ひとつの時代が終わる時
cakesのサービス終了のニュースを知る。時代は変化していくものだとしみじみ感じたのは、昨夜約3年ぶりに開催された「書くンジャーズ懇親会」での発表があったせいかもしれない。
私がcakesを知ったのはたぶんnoteのアカウントを作ってから。シェアされた記事を読むようになり、課金して記事を読むシステムがこれほどまでに浸透していると気づいたのだった。
私の周囲にはそういったサービスを利用している人は皆無だったので、気に入ったクリエイターが書く世界の扉を開けて毎週楽しめる場所が存在することに驚きを隠せなかった。
知らなければ平気で通り過ぎていたくせに、知ってしまったら最後、自分もいつか近づきたい場所のような気持ちになる。
もう課金もしていなかったけど、なくなると知ると一つの時代が閉じられていくような、歯がゆさを感じてしまった。
実は昨晩、「書くンジャーズ」終了の発表があった。
風情のある呉服町。メンバーの知り合いが経営する焼肉屋さんで久々に顔を合わせ、次々と提供される美味しい焼肉に舌鼓を打つ。自然と書くンジャーズの話になる。今年はあまり書けていないけどそろそろ復活する、書きかけたけど結局アップできなかった、長く書かなかったから書けなくなってしまったといった声が出ていたところだったので、終了の知らせに思わずハッとし、心が冷えていくのを感じた。
いつでも戻れると思っていた場所がなくなってしまうのは何とも言えないもどかしさがある。やり切った感があればきっと清々しく終われるだろうに、心残りがあるのは全力で向き合ってこなかったからだ。
リーダーの声は明るかった。毎日更新を続け、執筆依頼も来るようになり、転職までしてしまったリーダーは書くンジャーズで夢を叶えた。
メンバーが週に1度同じテーマで書く。視点の違いや思い出、新しい考え方がある。誰一人、全く同じ内容のnoteは生まれない。
担当の日曜日、テーマに沿って書き始め、24時ギリギリにアップするのが私のスタイルだった。書けなくなったのはいつごろからか、書けないのか書かないのか、短くたって書き続けたらよかったのに。
書いたものをアップしてから手直ししてもいいから、継続は大事って、継続した人にしか言えない言葉をかけられた。
せっかく自分の思いや意見をかける場所だったのに、失くしてからでないと気づけないお馬鹿さんなのはなぜだろう。
私だって、noteを始めるまでに何者でもない人がクリエイターのような顔をして書いていいのだろうかって葛藤があった。だれでも書いていいんだよって背中を押してもらい、自分で決断してその日の夜から書き始めたんだった。さらに書くンジャーズにも誘ってもらって、その時はまさに天にも舞い上がるような喜びで。
言葉を聞いてからグルングルンと頭の中を巡る後悔と、変化を怖がらずに前に進むリーダーの顔。
「失くしてしまわないでシン・書くンジャーズ作りましょうよ」
Uさんの声に、遠くに行きかけていた心が引き戻された。そうか、ここで心機一転だ。
前ならアジャイルの意味も分からず、ただうんうんと頷いていたんだろうな。やってみて違ったら修正したらいい、うまくいかない部分は削除してやり直したらいい。そうか、アジャイルでいいんだ。
久しぶりに家族以外の人と対面でマスクを取り、美味しいものを食べながら話をした。これから来そうな技術やら、例の禍に振り回されて太った話やら、最近読んだ本の話やら、今後の夢の話やら、あちこち話題が飛びながらなんとなくうまい具合に着地する。この感覚も懐かしく心地よい。
人間ってどこで転機があるかわからない。私があの時noteで書くと決めていなければ、書くンジャーズに入ることもなく、ライターとして仕事をいただける日がくるはずもなかった。3年半前には想像もできない未来。たとえ小さくても自分で選択した道。小さな決断を重ねてきたから、時代の変化も考え方の変化も受け入れられたのかもしれない。
書くンジャーズもシン・書くンジャーズに変化する。cakesも終わる。さあ、時代が一つ終わる。私はどうなる?いつまでも先延ばしにしてきたことに勇気を出して取り掛かる?
ここまで書けたら、誰かに背中を押してもらわなくてもきっと大丈夫。自分で決断できる気がする。
noteを書くと決めたあの日から今日まで、書くことで得たものは
・書くンジャーズ
・人材インタビューの仕事
・苦手分野だと思って避けてきた理系のお仕事の知識
・意見や質問(まだ心理的安全性のある場所に限る)
・変化を受け入れる心
先週の書くンジャーズテーマ、「書くことで得たもの」
久々、あきらめずに書き上げました。
私のnoteを見つけて、そして読んでいただいてありがとうございます。サポートしていただけるのであれば、少し離れた場所への取材や学びの場への参加費に充てさせていただきます。