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「ことばとは何か-言語学という冒険」 田中克彦

ちくま新書  筑摩書房

以前読んだ、メンヒェン=ヘルフェン「トゥバ紀行」(岩波文庫)の訳者。ほんとの?フィールドはモンゴルらしい。

 (言語学は)国語学のように規範を設け、まもることではなく、規範は権力が作る相対的なものであることを明らかにした危険な学問
(p38)
 本当は、人間は、自分の使っていることばを、もっとしゃべりやすく使いやすく、そして印象ぶかくするために、無意識の自分の感性にしたがって、ことばを変えているのである。そのような状態での主役は何といってもこどもである。
(p142)


以下、興味深いところをメモ。

中国語のように全く活用しない言語、日本語のような語尾に格助詞などをつけて活用させる言語(膠着語)、語幹に活用が入り込み分割できない言語(屈折語)に分け、それを結晶、植物、動物と進化発展していく(人間とは無関係に)とした19世紀ドイツの言語学。

ソシュールは決して彼の言語学を無から作ったのではなく、共時性というのも先駆があった。

19世紀から20世紀にかけて、ヨーロッパで民族自決の意識が高まり、それらの民族の文章語が整えられる。メイエのように、そういう民族文章語は彼らのためにもならないから増えすぎない方がよい、と言った言語学者もいる。

ロシア革命後、文字を持たない民族が文章語を作らされた(?)例などもっと詳しく知りたい。

1930年代半ばまで、他の民族はもとよりロシア語までキリル文字を廃しラテン文字化する動きがあったという(アタチュルクのトルコ語の先例から)。その後キリル文字化に変更。モンゴル語もラテン文字化の動きを止められ、それを現在のモンゴル国から北のロシア領ブリャート共和国までの汎モンゴル語を作ろうとしたモンゴル人言語学者は粛正されてしまった。

言語は人間文化の産物ではあるが、その中では限りなく自然物に近い。
(2021 05/23)

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