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「空間の旅・時間の旅」 マルグリット・ユルスナール

岩崎力 訳  ユルスナールコレクション  白水社


「波」を訳した(ユルスナールにとって初めての訳業)ユルスナールがウルフの家を訪問したとか、自分にとってかなりの興味深い記述もあるが、とりあえずは最初から。「ハドリアヌスの回想」と関連する「皇帝列伝」の章。
(2014 02/25)

危険の価値


ユルスナールセレクション第5巻「空間の旅・時間の旅」。第一部は歴史小説記述に関する問題点。「ハドリアヌスの回想」と「黒の過程」にも対応している。
まず、前者。コロッセウムなどで行われる闘技、これらをユルスナールは「古代ローマの死に至る病い」と呼んでいる。これはもちろんキルケゴールを意識しているのだが、なんだか現代も同様の事象がある気が。キルケゴールの個人的意味と、ここで言う社会的意味とでは、違うベクトルなのか同じなのか。

次は、後者。

 つまり用心するのであれば、危険にはそれなりの価値を認めてやるべきであり、危険がもたらす豊かさを享受するほうがよい、と考えるからである。
(p40)


ここでのエッセイみればわかるようにユルスナールは、作品を手がける時に、歴史的人物であるハドリアヌス帝やゼノン等の語りや内省などの言葉を、検証して吟味している。ただ少しのミスというかズレも中には許容しており、それがここで言う「危険」。そこまで来ると自分などは唖然とするしかないのだが…

個人的に使おうかな。「危険がもたらす豊かさ」とか…
(2014 02/26)

ユルスナールとウルフ(ウルフ論以外で)


昨日は第二部の三つのエッセイ。ここは歴史とか時間がテーマ。
特に前の二つにおいて、時間がテーマということもありウルフを読んでいる気にさえなってくる。この二人、観点がかなり近いだけに逆に反発してしまうのかな、とも勝手に思うのだけど、そうでもないみたいで…

シュノンソーの城のエッセイでは、ずっと城の歴史を王妃やルソー、サンド、フロベールなども出たり入ったりしながら城の内部の視点で見ていたのが、ラストの一ページで使用人から自然へと外側に広がっていくのが鮮やか。
次の時と彫刻のエッセイはテーマも水の中に落ちた石(彫刻)というところも。どちらもウルフが書いてもおかしくない印象。
三つめのは、日本論(判官贔屓)なのだが、これは日本だけのものではないと見通している。
で、今は第三部の作家論でやはり三島由紀夫から…自分苦手意識少しある…
(2014 03/01)

静止図から見る三島論


無理やり終わりまで読んでしまった「空間の旅・時間の旅」の三島由紀夫論というかエッセイ。この文章などは特に、解説の堀江氏が書いている特定の視点に固定しない流れを眺めて静止させたような印象を受ける。そこからの一文。

 空虚の深みあるいは高みから見れば、かつてあったこともなかったことも、ひとしく夢か幻のように見えるものなのだ。
(p211)


三島論でもあるし、ユルスナールの控えめな意見表明でもあるような文章。表面的にはそんなに共通するところがなさそうに自分には見える両者だが、そこのところは響きあっているのかも。
(2014 03/04)

他人の運命と自分の運命


「空間の旅・時間の旅」は作家論の2つ目ボルヘス論。これまた近そうで遠そうな感じもするが、このボルヘス論がユルスナールの最後の批評らしい。まだ半分くらいしか読んでいないのだが、「運命を大切にしよう、いつ他人の運命が自分の運命になるか(その逆も)もしれないから」というのが、面白かった。ボルヘスにはそういう要素多いけど、ユルスナールにもあるのかな。気をつけてみよう。
(2014 03/06)

