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【エッセイ】 うんこの観察 〜スピリチュアルジャーニー 人生のレッスンはしつこい〜

 用を終えた後、私は観察を欠かさない。
 まだ色気のあった若い頃は、うんこが出ると思った瞬間に流すレバーを下げるか流すボタンを押すかして、うんこが便器に着地する前に奔流によって流してもらうという技を使っていた。これにより、くさい匂いがトイレ中を立ち込めてしまうことと、汚れが便器に付着するのを阻止することができる。
 しかし、いつからか、私は、匂いが立ち込めようが、便器が汚れようが、観察を第一優先とするようになった。
 それは、うんこのカメレオンパワーに遭遇したことに始まる。
 
 真っ黒なうんこは便秘が続いた後だった。
 今でこそ、快腸、快便だが、若い頃は便秘で苦しむことが度々あった。そして、詰まった便には上から押し出すのが一番だと思い込んでいたため、便秘になる度に、普段のドカ食いに更にドカ食いを重ねて便秘に挑んでいた。 
 ところが、この時は、便秘の解消に正反対の手段を取った。正確に言えば、ただ単に、食べることすら気力が出なかっただけのことで、不本意にもたまたまいつもとは正反対の処置だった。
 食欲がないなんてことは生まれて初めてのことだった。今まではどれほど人生に迷い、自己嫌悪に陥り、すべてが嫌になるほど気分が滅入っても、好きなものをたらふく食べ、ワインを飲み、爆睡して元気を取り戻して来た。「好きなだけ食べて、好きなだけ寝る」だ。それが私を度々襲うネガティブ津波からの一番の脱却法だった。
 当時の私はとにかくネガティブ思考に囚われていたが、「好きなだけ食べて、好きなだけ寝る」方法でいつも立ち直ってきた。
 ところが、だ。
 いくら暴飲暴食をして眠りこけても、一向に気持ちが回復できない。そのうち、大好きで大得意の「食べる」ことすら気力が出なくなってしまった。「好きなだけ食べて、好きなだけ寝る」方法しか知らない私は更に落ち込んだ。今では健康に良いとされる「断食」なんて知識を当時の私は持ち合わせておらず、断食するつもりはなかったのに、食べる気が起こらないから、結果、断食状態に陥った。
 丸々三日、水分以外は口にしなかった。水分にはワインもビールも含まれていたが、おつまみは抜きだった。すると、体に変化が訪れた。
 不本意断食を丸々三日間終えた翌朝だった。塞ぎ込んでいたあまり、うんこが出ていないことなど心配もしてはいなかった。しかし、その朝は俄に、何か大きなものが飛び出して来そうな気配を体の下っ腹あたりが私に知らせて来た。
 トイレへ座ると、すぐにドカンと一発。ひとり暮らしの自宅のアパート。流すレバーに手をかけることを全く忘れていた。何かズシンと重たいものが体の中から抜け出ていった。
 何と晴々しい感覚なのだ。一気に気分までが高揚し、お腹も軽いがそれ以上に気持ちが雲の上に浮かんだように軽くなった。一瞬の出来事だった。
 うんこをドカンと出しただけなのに、体も心もうんこを出す前とは正反対の方向へシフトしていた。今までに味わったことのない至福のひと時であった。八方塞がりの真っ暗闇にいた自分が、突然何かに頭のてっぺんをつかみ上げられ、猛スピードで上空へと引っ張られ、明るいキラキラした世界で操り人形のように吊し上げられている。私は、どこまでも続く広くて青い大きな空に浮かんでいるようで、ふわふわ軽やかな感覚がした気がした。
 今まで悩んでいたいろいろなことが、急に全くどうでも良くなった。何に悩んでいたのだったかさえ、考えなくては思い出せないほど、私の重たい悩みはどこかへすっ飛ばされて無くなっているように感じた。
「こんなに気持ちが晴れやかなのに、私は一体、一週間もの間、何を悩み苦しんでいたのだろうか」
 そうなると、もちろん、便器の中を覗き込みたくなる。お尻を拭いたペーパーは、うんこが見えなくならないように、端っこへと寄せて、立ち上がり下着を上げて振り返った。あの重たい物質の正体。私の中から何が出たのだろうか。わくわくで胸が高まった。
 私を暗闇から救い出したのは素晴らしい大きさの真っ黒なうんこだった。ドス黒い、とにかく真っ黒けっけだった。こんな真っ黒なうんこは見たことがなかった。何か、本物の黒はないか、と黒画用紙を取りに行き、真っ黒な画用紙と照らし合わせてみると、正真正銘の真っ黒だった。カラーコードで言う#FFFFFFに違いなかった。
 食べることを一切しないくせに赤ワインを飲んだ暮れていたためだったのか、それとも「宿便」といううんこはこのような真っ黒な色をしているのか、いろいろ考えながら、どうしたらこのうんこをしばらく流さずにいられるかに頭を悩ませた。もはや、断食をする羽目になった悩みのことなど、考えもしていない。
 しかし、ドス黒さも感動ものだったが、大きさも感動的だった。こんなどデカいものの上に排泄物を重ねていけば、トイレが詰まってしまうかもしれない。ただでさえ、一発で流れるか分からないほどの代物だ。
 トイレが溢れた場合の大惨事を想像し、仕方なく真っ黒うんこに別れを告げる決心をした。私の体の中から、心の中から、不要なもの、ネガティブなものをすべて掃き出してくれたように感じ、私は真っ黒なうんこに向かって、自然と溢れ出て来る涙を大量に流しながら心からの感謝のお礼を述べた。
 うんこに涙しながらお礼を言うなんて、もし側で見ている人がいれば、「こいつ、気でも狂ったか」と思うことだろうが、私の心は幸福感と達成感のようなもので満ちていた。
 トイレのフラッシュの渦に呑み込まれていく真っ黒なうんこを眺めながら、私の気持ちは180度方向を転換し、暗闇を見ていた側から反対側の光の見える側へ移行していることに改めて気がついた。もう穴の奥底で一人うずくまっているのではなく、晴れやかな高い空に気持ち良く浮かんでいる。
 私はどこへでも行けるし、何でも出来る。
 私の人生は素晴らしい。
 私は本当に守られている。
 さまざまなポジティブな思いが込み上げてきた。建設的で前向きな思いが浮かんで来れば来るほど、感謝の思いは加速する。私は既に幸福感で包まれていた。うんこを出しただけなのに、だ。
 これが私の初めての断食経験だった。偶発的なこのポジティブな断食経験のお陰で、断食は体にとって健康的に作用することを知った私は、その後の人生でも、断食をすんなりと受け入れ、進んで行うようになった。
 
