういう提言も実はもう古臭く、今は「自由って何? 理性って何?」という世の中なのかも。無意味杓子定規的な「正義」がまかり通っているだけで。
(2021 06/13)

第10章「政治について」と付録

 歴史形成のより新しい手段についての諸事実から見るならば、人間が必ずしも運命に束縛されておらず、人間はいまや歴史を作ることができることがわかる。しかしこの事実は、さらに人間に歴史形成の希望を与えるイデオロギーが今まさに西洋社会で衰退し挫折しかけているという事実からするならば、皮肉なものになる。
(p307)


続いて付録の「知的職人論」。ここは実際のミルズ自身の研究の日常風景でもある。
p338から339のところ。
1、組織された少数者
2、組織された多数者
3、組織されない少数者
4、組織されない多数者
19世紀から20世紀にかけて、世界は1と4で構成されていた時代から、3と2で構成された時代へと移行したという。
あと少し…
(2021 06/14)

付録続き。この章がこの本の中で一番「社会学的想像力」に相応しい…

 少なくとも私は近頃では、すべてのものの規模を自分でコントロールできる想像上の世界の中で、要素、状態、因果関係をそれぞれいじってみるまでは、何かを実際に数えたり測ったりしようと考えることは決してない。
(p359)
 思考は、秩序と包括性を同時に獲得しようとする戦いである。
(p372)


この本の初版は1959年。勝手に思っていたのより20年くらい前…そう思うとかなり先駆的な本ではないか。ここから学生運動とかも出てくる。そしてこの3年後ミルズは亡くなる…
(2021 06/15)

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