ハーバード見聞録(69)

「ハーバード見聞録」のいわれ
「ハーバード見聞録」は自衛隊退官直後の2005年から07年までの間のハーバード大学アジアセンター上級客員研究員時代に書いたものである。

「マハンの海軍戦略」についての論考を9回に分けて紹介する。


「マハンの海軍戦略」第8回: ルーズベルトはマハンの海軍戦略を如何に政策として実現したか(5月7日)

●米海軍力の強化
 前述の「マハンの戦略理論の第1・4・7条」では、「大海軍の建設」が提示されている。ルーズベルト政権下においては、世界第二位の海軍を目標に戦艦10隻を初め合計300隻以上の常備目標を立てたが、議会の反対から簡単には目標を達成できなかった。しかし、ルーズベルトは、1904年から1907年にかけて11隻もの戦艦を新造した上、砲艦外交として「グレート・ホワイト・フリート(白船)」に世界一周航海を実施させるなどの成果を国民にアピールするなどにより、更に4隻もの戦艦建造を議会に認めさせた。海軍力増強への並々ならぬルーズベルト意気込みが感じられる。

●海外海軍基地の獲得
前述の「マハンの戦略理論の第3・4条」では、「海外海軍基地の獲得」が提示されている。

アメリカの経済学者のケネス・ボールディング(1910 ~1993年)の「力(戦力)の逓減(Loss of Strength Gradient)理論」として次のように述べている。

世界のいかなる場所にでも投入できる一国の軍事力の量は、その国と軍事力を投入する場所の地理的な距離により左右される。目標地域への地理的な距離が遠くなればなるほど、活用できる戦力は逓減する。複数の前線基地(forward positions)の活用により、「力(戦力)の逓減」は改善できる。

ケネス・ボールディングの「力(戦力)の逓減(Loss of Strength Gradient)理論」を分かり易く言えば「陸海軍に戦力は、母国から離れ遠隔地に行けば行くほど低下する」ということだ。

ナポレオンやヒットラーがフランスやドイツから出撃して、モスクワに進撃すればするほど、兵站線が延びて、戦力が低下した事実を振り返ればこのことを理解できるだろう。

マハンの時代は、下図のように、米海軍の戦力は米本国を離れれば離れるほど「A曲線」のように低下していく。ところが、ハワイやグアムなどに海軍の基地を設ければ「B曲線」のように戦力の低減を少なくすることができる。このような理由で、米国の対外戦略にとって、海外の基地は必要不可欠のものである。

基地の機能としては、マハンの時代には食料・弾薬・水・燃料などの補給、船舶の修理、兵員の休養などが主体だった。

マハンの時代は、海外に投射する戦力は海軍戦力(海兵隊を含む)が主体で、基地といえば海軍基地のことだった。しかし、今日では航空・宇宙戦力が発達し、米軍の場合、基地といえば陸・海・空軍がそれぞれ保有している。

米国は、以下述べるように、19世紀末以降、マハンの戦略理論に基づいて基地の獲得に奔走した歴史がある。

①    米西戦争によるフィリピン、グアムおよびプエルトリコの獲得
ルーズベルトが海軍次官として二年目の1898年、アメリカとスペインの間で米西戦争が行われ、勝利した。これにより、アメリカは、フィリピン、グアムおよびプエルトリコを含むスペイン植民地のほとんどすべてを獲得し、キューバを保護国として事実上の支配下に置いた。また、これらを利用してフィリピン(スービック海軍基とクラーク空軍基地)やグアム(アンダーセン空軍基地とアプラ港海軍基地)などの基地を建設した。

②    ハワイの獲得
米国のハワイ併合の経緯は次の通り。
1895年1月、ハワイ人王政派が武装蜂起したが短期間で鎮圧、虐殺される。この武装蜂起を支援したとしてリリウオカラニ女王が逮捕・幽閉された。その後、リリウオカラニ女王は廃位となり、ハワイ王国滅亡した。

1898年、米西戦争でハワイの地政学的重要性を認識したアメリカはハワイ共和国を併合し、米自治領とした。この時のアメリカの大統領は、セオドア・ルーズベルトの前任者のウィリアム・マッキンリーであった。 以後、ハワイはアメリカの太平洋戦略の拠点となり、オアフ島のパールハーバーに大海軍基地が建設され、現在もアメリカ海軍太平洋艦隊の基地として活用されている。

ルーズベルトに関して言えば、ハワイを併合した1898年には海軍次官の職にあり、この併合の陰謀にも大いに関わっていたものと思われる。

③    パナマ運河の建設
米国では、1890年に海軍大学の教官であったマハンが「海上権力史論」においてカリブ海と地中海を比較し、米国の海軍戦略的観点から、地中海にスエズ運河があるようにカリブ海にも運河が必要であるとの議論を展開した。

1898年の米西戦争を契機に米国では海軍が二分されていることに鑑み、太平洋と大西洋をつなぐ運河が中米地域に必要であるとの考えが浸透した。すなわち、パナマ運河を建設し、太平洋と大西洋に二分されて展開しているアメリカ海軍艦隊がパナマ運河利用して至短時間に両大洋を往来して、いずれかに集中できるようにすることが不可欠であるとの認識だ。かかる考え方に基づき、1901年にマハンの教えを受けたセオドア・ルーズベルトが米国大統領に就任し、米国は太平洋と大西洋をつなぐ運河を中米に建設することになった。

パナマ運河はマハンの著書が世に出る前の1881年にスエズ運河を建設したフランス人のレセップスにより建設が開始されたが、1889年には中止されていた。その後再開され1914年に開通した。その結果、ニューヨークからサンフランシスコへ向う船の場合、南アメリカ大陸の先端ホーン岬を回る2万900km以上の航行を約1万2500kmに短縮することができた。

米国は運河完成前から、運河地域だけではなくパナマ全域で直接的な介入を行い、自国の影響下に置こうとした。

当時は、パナマは大コロンビア(コロンビア共和国)の一部だったが、アメリカは軍事介入により大コロンビアからパナマを引き離すことを企てた。1903年に、ルーズベルト大統領は、戦艦ナッシュビルをパナマに送り込み、上陸した米軍はパナマを占拠し、地元で人気を得ていた市民軍の指揮官を殺害し、「パナマは独立国である」と宣言した。

1903年、パナマに傀儡政権が樹立され、アメリカとパナマは「パナマ運河条約」を結んだ。「パナマ運河条約」では、パナマ運河と運河地帯(運河の中心から両側5マイルずつ(幅16km))の永久租借権と運河の建設、管理運営権、軍事警察権をアメリカに与えることになっていた。すなわち、この条約は、完成後の運河の両岸はアメリカが行政権を持つ地帯にすると定め、アメリカの軍事介入を法的に認め、パナマの実質的な支配権をアメリカに認めたものだ。

奇妙なことに、条約を調印したのは、アメリカのヘイ国務長官と、パナマ運河会社のフランス人技師フィリップ・ヴァリーヤであり、パナマ人は署名していない。

「パナマ運河条約」は締結されたものの、パナマ運河はマラリアや黄熱病などの疫病の流行などにより工事は遅々として進まなかったが、1914年8月15日にようやく開通した。

その後、1977年の「新パナマ運河条約(パナマ運河条約及びパナマ運河の永久中立と運営に関する条約)」が締結されたが、同条約による1999年12月31日のパナマへの返還まで、アメリカがパナマ運河を管理運営し、支配してきた。

「新パナマ運河条約」により、パナマ運河の管理運営権はパナマに委譲され、全ての国の無害通航に対して平等に開放するとされることになったが、有事の際にアメリカ軍が介入する権利を留保している。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?