 緑のうんこを振り返ると、その前の一週間、私は野菜だけを食べていた。
 私は時に、ひとつのものにはまってしまうと、気でも狂ったかのように、ストイックなほどそればかりを食べていることがあった。今でこそ、日本のスーパーにも外国の野菜がたくさん出回っているが、私が外国に初めてひとりで暮らした当時は、日本では見たことのない野菜がたくさんあった。そして、日本では聞いたことのなかった「ファーマーズマーケット」とやらで新鮮な野菜を農家から直接安く買うことができた。私は初めて見る野菜を大量に買い込み、毎日、野菜三昧の生活をした。
 その一週間は、とにかくお肉も炭水化物もろくすっぽ食べていなかったと記憶する。炭水化物の大好きな私が炭水化物も摂らずに、とにかく野菜ばかりを食べて過ごした。
 特に、初めて食べるアルグーラ(ルッコラ)の胡麻を擦ったような香りと濃くて苦辛い味にやみつきになった。他にも、生でなんて食べたことのなかったサラダほうれん草、ケール、茎の部分がピンクや黄色のスイスチャード、ブロッコリーに似ているけど見たことのない野菜、水菜に似ているけど見たことのない苦辛い野菜など、緑色の野菜が多かった。当時の私は今とは違って、毎日決まった時間に必ずうんこが出るような快便ではなく、常に便秘気味だった。このグリーン野菜期間中、炭水化物をろくすっぽ摂っていなかったせいなのか、野菜だけでは大きな塊になるのに時間がかかるのか、便秘はすぐには解消されなかったが、大して気にもしていなかった。しかし、ついに、清々しい朝がやってきた。
 もよおしてから短時間にすとんと一発。座ってからきばることもせずにすっきりと出切った爽快さも忘れ難いが、何よりも便器をのぞいた時の驚きを私は今でも忘れない。
 うんこは真緑だったのだ。あまりにうんこらしからぬ色に仰天し、思わず立ち上がって振り返り、それからわざわざ体勢を便器に向け直した。見たことのない美しい抹茶色をしたバナナだった。和柄にある日本の伝統色の緑だ。上品で高級なグリーンをしている。これを果たしてうんこなどと呼んで良いものか。抹茶チョコの特大盤のようで、何だか食べられそうな気さえしてきた。残便感の全くない出し切ったスッキリ感と、見たことのないものを見た感激とで気持ちも体も軽やかに昂った。私はしばし、抹茶うんこに釘付けになった。そして、すぐには流すことができなかった。
 
