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「波」 ヴァージニア・ウルフ

森山恵 訳  早川書房

荻窪のタイトルで購入。
(2022 02/18)

初読時の記録はこちら

波と6人の子供

一昨日と昨夜読んだ分。といっても一昨日は冒頭数ページのみ。

 花また花が、みどり色の海に点々と浮かんでいるな。花びらは色とりどりの道化帽だ。茎は地下のまっ暗闇から伸び出ている。花たちは暗いみどり色の水面を、光でできた魚のように泳いでいるよ。ぼくは茎をぎゅっと握る。ぼくがこの茎なんだ。根はれんが混じりの乾いた土をつらぬき、鉛や銀の鉱脈をつらぬき、地底深くへと伸びる。全身が植物のせんいだ。
(p10)


この直前まで6人の子供が目の前のことについてそれぞれ何か言っている。この後の展開見ると、同じ学校(とりあえずこう書いておく)にいる近くの6人らしいが、原始の海が泡立つように浮かんでは消え、また浮かんでは…と、接点が特にないまま進む。しかし、この文章からそれらの声が絡み合い、物語が動く。

その始まりはルイの言葉、この6人それぞれ特徴(と実在モデル?)を持つが、ルイはこの中では唯一の外国系、オーストラリア出身で、そのため皆の話しぶりを真似ようと考えている。しかしまた一方では地底深くでは、エジプトとかの想像した異国世界に繋がっている。

 図形にはもうなんの意味もない。意味は消えたの。時計がティックティック、と鳴る。二本の針は砂漠をゆく部隊よ。時計盤の黒い線はみどりのオアシスね。長針が水を探しに先をゆく。もう一本の針は、砂漠の灼ける石のあいだをあえぎよろめいていく。砂漠で息絶えるんだわ。キッチンのドアがバタンと閉まる。野犬がどこか遠くで吠える。ほら、図形のなかの円が、時間でいっぱいになってきた。輪のなかに世界を包んでいる。わたしが図形を描き始めると、そのなかに世界がまるく収まって、なのにわたしはその輪の外。
(p21-22)


この文はロウダ。バーナードとともにウルフ本人が投影されているともいう。自分が輪を書いたら、自分がその外側に追い出されるということは、小説作家の行為そのものではないか。

以下、ここまでで気になった点。
それぞれどこいつの時点?ズレ(一方が大人の時点)とか?
例えばp17のバーナードとスーザンとの対話辺り。何か自分には、子供の時期のバーナードの言葉に対し、大人になってから以降のスーザンが当時を回想しながら返しているように思える。この小説全体が声が響き合う空間を書いたものだから、こんな読みも許されるだろうか。
もう一つ。漢字の開き方(先述p10の「まっ暗闇」の他、「きゅう舎」、「ま昼」(両方ともp16)など)が少し異様。「ま昼」や「きゅう舎」は子供らしい(原文でどうなっているのかは当面は不問)が、「まっ暗闇」は…暗闇漢字で書けるなら前も書けるよね。と、当然ここはウルフと訳者森山氏の意図の掛け算でこうなっているのだろうけれど。様子見。
(2023 01/05)

黒鍵と白鍵、その他

昨夜から今日にかけて。男性陣(って…)中心。

 ぼくにはこういう重大な区別がつかないんだ。。どれが黒鍵でどれが白鍵かわからないまま、ぼくの指は鍵盤上を滑っていく
(p55)


バーナードは周りの人々の観察好き、そして話を組み上げるのが好き。男性の中ではウルフ本人に近いと解説ではされているが、E.M.フォスターも投影されている。あとこのp55では「厩舎」と漢字が出てきた。

 わたしという存在の流れを堰き止めるものがある。深い流れが、何かの障害物を圧迫する。ぐいっと引っぱる、たぐる。けれど何か中心にある塊が抵抗する。ああ、これが痛み、これが苦悶! わたしは気を失い、力尽きる。
(p63)


