北海道弁で言うなら「いいふりこき」。見栄っ張りな自分に言いたいこと。

過去の自分の記事を見ていると、どうしても背伸びしている感が否めない。「今の自分に満足しているし、欲しいものはすべてそろっている」と。本当はそんなことないのに、なぜかそう見栄を張ってしまう自分がいる。


そんなことをしても誰も得をしないというのに、いったいなぜだろうか。思うに、過去の親から受けた教育を引きずっているのだろうと思う。

かつて、僕は親から「〇〇は大器晩成だから」と言われて育った。

ひきこもりだった僕は、当時その言葉を素直に受け入れていた。「今の自分は本来の自分ではない、かりそめの姿なのだ」と。

そうして成長していくうちに、自分が何者でもない、単なる平凡な人間であることに気づいた。そうして、大器晩成などといった気休めの言葉を疑うようになった。

性格が悪くなった。そう言ってもらっても差し支えないかもしれない。だが、僕の欲しいものは、この認識の変化を伴わなければ手に入らない。


僕が欲しかった両親からの言葉は、「大器晩成」ではなく「好きにしていいよ」というものだった。言い換えれば「ありのままのあなたでいいよ」という受容の姿勢だったのである。その点で言えば、僕はいまだに母親からあやされ足りない精神的幼児なのだ。


朝は思考がクリアになって、前向きになれるという。ならば、午前6時、僕が綴るこの文章は前向きなのだろうか。それは部分的には正しいのかもしれない。心のどこかでそう思っている。

思うに、この思考は前向きになるための前段階として、乗り越えなければならない壁を提示しているのではないか。

それはすなわち自己承認自己受容である。

わかっているのである、自分では。

たとえ今の自分が自己陶酔で自己否定に傾いている状態であることを認識しているとしても、この二つだけは必ず埋め合わせをしないといけないことだと確信している。


正直なところ、僕は独り暮らしをしながら金銭的援助を両親から受けている。

これを聞いて驚く人は多いと思う。軽蔑する人もいることだろう。


言い訳をさせてもらえば、ひきこもり状態をスタートラインとすると、どうしても、そうでない人よりも後ろからスタートせざるを得ない前提がある。

この理論で言えば、「大器晩成」はこの状態に対してかけられた言葉である。しかもそれは間違っていない。


だが、僕の理論で言えばこの状態でこそ、むしろこの状態をこそ、受容しなければならないのだ。それこそが今のありのままの僕だから。


他にも言いたいことは色々あるのだが、今日はここまでにしておく。

両親はいずれこの世を去る。その時答え合わせが待っている。金銭・精神面、様々な意味で。

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