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不安不安ファーマシィー

どこかおかしい。距離感がおかしい。色彩がおかしい。時の流れ方がおかしい。この風景そのものがおかしい。よく目を凝らすといつもの現実と何ら変わりはないのに、全体として見ると何かが違っている。
それが映画だと最近気付いた。

スクリーンには僕達が知らないモノは映らない。たとえそこに君が知らないモノがあっても、誰かがかわりに知っている。遥か遠くの地の景色なら地球の裏側の人間が知っている。何世紀も昔に起きたことなら歴史が知っている。厳密に言うと、人間は人間の知っているモノしか見えないし、知っているモノしか撮れないということだ。

しかし僕達は映画を通して何度も未知の光景に遭遇する。よく見るとそこには知らないモノは映っていないのだけれど、スクリーン全体を、あるショットやシーン、シークエンスを観た時に、僕達は現実とは明らかに異なっている世界のあることを目の当たりにする。

ベトナム戦争は歴史が憶えている。フィリピンにはヤシ林がある。マーティン・シーンの顔を知っている。だが『地獄の黙示録』で映し出されるモノを誰も知らなかった。アフリカケンネルはワイドショーが憶えている。関根元の顔も知っている。骨と肉を別々で処分すればほとんど証拠の残らないことも知っている。だが『冷たい熱帯魚』で映し出されたモノを誰も観たことがなかった。

現実の世界をマテリアルにして生まれた映像の世界は、しかし現実の世界とは絶対に交わらない。これは作品のリアリティライン云々とは全く関係の無いことで、たとえどれだけドキュメントタッチで迫ろうとも、いかに現場の生の空気感を閉じ込めようとも、撮る人間の意図が(または予期しない偶然が)被写体と映像の間に差し込む余地のある限り、映画が現実と同一化することは絶対にあり得ない。アンディ・ウォーホルの『エンパイア』だって現実ではあり得ないと、僕は思う。

だから映画を観ると不安になるのだ。見慣れた現実の光景だと思っていたものが実は違った、ということに気付いてしまう、こんな不安なことはない。そしてその不安が娯楽として昇華されるのは映画の世界だけのことである。今年の世界はコロナウイルスの脅威にすっかり侵食されてしまった。海外のロックダウンした街の風景、マスク着用者による満員電車、『去年マリエンバートで』のように距離を取って立つ人々・・・・・・。だがこうした異常な現実に感じる不安には娯楽性も芸術性も宿らない。僕達はそうした現実を撮影して映し出すことでしか、不安にワクワクすることが出来ない。映画とは、不安を楽しむためのフォーマットであるといえる。

こんなことを考え出したのは、手塚眞監督『白痴』リマスター版上映を観に行ってからだった。初めて観る『白痴』のスペクタクル全開の映像美には、邦画が観せられるモノの限界を突き破ったような強烈な印象を焼きつけられたが、何より僕が楽しんだのは、『白痴』に構築された世界の飛躍っぷりだった。

原作である坂口安吾の『白痴』は、終戦間近の東京の、場末の街が舞台で、映画演出家をしている主人公・伊沢と、伊沢の部屋に入り込んだ白痴の女との交流を描いた短編だ。映画『白痴』でも焼け野原や場末の街がメインの舞台のひとつとして登場しており、原作のあらすじや白痴の女との行き交いといったテーマは一通りなぞられている。特に、空襲によって炎に包まれた街の光景の壮大さは、坂口安吾の目に映った戦火の印象を十二分に伝えるものである。こうした点では、手塚眞は原作の非常に完成度の高い再現を行ったのだといえる。

だがこの作品の本当に凄いのは、手塚眞が原作をオリジナルに膨らませた部分であると思う。浅野忠信演じる主人公の伊沢は映画制作に携わっていた経験を持ちながら、翼賛的な体制のテレビ局に演出助手として勤めている。そう、映画『白痴』にはテレビが登場するのである。伊沢が住む場末の、スラムの街と打って変わり、伊沢の働く都心部は異常に発達しており、まるでこの映画が公開された1999年、いや何世紀も先の未来のようでさえあるスーパーシティだ。やたらに飛び交っている中国語や英語のアナウンスも印象的である。だが同時に、独裁的なテレビ局、宗教的なまでに一大アイドル「銀河」を讃える不気味さ、そして戦火、これらのイメージは1945的なきな臭さを映画全体に充満させている。映画『白痴』を観たほとんどの人が「これはいつの時代の話なんだ?」と思うだろう。僕は本作を観ている最中、まるで、大東亜共栄圏が成立し、戦争が終わらないまま現在まで存続してしまったかのような恐ろしさを感じた。映画『白痴』でなされた時代性を混乱させる試みが、僕にこの映画の世界が今の現実と地続きのモノだと錯覚させたのだ。だがそれは僕が、歴史が知っている1945ではないし、1999でもない。坂口安吾の『白痴』が1945'なのだとしたら、映画『白痴』はまるで1945''''''''のようなモノである。現実の制約から抜け出してしまえば、あとはいくらダッシュを足してもいいのである。

僕は映画『白痴』に付加された無数のダッシュに不安を覚え、恐怖し、そして楽しんだ。『白痴』リマスター上映は、冒頭に書いたような不安の正体について考えるきっかけとなった。ここではしきりに「映画は」「映画の」という言葉を使ってきたが、映像でも文章でも、フィクションでもノンフィクションでも、何でもいいと思う。こうした不安にワクワクする感情は現実以外でしか得ることのできないものだと僕は考える。

『ベニスに死す』を観たときも、『ペスト』を読んだ時も、僕はとてもワクワクしていた。だが、このコロナ禍にはただただうんざりし、悲しいニュースに心を痛め、少しずつ感染に対する恐怖心を増している。2020年のこのパンデミックが、早く誰かの創作物の中に閉じ込められてしまうことを願っている。