「ハーバード見聞録」のいわれ
「ハーバード見聞録」は自衛隊退官直後の2005年から07年までの間のハーバード大学アジアセンター上級客員研究員時代に書いたものである。
「マハンの海軍戦略」についての論考を9回に分けて紹介する。
「マハンの海軍戦略」第6回:
マハンの海軍戦略を採用しアメリカの国策にした男――セオドア・ルーズベルト大統領(4/23)
マハンの海軍戦略がいくらアメリカにとって、価値あるものであっても、国策として採用されなければ、「単なる戦略理論」として終わり、その著書も海軍大学校などの図書館の中で、古ぼけた本として眠ってしまうところだった。
マハンの海軍戦略を理解し、新興国アメリカの国策・戦略として最適であると見抜くだけの慧眼を有し、これを国策に採用・実行した男――それが第26代大統領のセオドア・ルーズベルトである。
マハンの海軍戦略の価値を認め、それをアメリカに基本戦略に据えた男、セオドア・ルーズベルトの人となりについて、インターネット上でで面白い記事を見つけたので以下これを紹介したい
また、前述の荒このみ教授の「西への衝動」(NTT出版)には、次のようなルーズベルトについての興味深い記述がある。
多民族国家として存続するためには、ルーズベルが取り組んだ「移民のアメリカ化」という問題は、昔も、今も、将来もアメリカにとって不可欠の要件である。ルーズベルトに関して、更に補足をする。
彼は、1905年には日露戦争で日本とロシアの調停を務め、ポーツマス条約締結に向けての日露交渉の進捗に尽力した。この和平交渉の斡旋によって、ルーズベルトは1906年にノーベル平和賞を受賞した。
一方、内政面では反トラスト法を発動して独占資本を規制し、外交面においては海軍力を楯に「棍棒外交」をモットーにアメリカの軍事的影響力の拡大に力を注ぎ、カリブ海諸国へ武力で干渉したほか、パナマ運河を独占的に建設した。
また、日露戦争後は、台頭する日本を念頭に、1905年には対日戦争を想定した「オレンジ戦争計画」を初めて策定した。1907年12月から1909年2月にかけて、世界とりわけ日露戦勝に酔う日本に対し、増強中の米海軍を誇示するためにGreat White Fleet(白色艦隊)―― 艦隊全艦を白色に統一して塗装 ―― による世界一周航海(総航程6万9000キロメートル)を行った。日本では、幕末の黒船との対比で「白船」と呼ばれたそうだ。文字通りの「砲艦外交」である。
このように、ルーズベルトは、格別に積極果敢で実行力・リーダーシップに富んだ人物であったようだ。1899年にヘイ国務長官が中国に対する「門戸開放・機会均等」を宣言し、遅ればせながら海外進出・植民地獲得に本格的に乗り出そうとするまさにその時、マッキンリー大統領の暗殺を奇貨として大統領職にルーズベルトが就任(1901年)したわけだが、アメリカにとってまさに「災い転じて福となす」というべき人事であった。