こうして、ロウダの無抵抗となった身体にその流れは侵入し、発光し、押し出し溢れ出る。自分と他者との境界というのもテーマの一つ。

ここから今日(01/07)。

 でもいまもし目を閉じたら、もし過去と現在の接続地点、つまり夏休みの帰省の少年で満員の三等車、この地点を見逃したら人類の歴史は瞬間のヴィジョンを奪われてしまう。-もしぼくがふとした気の緩みから眠ってしまったら、ぼくを通して見るはずのヴィジョンの目が、閉じるのだ。
(p74)


ルイはなぜか地下深くでエジプトとつながっているらしい。自分がそのヴィジョンの通路を生かしているのだ、という自負は強烈だが、自分自身の存在の証明書類のような役割でもあるのか。

 要するに、ものごとを深く考える能力がぼくには欠けているのさ。何事にも具体性を求める。それを通してしか、世界を把握できないのだ。けれどよく出来たフレーズには、独自の存在感がある気がする。とはいえ、最高のものは孤独のうちに作られるようだな。
(p76)


バーナードの自己分析だけど、彼にも孤独はあって、しかもそこに一番の成果がある、という。

 やつらは不滅だ。やつらが勝利するのだ。これからもずっと、ぼくが三等席でカトゥルスを読むのをじゃまするだろう。
(p79)


こちらはネヴィル。ここまであまり気づかなかったが、バーナードの物語に対して、ネヴィルは詩、それもここにあるカトゥルスを初めとする古代ローマの詩をずっと読んでいる。ルイやバーナードが自分の思想や気質について割と素直?なのに対し、ネヴィルの場合は何重にも屈折したものがあるようだ。

ここで、各エピソード冒頭に掲げられている海や鳥などの自然をスケッチした詩から一節を。

 あるいはまた、生け垣に宿る雨しずくが、垂れさがりながらも落ちず、しずくのなかに家全体を、聳え立つ楡の木々を、たわめて映し出しているのを見ていたのか、あるいは太陽をまっすぐに見つめ、その目を金色のガラス玉にしていたのか。
(p82-83)


ここからまた6人、それにパーシヴァルという「特別存在」が加わっている。パーシヴァルというのは25才で急逝したウルフの兄トビーがモデルの一人とされる。

 何かがぼくから離れていく。何かがぼくから出ていって、こちらに向かってくるあの人物を迎える。…(中略)…とはいえ思い出され、薄められ、自分が混ぜられ、不純にされ、他人の一部にされるとは、なんと痛みが伴うのだろう。彼が近づくにつれ、ぼくは自分自身ではなく、だれかと混ざり合ったネヴィルになる
(p93)


ルイの劣等感情から周りを見ている自己意識とも、バーナードのような一旦自己意識を棚に上げて物語を進める空想が飛び回る場を開けるのとも違い、ネヴィルは自己と他者が自分の中で溶け合うらしい。p63のロウダに近いように思うが。自分的には、ウルフ自身はバーナードよりネヴィルなのかとも思うけれど、そこはまだ不明のまま。
だからか、パーシヴァルへの言及がこの6人の中で一番多いのはネヴィルのような…ここまでだけれど。
(2023 01/07)

スーザンとは誰?

 長い波のように、重たくうねる波のように、おれを頭からのみ込み、彼の破壊的存在によって-おれの正体を暴き、おれの魂の浜辺に小石を剥き出しにしていった。
(p99-100)


ネヴィルと会ったバーナード。ネヴィルは誰かを愛しているらしい。バーナードの部屋に行った二人だったが、ネヴィルはバーナードに自作の詩を渡して出ていってしまう。その後来るのがこの文章。人間存在を丸呑みする波、波が去った後には石…というのが、この小説の人と人が出会う場面で起こる一つのパターン。それに対して、同化するのか拒絶するのか、それはまたその人個人の話。