 とにかく私はひとつの食べ物が気に入ると、寝ても覚めても、そればかりを食べてしまう癖があった。
 ある時は、初めて食べるビーツがとても気に入り、ビーツばかりを大量に食べていた。
 私にビーツを紹介してくれた友人は、自分の一番好きな野菜を食べたことのない人間がいることに驚き、ビーツを使ったサラダ数種とビーツのピクルスをオードブルに、豪華な食事に招待してくれた。
 ワインを片手にあれこれつまみ食いをしながら料理をするのが大好きな友人と私は、いつも料理の始めの段階からパーティを開始する。おしゃべりしながらの下準備中、友人が皮を剥いて切った濃い薔薇色のひとかけらを私に差し出し、
「ほら、これ、私が一番好きな野菜。まず、このまま食べてみて」
 この時、私は、生まれて初めてビーツを食べた。こんな毒毒しい色をした野菜なんて見たことがなかったから、私には自然のものとは感じられず、合成着色料の塊にしか見えなかった。しかし、友人の美味しそうな笑顔につられ、抵抗なく口に運んだ。
「甘い」
どぎつい色の割には味は繊細だった。
 友人は料理をしている最中ずっと、
「ビーツは美味しいけど気をつけてね、服に着いたら真っピンクになっちゃうから。手だってこの通り」
と言って、いちいち手を見せて忠告してくれた。
 料理中のつまみ食いのビーツも、彼女が作ったビーツ主体のサラダいろいろも、どれもがとても美味しかった。薔薇色も目立つが味も極立つ。甘いけど他の野菜たちとの相性も抜群だ。どんな野菜と混ぜ合わせても、グループの中でたちまちリーダーとなって頭角を表す。クラスに必ずいる、誰からも好かれる圧倒的なリーダー格のような存在だ。ビーツの導く方向にクラス全員がひとつにまとまってついて行く。どの料理にもビーツが隠し味だったり、アクセントだったりと、重要な役目を担っている。彼女が料理上手ということもあったが、私は一日でビーツの虜になった。
 それから、早速、ファーマーズマーケットへ行き、すぐさまビーツを購入した。ファーマーズマーケットは大半が自分の欲しい量だけ買えるのだが、ビーツのように既にいくつかの株が束ねられて売っているものもある。たくさんのビーツが束ねられているのに、その束をいくつも買い、私は毎日ビーツ三昧の食生活を楽しんだ。友人の言う通り、生でも、ピクルスにしても、茹でても蒸しても焼いても、何をしても甘くて美味しかった。
 ところが、だ。
 数日後、トイレへ行って、青ざめた。
「私、血便?」
血の気が引いた。
「どうしよう、どうしよう」と一気に気持ちが沈み、悲しみの底に突き落とされた。
トイレの便器の前で立ちすくみながら、呆然と出たばかりのうんこを眺めていると、
「いや、待てよ、これは血じゃないぞ」という心の声がして来た。
よく見れば、うんこかから滴り出ている色はピンクだ。
「そうだ、とりあえず、良く観察してみよう」
 衝撃を受けながらも恐る恐るうんこを割り箸で突っついてみることにした。すると、血の色ではないことが明らかになってきった。赤というよりどちらかと言えばピンクで、変わった色のうんこ以外は健康そうなうんこだった。血の混じったうんこではなく、ただのピンクのバナナだ。
「もしや、これはビーツの仕業ではないか」
 そう考えた私は、私をビーツキチガイにしてくれた友人に連絡をすることにした。
「あっ、そうそう、そうよ。ビーツをたくさん食べた後はピンクよ」
 私は一瞬、安堵から、無言で立ちぼうけした。
「おいおい、何でそんな大事なことを先に教えてくれなかったの?」
 私はほっとしたことで、大笑いしたが、同時に友人に対して怒れても来た。
「ビーツは美味しいけど気をつけてね、服に着いたら真っピンクになっちゃうから。なかなか取れないのよ」
と、やたら服や手のことばかりを忠告してくれたが、肝心な「ビーツを食べた後」に関して、全く私に情報をくれなかったではないか。ビーツはとっても美味しいが「取り扱い注意」の野菜だという情報しかもらっていないぞ。しかも、私はもうとっくに服もピンクにしたし、手は毎日真っピンクだったが、服も手も無事に色が取れることは証明済みだった。服や手がピンクになったっきりずっとピンクのままで、私の手は生涯ピンク色だと言うのならともかく、食べ過ぎた日の翌々日のうんこの忠告の方が大切だ、と友人に文句を垂れた。友人もまさか私がそんなに大量にビーツを食べまくるなんて思ってもいなかったのだろう。
 それ以来、ピンクのうんこに慣れた私は、
「まぁ、うんこったら、本当にピンクにもなり得るのね。なんてカメレオンみたいなんでしょう」
と翌朝のうんこに微笑むようになった。うんこの可能性にはたまげたもんだ。
 
