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「ゴーリキー短篇集」 マクシム・ゴーリキー

上田進・横田瑞穂 訳  岩波文庫  岩波書店

「イゼルギリ婆さん」

今日はゴーリキー短編集読んでいる。いくらなんでももう少し評価の浮き沈みに邪魔されず、普通に楽しんでもいいと思うのに…案外幻想味出していると思う。

「イゼルギリ婆さん」はベッサラビア(モルドヴァ)が舞台。ゴーリキーは若い頃、ロシア各地を廻って作家修行をした。その時の成果の一部がこの小説なのだろう。同じ修行を今度はバーベリにも勧めている。
「自己中」のラウラの第一部と、「灯りを持ち進路を示す人」の第三部は神話としてよくわかるのだろうけど、第二部の婆さん自体の物語はなんでしょうね。話の内容からだけみると第一部に近い気が・・・一番重要なのは、この3つの話を同一人物である婆さんが語ったことだろう。それが重要だからこその、背景としての若者達の歌声もろもろ・・・なんだよね?
(2010 05/17)

やたらに全体を感じるゴーリキー


ゴーリキーなのですが、昨日の話も今日の話もなんだか情景に出てくる群衆全体をなんらかの機械か化物?であるのように喩える記述が多くみられるように思う。ゴーリキーは確実に社会実在論者と思われる…
他に共通点といえば、舞台がベッサラビアとかモルダビア(同じ?)だというところ。プーシキンにも当地を舞台とした短編あったよね?
(2010 05/18)

ゴーリキーとは誰なのか・・・


今日は「二十六人の男と一人の少女」と「鷹の歌」

「二十六人・・・」は、これまで読んできたゴーリキーの作品の中で一番お気に入り。なんだか、社会的相互作用論とか社会的認知論のいい教科書になるんじゃないかなあ、と感じました。二十六人の男達は半地下の狭い中でパンを作っている。その外側で一人の少女と兵隊上がりの男がいる。二十六人の男達は(勝手に)少女を偶像化している。兵隊上がりの男はその少女を惚れさせようと二十六人と賭けをする・・・さーて、結末は?という筋の中に、お互いの好意・反感などなど。
例を挙げれば、最初は兵隊上がりにちょっとした好意を持っていた二十六人達が、偶像少女がその男をあまりよく思っていないと感じるやいなや、その男のことが嫌いになったり・・・社会学によくある図式…とか。

さて、それとともにこの小説が巧みなのは、ずーっとこの筋の展開中、二十六人達側に読者を密着させておく。んで、最後の一ページの男達に囲まれた少女の一言で、まるで呪縛が解けたように物語も男達への共感もポンと消える・・・というところ。うーむ、ちょっと思ったのだが、この作品、横光利一の「機械」に影響与えたのではないか?ひょっとして。

もう一つの「鷹の歌」の方はこの作品集2回目の「古老が語る神話」系。この作品は鷹と蛇の対話。なのだが、作品集に収められている1895年版の後に、ゴーリキーは1899年に少し改作をしている。どう変えたか、というと鷹の「革命的な」立場を強調している・・・と解説にはある。自分が読んだ1895年版に関しては少なくとも鷹と蛇「世俗的な」立場は同等に描かれているような気がするのだが。ある箇所ではゴーリキーは明らかに自分の立場を蛇に託している。1895年の時点では等距離に、そして4年の間に何かが変わったのか?

というわけで、ゴーリキーの短篇もこれで5篇読んだことになるのだが、いまだに自分の中での統一された「ゴーリキー像」というのが見えてこない。焦点が合わない・・・という感じを今は持っている。それはそれで面白いのかも?
(2010 05/24)

「零落者の群れ」


今日から「ゴーリキー短編集」の中でももっとも長い「零落者の群れ」を読み始めた。実は自分がゴーリキーを読み始めたのは、例の?「世界文学全集を立ち上げる」(文藝春秋社)で丸谷才一氏が、「零落者の群れ」の頃のゴーリキーは面白い…と書いていたからなのだ。

と、街中の汚物が流れ込んできているような貧しい地域の木賃宿が舞台。そこに様々な理由で来なければならなくなった人々に何かと話しながら世話をする人。もちつもたれつ酒飲み飲まれつつ生活している…今はこういうコミュニティの空間がなくなってきている…という主張をよく聞くが…
…という小さな木賃宿のコミュニティがこれからどうなるのか、物語の展開が楽しみ。

 おのれの場所を得るとは、どういうことなのかね? 人間だれだって、この世の中でどれが本当におのれの場所なのか知ってる者なんかありやしない、おれたちはみんなめいめい自分の穴でもない所にもぐりこんでいるんだ。・・・(中略)・・・世の中ってやつは、おれたちをまるでカルタでも切るようにごちゃごちゃに搗きまぜちまうんだ、だからおれたちは何かの拍子で偶然におのれの場所に足を踏みこむことがあるだけだ、それもほんのちょっとの間さ!
(p225~226) 


ロシア文学読んでいると、カルタってよく出てくる。 
それはともかく、この文読んで「俺はちゃんと自分の場所にいるんだぞ、何言ってるんだ」って胸張って言える人はそうはいないと思う。「自分の穴」というものがあるかどうかの議論の余地はある。もう、産まれる前から撤去済みだったりして。それとも「穴はもぐりこむものじゃない、自分で掘るものなのだ」という人もいるかも?(既成の穴にもぐりこめただけなのに、「自分の穴」だと思っている、という理論がプルデューなのだろう、たぶん) 

 しかしだ、その感情を投げすてちまったら、その後おれやお前たちみんなは、さて何をもって身を守るんだね?
(p257) 


「その感情」とは何か?それはこの後のp260~261にかけて「群れ」の一員であるマルチヤノフや補祭のタラスの例が示してくれる。彼らはいかさま博打や女房を殴るということをなんというか自分の拠り所みたいにしているのだ。
「それは倫理的に反している」というのは容易い。が、行き詰まってその行為に対する偏愛が裏側にまで回ってしまったら、その偏愛を捨てることは自己を捨てるという恐怖感なしにはありえないこととなる。こういった貧しい人々にとってはそれが誇りともなっているのだから。
(2010 05/25)

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