 それにしてもわたしはだれ? この門に身をもたせ、わたしのセッター犬が鼻を地面にすりつけ輪を描くのを眺めているこのわたしは? ときどき思うの、わたしは女ではなくて(まだ二十歳にもなっていないのよ)この門に、この大地に、射しこむ光なのでは、とね。ときどき思うの、一月とか五月とか十一月とか、様々な季節なのでは、泥土とか霧とか、夜明けなのでは、とね。わたしは、波に身を預けたり、静かに流れたり、ほかの人と混ざり合ったりなんてできないのよ。でもこうして腕にあとがつくまで門にもたれ掛かっていると、脇にひとりでにできた塊の重みを感じる。
(p110)


こちらはスーザン。また波がやってくるが、先程は「魂」でこちらは「塊」。スーザンは他人という波の介入を受け入れない側の人間らしい。ただそれでも何かは起こる。
前半部分、門に寄りかかって犬を見ている姿、この構図は、「オーランドー」でウルフの恋人ヴィダ・サックヴィル=ウェストがこの構図で写真に写っている。でもこの本の解説ではスーザンにはウルフの姉ヴァネッサ・ベルの影響があるとある。
その間に挟まれた部分は特に面白い。自分が他人であるとも、動植物であるとかでもなく、光とか泥土とか果ては月(季節)であるとか思うというのは、自分は初耳。このテーマはこの先、発展するのだろうか。

今、新訳「波」で、再読120ページくらいだけど、前に読んだ時に引いてるとことか、見方とか(作品内で女性三人より男性3人の方が、その中での差異が大きい 2014 05/13)?、今の見方は全く正反対…ひょっとしたら翻訳者の性別によるのか?
とにかく今までの再読シリーズ内で一番印象変わるかも。とりあえず、森山訳はとても読みやすい…
(2023 01/08)

いくつもの部屋

この章?では、インドに渡るパーシヴァルを送るために、例の6人が久しぶりに集まりをもったが描かれる。パーシヴァル自身の立ちあがる言葉は今のところない。

 でもわたしの想像力は身体なの。自分の身体が放つ輪を超えては、何も想像できない。わたしの身体は、まるで暗い小道を先立って照らし、暗闇のなかからひとつ、またひとつと光の輪へと招き入れるランタンのよう。
(p144)


引用では初登場のジニーの言葉。自分の描く円からはみ出ない想像力というのは、案外に羨ましいものではないか。こういう言葉はジニーよりスーザンの方が合いそうな気もするが、実際にはジニーであってスーザンではない。スーザンは想像力があるから母性がある。ジニーはその時その時の円が全て…

 ひとつの瞬間を次の瞬間へと溶けこませることができないから、すべての瞬間が暴力的で分離している。もしわたしが瞬間の飛躍の衝撃で倒れたら、あなたたちはわたしに飛び掛かり、ひき裂くのよ。
(p145-146)


ロウダの言葉。バーナードだったら瞬間と瞬間の間は想像の泡で自動的につながるだろうし、ジニーだったら分離しててもその場で自らの位置を見つけるだろう。

 君たちのだれよりも、いくつもの部屋、いくつもの異なる部屋に入ってゆくのだ。
(p150)


これはバーナード。ウルフだから「部屋」という言葉は特有の意味を忍び込ませているだろう。とある人の内面が部屋という外部に投射された全体。上のロウダの「瞬間」とそれは同じものか違うものか。
(2023 01/10)

パーシヴァルの死

まずは昨日読んだ分の注から。
p148のスーザンの「赤紫の一色」という箇所の注には、ウルフ自身の内気により激したことがたまにあり、それを家族は「ヴァージニアの赤紫色の怒り」と呼んでいた、とある。
p158「スミレには死が織り込まれている」はシェークスピア「ハムレット」第4幕と第5幕。
そして、p163「われらは創造者だ…創り上げたのだ」というところは、プルースト「失われた時を求めて」を指すと推測されている。1925年ウルフはフランス語で熱心に読んでいたらしい。プルーストを読むウルフか…どうなってしまうのだろう(謎)…