 真っ黄色のうんこにも出会うことが出来た。これは結婚後のことだが、ヴィーガン食を続けていた頃のことで、ついでにターメリックを取り過ぎたために生まれた偶然の産物であった。
 玄米、菜食、ヴィーガン。加えて、普段は全く噛まずに飲み込むところをひと口ひと口一生懸命噛み、飲み込みたいところをウっと堪えてトドメの咀嚼。しかも普段は腹を十二分に満たしていた大食漢の私が腹八分どころか腹七分に留めるという、もはや食べる楽しみから遥か遠ざかった修行のような食生活をしたことがあった。
 肉類を食べない人たちのうんこの色はベージュだと聞いたことがあったが、「ヴィーガン、咀嚼過多、腹七分」の修行中、それが本当だということを実際に体験した。匂いも全くなければ、形も色もとても綺麗だった。今までの汚いイメージのうんことはまるで別物だった。とにかく色が薄くて、汚れのない「無垢のうんこ」とでも名付けられそうな印象のものだった。
 修行の最中、夫の提案で毎晩、ターメリックパウダー、ジンジャーパウダー、シナモンパウダーと胡椒を混ぜ合わせてお湯に溶いたものを、食後の緑茶代わりに飲み始めた。
 ベージュが黄色にまでなると、またまたうんこのカメレオンパワーに感服させられた。変幻自在なカメレオンうんこよ。「無垢なうんこ」にやや黄色味がかり、今まで見たうんこの中で一番健康そうに思える。
「あぁ、なんてきれいなうんこなのだろう」
 まさしく黄色のうんこだ。バナナは皮をむいてしまえば、中身は白いが、これは本物の黄色のバナナだ。自分のしたうんこに見とれる朝のうんこの時間は、「食」の修行中のささやかなご褒美時間だった。
 
