ハーバード見聞録(70)

「ハーバード見聞録」のいわれ
「ハーバード見聞録」は、自衛隊退官直後の2005年から07年までの間のハーバード大学アジアセンター上級客員研究員時代に書いたものである。

「マハンの海軍戦略」についての論考を9回に分けて紹介する。


「マハンの海軍戦略」第9回: むすび(5月14日)

●アメリカ海軍のその後の発展
アメリカが独立して、1世紀余で国土の拡張を果たし、太平洋に視線を向け始めた頃に、マハンは「海上権力史論」を著した。彼は既に19世紀末の時点で、アメリカの未来――今日「パックスアメリカーナ」と呼ばれる超大国家の出現――を予見していたのかもしれない。

マハンとルーズベルトが構築を始めたシ―パワー(海軍と商船群)はその後アメリカの勢力伸張とともに発展・充実した。マハンが主張した大海軍の建設は、今日では、「原子力空母11隻と揚陸艦31隻、原子力潜水艦71隻を中核に、80隻以上の巡洋艦と駆逐艦(全てイージス艦)など主要水上戦闘艦約270隻、戦闘攻撃機や対潜哨戒機などの作戦機約2,640機を保有し、約43万人(現役・予備役合わせて)の構成員が所属する世界最大規模の海軍に発展した。近年の予算規模は約1200億ドル前後(日本円にして10兆円〜15兆円程度)で推移しており、予算的にも世界最大である。

アメリカの世界覇権を支えるのは、まさに米海軍が主体であり、マハンの海軍戦略は今日も脈々と生き続けているのである。

●マハンは近代地政学の先駆者
海洋国家理論を唱えたマハンは、地政学の先駆者と位置づけられている。マハンの後には、様々な地政学の理論が世に出た。
以下簡単に紹介しよう。

マハンの「シーパワー」重視とは対照的に、ハルフォード・マッキンダー(1861~1947年)は「ランドパワー」を重視する説を唱えた。彼の「ハートランド理論」は次の通り。

①    人類の歴史は「ランドパワー」と「シーパワー」の闘争の歴史である。
②    これからはランドパワーの時代である。
③    ハートランド(ユーラシア大陸の中核地帯)を制する者は世界を制する。

因みに、今日におけるアメリカの世界戦略は豊かな油田のあるアフリカ北部を「チャンスの弧」(arc of opportunity)と位置づけ、治安と経済が安定している欧州を「安定の弧」(arc of stability)としてそれぞれをアメリカの世界戦略基盤として捉えている。

また、イスラエルからカスピ海を通り北朝鮮とを結ぶ線と紅海から韓国へと至る弧の間、つまり東欧から中東、インド、東アジア(特に中国、北朝鮮)にかけての地域が近年テロの温床となり、米軍基地も少ない地帯であることから、「不安定の弧」(arc of instability)と名付け、米軍による関与の強化を明示している。

因みに、この不安定の弧戦略とはもともと、地政学ではイギリスの地理学者 マッキンダーが同地域のことを「危機の弧」(arc of crisis)と定義しており、このアメリカの戦略は地政学的観点に由来しているものと思われる。

マッキンダーに対し、ニコラス・スパイクマン(1893~1943年)は、「リムランド」の重要性を指摘し、「リムランドを治めるものが世界を制する」と主張した。彼の言う「リムランド」とはマッキンダーが唱える「ハートランド」の外周部で、北西ヨーロッパ、から中東、東南アジアに至るユーラシア大陸の沿岸地帯の事を指す。

地政学に関しては、この他にルドルフ・チェーレンの「アウタルキー」(経済自足論)ラッツェルの「レーベンスラウム」(生存圏)と国家拡大理論、カール・ハウスホーファーの「パン・リージョン理論」(世界を4つのブロックに分けて軍事戦略と勢力均衡を企てる)などがあるが、ここでは省略する。

●台頭する中国とマハン
台頭する中国との関連では、前述の「マハンの戦略理論第10条」は特筆すべき興味深い〝予言〟である。この趣旨は簡単に言えば「海洋国家は大陸国家を兼ねることは出来ない=中国は海洋国家(海軍重視)と大陸国家(陸軍重視)を同時に実現することはできない」というものである。この予言(主張)にはその裏づけとなる証明がなされておらず、未だ仮説の域を出ないといわれている。しかし、マハンの仮説は今日未だ破られていない。

台頭する中国の軍事力について、米国防総省年次報告書「中国の軍事力」05年版では「中国人民解放軍の戦力の近代化は、長期的に見て、現在の傾向が続けば、中国軍の能力は東アジア地域で活動する他の近代的な軍(筆者注:米軍の事を指すものと思われる)に、確実な脅威をもたらすものとなり得る」と述べている。アメリカの当局者としては、マハンの理論が正しい事を祈るように注視している所だろう。アメリカ見聞録(48)「東アジアの地政学(米中二極による戦略構造とは)」で紹介したロバート・ロス教授の論文も、マハンのこの理論を強く意識し、ロシアやインド等14カ国と国境を接する中国の海軍力の増強には懐疑的である。

●日本とマハンの関わり
「マハン海軍戦略」(アルフレッド・T・マハン著、井伊順彦訳、中央公論社)の「解説」の中で戸髙一成氏は次のように述べている。

日本帝国海軍における〝マハン熱〟は当初、秋山真之によって掻き立てられていた。アメリカでマハンを知った秋山は、マハンの所論に感銘を受け、日本海軍にマハンの考えを広める事を考えた。(中略)

海軍関係者の胸中には、将来太平洋でアメリカ海軍と対決するかも知れない、との思いが芽生えていたことは想像できるのである。後に太平洋戦争が始まった翌年に当たる1942年『海軍戦略』のダイジェスト版が発行されるに当たって付された序文で、大本営海軍部の富永謙吾少佐は、「マハンがいなかったら大東亜戦争は或いは起こらず済んだかも知れない。少なくともハワイ開戦といふものは存在しなかったのではないかと考えられる。何となれば“ハワイは米国のために神様が造って呉れたようなものだ”と最初に言い出したのはマハンである。それは疑いもなく米国が太平洋を湖沼化せんとした出発点であった。爾来制海権獲得のため不可欠な条件として根拠地への触手は悉くマハンの賢明な示唆を実行に移したものに他ならなかった」と、その認識を示している。

これは開戦後に思いついたような見解ではない、日露戦争後一貫して日本海軍の対米意識の底に流れていたものなのである。

富永少佐は、上記の如く、「日米開戦に至った遠因は、マハンの戦略だった」と言う認識をしている。マハンは『マハン海軍戦略』の中で13・14章の2章に亘って「日露戦争」について分析、記述している。そのスタンスは、主としてロジェストヴェンスキー以下ロシア海軍の失敗について付いて分析しているが、東郷司令長官以下の日本軍の活躍についての記述は冷ややかに書かれているように感じるのは私だけだろうか。

日米関係や米英関係など海洋国家と海洋国家の関係は一般的には親和的と思われがちだが、必ずしもそうではないようだ。アメリカ独立前後の米英関係や、第二次世界大戦前の日米関係を見れば頷けるだろう。即ち、今日の日米同盟関係についても、両国の真剣で粘り強い努力なくして良好な関係を維持存続するのは困難である事を思い知るべきである。  
 
また、一方では、「西への衝動」を宿命付けられたアメリカの腹の中を我々日本人は「疑いの目」を持って観察することも必要だと思う。

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