で、今日のところ。前の章が鏡で映っているような、パーシヴァルがインドで落馬して亡くなったところから始まる。

 波が砕け、砂浜のうえに水をすばやく広げた。波、また波が、ひと塊になっては崩れ落ち、崩れ落ちるその反動で、しぶきが舞い散った。波の背は、動きとともに筋肉がうねる駿馬を思わせたが、鋭いダイヤモンド形の輝きのほかは、深い青一色へと染めあげられている。波頭が砕けては落ち、引いてはまた砕け落ちた。巨大な獣がずしん、ずしん、と足を踏みならすがごとく。
(p168)


章の前の散文詩の最後。これでもかとパーシヴァルの落馬事故を暗示する書き方、最後の文はルイの連想そのもの。

 いくつもの扉が開いたり、閉じたりするだろう。これからも開いたり、閉じたりし続けるだろう。その扉の隙間越しに見る光景は、おれを涙ぐませる。あれを他人に伝え、分かち合うことはできないのだからな。だからこそのわれわれの孤独だ。寂寥だ。
(p176)


バーナードの言葉。章の始まりのネヴィルはさすがに愛していたパーシヴァルの死にかなり衝撃を受けているが、このバーナードはそれでもまだ余裕がある。「あれ」とは何を指すのか。「あれ」とは既に終わってしまったなにものかなのだろうか。
(2023 01/11)

茫漠たる海に鰭

まずはスーザンの言葉から。

 自然な幸福はもうたくさんよ。それで時折、わたしたちが座って読書するとき、わたしが糸を針穴に当てているときなどに、ああ、わたしからこの充足感が消え去り、眠れる家の重みが軽くなってほしい、と願ったりするの。
(p196)


スーザンが…今まで追ってきた彼女の性格や好みとは正反対のような願い。そんな時思い出すのは、ジニーがルイにキスして、それを見て走り出してしまったことか。
続いてジニー。

 ほら、こうしてわたしたちはまたたく間に、手際よく、器用に、人々の顔に記されたヒエログリフを読み解くのだわ。ここ、この部屋にいるのは、波に揉まれて、摩耗し、浜辺に打ちあげられた貝殻たち。ドアは開きつづける。知識、苦悩、種々様々な野心、多くの無関心、そしていくらかの絶望とで、部屋はさらにさらに満ちてゆく。
(p199)


これもジニーというよりバーナード的な言葉で「貝殻」、「部屋」という言葉もまたウルフ的象徴を伴っている。ひょっとしたら、6人各人がいろいろなことを語ったり思ったりすることの羅列というこの小説の構造も、実は全体の半分くらいはウルフ(語り手?)の介入が随時現れる(そして消える)。
次の章にも入ってみる。バーナードはなぜかローマに小滞在中。

 鰭がひるがえる。この視覚にじかに訴えかけるヴィジョンは、理性とはいっさい何の関わりもなく、水平線上にイルカの鰭が見えるかもしれない、という瞬間に跳ねあがってくる。こんなふうにヴィジョンというものは、やがていつかわれわれが明らかにし、巧みに言語化するであろう主題を、簡潔に伝えてくれるのだ。であるからおれは、「ヒ」の項目に「茫漠たる海に鰭」とメモする。いつかの究極的主題表現のために、休みなく脳内の余白に書き込みつづけ、いつか訪れる冬の夕暮れを待ってこの印象を記す。
(p216)


イルカとか魚とかを通り越しての「鰭」か…ウルフの1926年9月30日の日記に「鰭」について書いたものがあり、それがやがて「波」という作品になっていく。ヴィジョンというのもウルフを読むために必須のターム。
(2023 01/12)

話者転換時の両方向の感応

 そんなときに、逆巻くぶ厚い波に向かって光を放つランプのような目が要るのだ。嫌悪感や嫉妬心は忘れよ。中断してはならない。葉のうえのクモの繊細な足音であれ、どこかの無用な排水管に聞こえる水のふくみ笑いであれ、その幽かな音を、忍耐強く、限りない注意深さをもって響かせてやれ。
(p226-227)


ネヴィルの言葉。クモの足音とか水のふくみ笑いとかの表現が非常にそそるところで引いてみた。
次の章は、パーシヴァルがインドへ渡る直前に会って以来の、6人が集まるハンプトン・コート近くの店。
ここでは、当時ウルフが読んでいたとされるジェイムズ・ジーンズ「神秘な宇宙」からの連想、言葉の箇所を見てみる。

