伊奈正人・中村好孝 訳 ちくま学芸文庫 筑摩書房
私的問題と公的問題の交差系
ミルズ「社会学的想像力」もちらっと。
社会学的想像力とはこの二つを繋げるパースペクティブのことを言うらしい。どちらか一方だけでは限界がある。
(2017 12/28)
(2021 06/03)
ミルズ対パーソンズ
序章のような第1章「約束」を終え、第2章から第6章までは、既存の社会学の問題点洗い出し、第7章以降は「約束」に到達するにはどのようにすればよいのか実践編。
というわけで、第2章。
タルコット・パーソンズら「グランドセオリー」派の社会学をミルズは批判する。
言語学の言葉を借りて「彼らは社会学の統語論だけ極めて、意味論を全く論じない」と断ずる。
パーソンズの権威論では「正統化」(支配的シンボルや常套句)のみを取り上げて、それ以外を顧みない。
アーレントの議論も思い出させる。確か3番目の類型…
(アパシー…無気力・無関心)
解説にもあるように、ミルズはパーソンズの全否定をしている、わけではない。そしてパーソンズらは、実際の歴史的社会を研究する場合は主にマルクス主義の用語を多く使うということ。研究方法のダブルスタンダードではないか、というわけだ…
(2021 06/07)
第3章「抽象化された経験主義」
ここでは中心人物としてラザースフェルドが挙げられている。統計的手法とインタビューによって数値化し、公分母を大きくし、研究の積み重ねをしていく、という。しかしそれはミルズによれば、薄い単発なものなだけであり、事実や理念と重ね合わせる視点がない、方法の為に研究を狭めていると指摘する。
でも、ラザースフェルドはミルズをコロンビア大学に招いた恩人でもあるのだという。
他の社会科学の解釈や哲学を、科学に「変換」するのが、ここでいう「解釈変数」。
こうした研究はやがてこうなっていく。
…でも、こういう行政と連動した社会学というのは、アメリカ特有なのかもしれない。アメリカでは社会学はこういう理由によって盛んなのか。日本にはない形ではないか。
(2021 06/08)
社会学と実用性、アメリカの場合
第4章「実用性の諸タイプ」…社会科学における価値判断の考察か…
ミルズ自身はかなり「情熱的」な研究をしてきたのだろう。それはともかく、価値判断から全く自由な客観的な研究とか立場などは存立できないはずなのだが、当時の認識はどうだったのだろうか。
(2021 06/09)
「実用性」2種。リベラルな実用性とリベラルでない実用性。前者はアメリカ移民研究などで用いられた、親社会に対する個人の「適応度」という考え方。上の「文化遅滞」もそこで用いられる概念。後者は企業、軍隊、国家などの組織に役立つものが重要視される。
まだ、第4章、少し残っている…
(2021 06/10)
第5章での見立て
第4章終わるのに当たって、ちょっと皮肉な箇所を。
パーソンズはともかく、ラザースフェルドという名前は(たぶん)初めて聞く名前なので、ちょっとwikiで。ラジオ研究(例の火星人侵略ドラマ事件も)、大統領選挙(オピニオンリーダー)、コミュニケーション研究等、あのアドルノもこの人の研究室で働いていたのだとか。というか、ラザースフェルド自身も移民か亡命してきたらしい?
これまでの流れを。ミルズが考えるアメリカ社会学の主流の(間違った)二つが、第2章グランドセオリーと第3章抽象化された経験主義、そのうち後者が第4章のリベラルでない実用主義と結びつきできたのが、これから読む第5章の「官僚制のエートス」。
抽象化された経験主義はイデオロギー的な性格を持たない。それを体現するのはグランドセオリーの方である。特に示し合わせたわけではないけれど、このミルズの見立てでは両者が「二者独占」し社会科学の発展を妨げているとしている。
(2021 06/11)
第6章「科学哲学」、第7章「人間の多様性」
ちょうど本の折り返し地点。第1章の「約束」を想起させている。「不安」は公的問題なんだっけ?
次から第7章
このバイアスとは、抽象化された敬虔主義の研究が陥りがちな、国民国家よりミクロな単位だけを抽出しようとするもの。彼らは国民という単位は大きすぎてうさんくさいとしている、とミルズは述べる。今の世界をミルズが見たら何を言うのだろうか。
続いては社会科学の「統一」について。今までの議論で「社会科学」(「社会学」ではなく)という言葉が主に使われてきたことに違和感もありながら読んできた。
この辺りものすごく興味ある。ミルズがこの本の出版後3年で亡くならなかったらどのような地平が開けたのだろうか。「パワーエリート」というのはこういう横断領域の成果の典型例でもあろう。
ミルズがどう展望していたのかについてはこの章最後にヒントがある。それは問題(意識)による、学問分化という可能性。
この提言、現在では半ば事実化してる?
(2021 06/12)
歴史と社会と心理
第8章は「歴史の利用」。ここでは歴史学だけでなく、心理学の利用も扱っており(なんかこの本、章の名付けが不適切…というか、ミルズが最初の構想より脱線しがち、なのかも)、最後には心理学も歴史を利用すべきと提言している。
現代はイブン・ハルドゥーンの「歴史序説」的世界観、歴史の循環、砂漠の世界とは異なり、これらの過去のさまざまな社会に比較して「歴史的な説明が重要でない段階の社会」となっている。それが社会科学者が歴史を軽視する理由ともなっているのだが、この文章に挙げたように、その「歴史的説明が重要でない段階の社会」という考察自体が歴史的考察であって、その歴史的状況がこのアメリカの事態の説明をしている、ということ。
ここからは心理学ゾーン…
感情と社会的個人史、物質界の認識や生理機能の社会的パターン化、個人の動機づけと動機を現す語彙とその揺らぎ…
…最後の引用、長くなっていいですか…
第9章「理性と自由について」
ここも「パワーエリート」的な箇所。こういう提言も実はもう古臭く、今は「自由って何? 理性って何?」という世の中なのかも。無意味杓子定規的な「正義」がまかり通っているだけで。
(2021 06/13)
第10章「政治について」と付録
続いて付録の「知的職人論」。ここは実際のミルズ自身の研究の日常風景でもある。
p338から339のところ。
1、組織された少数者
2、組織された多数者
3、組織されない少数者
4、組織されない多数者
19世紀から20世紀にかけて、世界は1と4で構成されていた時代から、3と2で構成された時代へと移行したという。
あと少し…
(2021 06/14)
付録続き。この章がこの本の中で一番「社会学的想像力」に相応しい…
この本の初版は1959年。勝手に思っていたのより20年くらい前…そう思うとかなり先駆的な本ではないか。ここから学生運動とかも出てくる。そしてこの3年後ミルズは亡くなる…
(2021 06/15)