 遺伝子組換え農作物や畜産業界の闇を描いたドキュメンタリーをいくつか見てから、食べるものにはより気をつけるようになった。しかし、ベジタリアンへ移行の思いは心の片隅で眠ったままだった。
 大好物は豚の生姜焼きだの、トンカツだの、鳥の唐揚げだのすき焼きだのと、肉がからんだものばかり。
 利益至上の虐待的な生産状況や、残酷な屠殺と廃棄処分の仕方には胸が痛む。
 たとえ、昔ながらの自然な飼育方法で育てられた牛や豚や鳥であっても、手足や顔のついた丸ごと一匹、丸ごと一羽では買いたくない。
 なのに、スーパーに並んだお肉のひとかけらパッケージには喜んで手を出す。私は典型的な矛盾だらけの偽善者タイプだった。
「心はベジタリアンだけど、お肉は止められない」
 永らく溜め込んだその矛盾に満ちた思いを整合しようと、やっとのことで決心を固めたところへ、夫の希望もあり、一気にベジタリアンを通り越えヴィーガン食へと変更することになった。加えて、「咀嚼過多」と「腹七分」という高いハードルまでくっつけた。今まで50センチのハードルしか飛べなかったくせに、自ら、一気に2メートルにまで吊り上げてしまったようだった。
 案の定、早喰い大食漢の私が、ハードル2メートル、良く噛んで腹七分など続くわけがない。始めたそばから飛べない日々が続いた。「咀嚼過多」という部分は早々に削られ、「腹七分」がまもなく削られていき、「ヴィーガン、咀嚼過多、腹七分」の「ヴィーガン」だけが残った。そして、ヴィーガン食の生活は三年近く続いた。
 
 豆類、豆腐、野菜にグルテンを混ぜた手作りフェイクミートや豆腐チーズ、豆乳チーズなど、料理をする前にまず食材作りをしなくてはいけなかったことが水面化でかなりストレスになっていた頃、誘惑に勝てずに日本で美味しい日本食を食べたことから、私たちのヴィーガン食生活は少しずつ揺らいでいった。やはり、本物の肉やチーズを使った料理には勝てない。日本食は世界一美味い。次第に、ベージュや黄色のうんこは幻になってしまった。
 しかし、ビーツのピンクバナナは頻繁に出現する。そして、このピンクのバナナは分かっちゃいるのに、いちいち私たちを驚かせてくれる。学ばない私たちが悪いのか、ビーツの威力なのか。私がビーツを止めない限り、ピンクのバナナにドッキリの人生は続いていくであろう。
 そろそろ、黄色のバナナが恋しくなって来た。また「ヴィーガン、咀嚼過多、腹七分」を復活させようか。
 
 うんこの観察をするようになって以来、自分の排出物は自分の体の状態を知るために、自分ができる一番簡単な健康法だと確信するようになった。
 うんこは食べた物によっても、消化の状態によっても、自分の体の状態によっても、色や形が千差万別で、同じ食べ物を食べても、人によってうんこ製造工場の製造状況も製造物も違う。夫は未だに見せてはくれないが、毎朝の報告を聞いている限りでは、私よりも夫の方が、どうやら食べ物とうんこの関係に敏感だ。とは言っても、夫の焦点はもっぱら「量」ばかりなのだが。
 