 溶け合わぬものはない瞬間がある。そして巨大な泡を、そのなかで太陽が沈みまた昇ることができるほど巨大な泡を、膨らませられるかもしれない、真昼の青も真夜の闇も携え、舫を解いて、いま、ここ、から逃れられるかもしれない。そう夢想できる瞬間があるのよ
(p256)

 地球とは、太陽の表面から偶然はじき飛ばされた礫にすぎない、宇宙の深淵のどこにも生命など存在しない、いまはそう思うのだ
(p257)


上はロウダの、下はバーナードの、それぞれの言葉。この小説全体がそうなのだけれど、話者が変わるところの前後は、何か両方向に感応しているような場合が多い。ここもそんな事例。太陽がその中で沈んでまた昇る泡というのも、地球が太陽からはじき出された礫というのも、想像の規模は大きくなっているが上からまもなく閉じていこうかとするように見える表現となっている。
(2023 01/13)

四階くらいの窓からの眺め


「マクベス」(p265、268)と「リア王」(p274)と、この辺りはシェークスピアからの引用が多い。マクベスは「ノック、ノック、ノック」、リア王は溝に落ちたリア王。

 われわれは肩を並べてゆっくりと歩むただの肉の塊だ。おれは足裏にだけ、疲労した腿の筋肉にだけ存在している。
(p268)


その次の章はひたすらバーナードが聞き手(誰?)に向けて話している。この小説の要約? こうして振り返ってみると、物語の序盤にスーザンとバーナードがある屋敷で見た、何か物を書いている女主人とはウルフ自身で、その書いているのは「波」という小説だったのかしれない。バーナードたちが生きている間ずっとそこに居続け、バーナードが直感で「自分はあの屋敷の人達の動きを変えることはできない」と思ったこともそれを立証しそうだ。

 なぜなら私を喜ばせるのは人生のパノラマであり、屋上からではなく四階くらいの窓からの眺め。
(p277-278)


四階というのが泣かせる?が、果たしてこの「波」でウルフが見せるパノラマは四階からなのか否か。
(2023 01/14)

物語が存在しない

 どんな苦悶にも、その遠くの果てには観察者がいて、指さし、ささやき掛けるのです。あの夏の朝、麦穂が窓辺にさやぐあの家で、「ほら、川のほとりの芝地に柳の木が一本。庭師たちは大きなほうきで掃除し、女主人は座って書きものをしている」と私にささやいたように。
(p285)


これも小説冒頭のスーザンとバーナードが見た屋敷のイメージだが、今度はここに「観察者」なるものが入ってくる。イメージにその外側から介入してくるのは、作者の意識だろうか。それとも…

 いやしかし、そもそも物語など存在しないとしたら、どんな終わりが、どんな始まりがあり得るのでしょうかね? 人生とはおそらく、私達がどう物語ろうと何ら影響されぬもの。
(p306)


物語が存在しない、とウルフは思ったことがあるのだろうか。それとも逆に、物語というものが実は存在しないということを認識した上で、腹をくくって小説をなんとか構築しようとしていたのだろうか。この言葉はこの小説全体に対しての謎かけのように思える。

 あの並木道を、木陰に伸びる道を、みどりざわめく木陰の道を、果実を重く実らせる木々のしたを、のんびり歩きました。我々があんなにもともに歩いたので、何本かの根元の芝が、いく篇かの戯曲や詩のまわりが、我々が殊に愛したもののまわりが、いまでは擦りきれている
(p312)


ここはネヴィルとの思い出の回想。芝の根元と戯曲や詩が「我々が殊に愛したもの」として等値で並んでいるのが印象的。
あと20ページ少し。読もうと思えば読み切れるけれど、何もこの作品にまでそれをする必要もないだろう。
(2023 01/16)

移ろいの記録

ということで、1月中旬半分過ぎで、やっと今年1冊目。「波」読み終え。でも、何かずっと読み続けていてもいいようでもあり…

バーナード独白続き…この章は、店に居合わせた誰かにバーナードがずっと話し続けているという構成なのだが、この相手とは誰だろう。冒頭の「女主人」? それとも「死」? そして、おそらく、バーナード以外は既にこの世にいない…のでは?

