新興宗教オモイデ教
僕は学生時代からずっと、宗教にハマることはないだろうと確信していた。
信者たちがいうところの「優しい世界」や「幸せな世界」にいる人たちの倫理観や発想について、面白いと思ったことがないからだ。
インターネットで調べた範囲にはなるが、理想郷とされるような空間において「面白い人」が存在していることはまずない。
僕が思うところの「面白い発言」や「面白い思想」と宗教の倫理観がどうやってもバッティングしてしまう。
僕の思い描く「面白い」は世間に中指を立てたり、既存の倫理観について1理はあるけど残り9は間違っているようなことであることが多く
宗教にハマること、宗教が理想とする空間に身を置くことと僕の理想は常に食い違っているから、ハマりようがないじゃないか、とそう思っていた。
最近、僕は、真面目に生きたいと思い始めている。この場合の「真面目」とは、愚直に仕事やプライベートと向き合い、世間の価値観において「勤勉」であること
僕はいつも仕事でミスをしたり、仕事をサボったり、倫理観の抜け道を探す。
仕事をサボると、仕事をしているよりも辛い気持ちになるし、周囲からの信頼が擦り減っていくと不安な気持ちになることに最近気付いた。
本当に本当に、こんなこと当たり前過ぎて書くまでもないのだろうが、視野の狭い僕にとってこれは大きな発見だったり問題だったりする。
じゃあサボらないければいいじゃないかと思うと、そんなこともなく
僕はサボらなくても普通にミスをしてしまうし、信用を擦り減らしてしまう
僕が真面目に生きるための条件はサボらないことではなく、「サボってもサボらなくてもミスはするし信用を失っていくが、それでも」サボらないことなのである。
サボるということはつまり、世間や自分の能力に対する逃避行動であり、ラクをするというよりは目を背けるための自己防衛本能なのだと思う。
これも、別に革命的な大発見ではないのだろう。
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あと、普通に脳も少しおかしい。
以前、本当に死について考え尽くしたことがある。
死ぬとか、死にたいとか、生きるとか。そんな答えが出ないことを真剣に考えていた。
人によっては自ら命を断つこともあるのではないかとすら思う。
そうやって考え込んで苦しんでいる間にも、頭の中では好きでもないAKBの楽曲が流れていた。
真剣味がないとか、本当は悩んでいないとか。そういうことではなくて、本当に悩んでいるのにフライングゲットが頭の中に流れ続けてしまうことに気付き
僕は社会の中で生きることができないのかもしれないと思った。
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新興宗教オモイデ教という小説の中では、なんだか電波みたいなものが存在して、その電波にヤられてしまうと人は発狂してしまうらしい。
詳しい内容は関係ないし忘れたので割愛するが、ようは、いま面白おかしく取り上げられている陰謀論者が5Gなどから身を守るためにアルミホイルを巻いたりする、あの「5G」のようなものが実在するという設定の作品みたいなことだったと思う。(作品内ではその電波のようなものをメグマ波と呼んでいる)
僕は最近、そのメグマ波やら5Gやらが存在している気がしてならない。
いや、存在しているかは関係なくて、僕がその電波やらを避けるためにアルミホイルを巻いて生きているような気がする。
「勤勉であろうとする」とか「真摯に物事に向き合う」とか、そういった世間における正しさのようなものを、僕は怪電波として扱い、避けている。
仕事をサボったり、最近は凍結を機に控えているがTwitterに屁理屈を書いたり。
これはどう考えても世間に対してアルミホイルで自身を守るような行為だろう。
僕は気付かないうちに何らかの宗教。世間という電波に脳を洗脳されないように怪奇な行動をとる宗教に入信してしまった。
世間が怖い。というか、いま現在「世間」が課しているルールの下において僕が生き抜いていける自信がない。
「世間に出て大人になるのが怖い」という使い古された表現で、この1500文字くらい(noteは書いた文字数がカウントされて下のところに表示される)の駄文について簡潔に説明することもできるけど
その言葉を最初に使った人はおそらく、「世間にいる大人」が「いろんな人間が ふるいに落とされるなか、世間に生き残ったエリートを大人と呼んでいる」ことに気付いていなかったのではないかと思う。
この「生き残る」は社会人だから資本主義的のレールに乗っているとか、そういったことではなく。世間のルールと自身の倫理観や行動を一致させることができているという意味だ。
世間からドロップアウトした大人年齢の人間はたくさんいるが、世間から無視されているため存在しないことになっているだけだと、僕にはそう見える。
僕はもう30歳を超えており、僕が世間に生き残る戦いをしたか逃避したかは定かではないが、もうドロップアウトはしてしまっている。
その根拠は今までnoteに書いてきた不道徳や、書くに値しない自堕落さなので、「根が真面目なんだね、大げさだよ」とかそういう言葉は必要ない。
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自分でnoteを読み返して思うけど、やっぱり本当に悩んでいることについて書くと文章はつまらなくなるなあ
初恋の相手に書くラブレターを本当に読むと詰まらないけど、「初恋の相手に書いたラブレターについてバンドマンが歌うと良い歌詞になる」のに似ている。
文章を面白くするためには、やはり、問題は解決しかけていたり過去になっている必要がある。だから僕は日記を書かなくなった。
いつか、アルミホイルを頭から外したり、頭を堅守し続けたまま野垂れ死んだりすれば。その時に書く文章は、今より少しだけ面白いものになっているに違いない。
別に面白い文章を書く必要なんてどこにもないけど、それが大事であることにしないと僕は世間に殺されてしまう。
メグマ波は「世間」である。そう思っていたかったのに
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