ボルヘスとウルフ、夢と物体


ボルヘス論の終わりとウルフ論の始まり。ボルヘスは全てを夢のように捉える。この人生もいつかは覚める夢のように。そして夢だとしたら、別の人物に入れ替わることも、運命を引き継ぐことも可能になる。
一方ウルフは物体(オブジェ)のように捉えているのかな…というか、読者にそういう印象を与えるのだろうか。彼女がよく使う比喩の石のように。
とりあえずはこれ読んだら「波」も読んでみたいのだけど…

ユルスナールの語るウルフについてのいろいろ

 マルセル・プルーストも愛したフェルメールの絵画に通じるが、そのスタイルはむしろドガの手法を思わせる感覚がある。
(p254)


ドガか…印象派の中ではあんまり見ていないなあ。でも雰囲気でもなんとなくわかるような感じ。

 彼の目的は一本の鉛筆を買いに行くことだ。この些細な口実がひしょうにウルフ的だと言うこともできようし、ヴァージニアの主題は大概の場合鉛筆でしかないともいえよう。
(p256ー257)


確か「ダロウェイ夫人」は花を買いにいったんでしたよね。最後の鉛筆が主題だというのが今のところよくわからないのだが…

 思索行為が絞め殺される危険を犯しつつそのか細い首をつっこむ紐のような、魂をおびきよせるおとり鏡のような様相を呈するようになる。
(p257)


あとの部分で流れる水の表面か、それとも底の流れていない部分か、だいたい人は前者しか見ていない、というような記述もあったが、上の文もそこもなんだか自殺の香りが漂ってきているのだが…
今のところ第3部作家論を読み終えたところ…
(2014 03/07)

ピラネージとユルスナールのずらし関係(ある?)


「空間の旅・時間の旅」ピラネージの黒い脳髄。今回はこんな文章を取り上げてみた。

 われわれは建物の軸上にいるという印象はほとんどもてなくて、ただ動径の上にいると感じるにすぎない。
しかし、中心を奪われたこの世界は同時にどこまでも拡張しうる世界なのだ。
(p302)


絵画にどこか視線が向く中心があれば、見る人は安心できる。それがないと何故か不安を感じる。ピラネージの牢獄の作品はそれを利用している。
しかし、ユルスナールの文章というのも意外に引用しにくい。どこも印象的なのに、この一文!というのにはなかなか出会えない。ずらしずらしながら全てを標本に固定していく感じ。この手法って、上に挙げたピラネージの中心なき絵画の文と同じ?

関係ない?
(2014 03/11)

牢獄とは

 そのくせ住人の大多数が、危ういことに安閑とくつろいでいるかのような場所、底なしでありながら出口のない深淵、これはありきたりの牢獄ではない
(p308)

 密室恐怖症的でありながら誇大妄想的な世界が、現代の人類が日増しに閉じこめられつつある世界、そしてわれわれがその致命的危険を認識しはじめた世界を、想い出させずにはおかないからである。
(p309)


「ピラネージの黒い脳髄」から。ユルスナールの洞察力はここまで見抜くが、それがこの評論のメインテーマとして力が入っているわけでもなく、一つのエピソードとして収まっているのもユルスナール的。
あとはラストに書いてある、英国詩人二人の牢獄についての対話、しかも非常に印象深い階段を登っていくこの場面が、ピラネージのオリジナルには存在しないというのも興味深い。
(2014 03/12)

ベックリンとおまけ


ユルスナールは昨夜ベックリンのところまで読み終わり。この「死の島」についての連想を書き連ねたようなこのエッセイはユルスナールの評論初期のもの…だからかどうかはわからないが、今まで読んできたのとはちょっとというかかなり違う雰囲気がする。詩的要素がかなり強まった感じ。
あと、ベックリンがテーマなはず?なのに、半分以上はデューラーやホルバインの話になっているのも面白い…といっても、まだあまり知らないところなんだなあ、この辺り…
(2014 03/13)

「空間の旅・時間の旅」読了報告(だけ)
最後のはエッセイというより、来日時の講演。松島や平泉を訪れた話も入っている。
(2014 03/14)

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