 ということは、そうしてスーザン、ジニー、ネヴィル、ロウダ、ルイと混ざり合って流れてゆくことは、一種の死だったのでしょうか? 様々な元素の再構成、それとも来たるべき何かの暗示だったのでしょうか?
(p320)


6人が混ざり合う幾つかの瞬間。滴に映った全瞬間。また離れていくけどそれぞれ何かは変化していく。

 というのもある日、野原に通じる門から身をのり出していたところ、リズムが、つまりあの韻、ハミング、ナンセンスや詩が、ぴたりと停止したのです。心のなかにぽっかりと空洞ができました。習慣という葉叢が隠していた向こうが見渡せたのです。
(p325)

 手帳を持ち歩いてフレーズを作っていた私は、ただ移ろいを記録していたに過ぎない。影を、影ばかりを、せっせと書き溜めてきたのだ。これからは自己もなく、重力もなく、ヴィジョンもないまま、重力も、幻影もない世界を、どうやって前へ進めばいいのだ? そう私は言いました。
(p328)


あれほどフレーズに満ち溢れ、それを手帳に書いていたバーナードの、フレーズが止まった。「自己もなく」というのは、注にはニーチェの影響が書いてあるが、自分はどうしてもムージル「特性のない男」を連想してしまう。
あとは、おそらく、これもウルフの実体験混ざっているだろうな。

あと、注には、1927年に夫など数人の知り合いと、ヨークシャーへ日蝕を見に行ったことが書かれている。それが反映されているのが、p326からp329の辺り。ひょっとしたら、ウルフに「波」を書かせるようになった原体験だったのかもしれない。

 いまふたたび頭から大波にのまれ、まっ逆さまにされ、持ちものをばらまかれ、あとはまたひとり、それを拾い集め、積み上げ、自分の力を掻き集め、立ち上がり、敵と対峙するのです。
(p336-337)


昔はあまり気にしなかったところだと思うが、この歳になってまさに見にしみてこの文章を実感する(ようになってしまった)…

 またしても目の前に、いつもと変わらぬ通りが見える。文明の天蓋は燃え尽きている。空は磨かれた鯨骨のような暗闇。おや、でもランプの灯か、暁の光か、空の一点が明るんでいるではないか。何かのかすかなうごめき-どこかのプラタナスでスズメが囀っている。開け初める気配がする。夜明けとは呼ぶまい。通りに佇み、めまいを覚えつつ空を見上げる老人に、街の夜明けなどいったい何ほどのものだ?
(p340)


前のp337や最後のp341にある「敵」とは死のこと。
そしてこのバーナードの死の前の夜明けは、この小説冒頭の一文へつながる。

解説から2箇所

 詩人サミュエル・テイラー・コウルリッジの〈偉大な精神は両性具有である〉を引用した後、「創造の業を成就させるためには、精神の女性部分と男性部分の共同作業が欠かせません」と記している。個のなかにある二つの要素の「融合が起きて初めて心は十分に肥沃になり」、創造力が発揮できる、というのだ。
(p364)


「自分ひとりの部屋」(片山亜紀訳 平凡社ライブラリー)から。この試みを一人の人格に統合して表したのが「オーランドー」だとすれば、複数のまま瞬間的に統合され両性具有になるのが「波」なのではないか。

 そのような運動(momentum )のなかに、瞬間(moment )が顕現するのだろう。
(p366)


光は波でもあるし粒子でもある。運動し変化していく中で、粒子どうしの入れ替えやずれ、包合や離散もまた微々たるものでも随時、生まれていくのだろう。
1937年、「波」をフランス語訳したマルグリット・ユルスナールは、ロンドンのウルフの傍らでどんな二時間を過ごしたのだろうか。
(2023 01/17)

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