 ある朝、夫はすこぶるご機嫌にトイレから出てきた。
「どうしたの?」と私が聞くよりも早く、清々しい表情で、
「すっごくスッキリした。すごい量だった。こんなに気持ちがすっきりするなんて、すごいことだ」
と、まるで5歳児の子供のように自分のうんこの量に感激していた。
 普段から、人一倍うんこをする夫が「すごい量」だと言うのだから、どれだけ「すごい量」だったのだろうか。
「流しちゃったの?」
   「当たり前だ」
「見せてくれれば良かったのに」
すごい量とやらを見損なった悔しさを夫にぶつける。
 夫は嬉しさのあまり、私の文句を物ともせず、
「人間は排出機能がしっかり働くと、こんなにも体も心もスッキリ軽やかに元気に蘇るものなんだね」
と、爽やかな顔をしながら力説した。なるほど、本当に元気でイキイキしている。
 普段から快眠快便でスッキリ便の夫が「スッキリ」だと言うのだ。その「スッキリさ」は如何ほどのものだったのだろうか。私の真っ黒うんこの時くらいだろうか。
 あれくらいの大爽快感を毎朝味わうことが出来たらどれだけ幸せだろうか。私はうんこひとつがあっさり人生を180度転換することを経験済みだ。
 朝、素晴らしい一本を生成できた時の喜びはひとしおだ。IPPONグランプリのように思わず「IPPON!」と叫びたくなる。「スルッ」と不要なものすべてを体の中からまとめて排出してくれ、尚且つ、切れ味まで良いとなれば、至高の極上だ。そんな日は気分だって最高に良い。体の中からネガティブエネルギーが全て出て行ってくれたように感じられて、人生まで好転していくように思えて来る。
 人間は排出機能が万全であることが何より重要だ。食べることよりもまず出すことだ。そう確信するようにもなった。

 私たち人間の消化器官は二つのことを同時に出来ないらしい。世界中の男性と同じだ。女性はしゃべくりながらいろいろなことを同時にやってのけるが、男性は何かをしていると妻の話が聞こえない。
「聞いてる?」
   「聞いてる、聞いてる」
「今、私、何て言った?」
   「・・・」
 人間の消化器官はこんな調子で、消化吸収と排出を同時に出来ないため、消化器官が排出作業に取り掛かっている間は食べることを控えた方が良いと教えられたことがあった。消化器官が排出作業に集中する時間帯は早朝から朝だと言う。
 だから、私は毎朝、うんこを出すことに集中する。若い頃のように、食べまくって押し出すのではなく、寧ろ、断食やプチ断食をして消化器官を休めるようになった。これは、未だに「咀嚼過多」と「腹七分目」が達成できない罪滅ぼしでもある。普段、消化器官にオーバーワークをさせ過ぎているため、休暇を増やすといった、せめてもの労働者への待遇措置だ。
 
 うんこは体の声だ。自分で自覚するくらいあまりに噛まずに飲み込んだ食事をした後は、うんこがきちんと
「お前、ちゃんと噛めよ、消化できなかったじゃないか」
「せっかく栄養価の高い食物を摂取したって、お前が噛まなきゃ、吸収できないんだよ」
などと警告して知らせてくれる。
 時には、
「肉って気分じゃなかったんだ、言っただろ?」
「食べ過ぎなんだよ、食べ過ぎ。もうお腹いっぱいだとあの時、言っただろ?」
と、うんこが訴えているような気さえして来る。

 実は、人間の体は、体が必要なものを常に体の主に教えてくれている。私たちが蚊の鳴くようなか細い声でささやく体の声に気づくかどうかだ。そして、常に体と対話し、体に相談することだ。信頼関係を築ければ、体は必ず応えてくれる。 
 しかし、分かっちゃいるけど、これはなかなか高度で難しい。だから、まずは、うんことの対話だ。うんこは体の声を形にして表してくれるから、体の遠慮がちに訴える声を聞くことよりも楽だ。

 私のうんこは依然として訴える。
「噛め」
「食い過ぎだ」
「ヴィーガンだのベジタリアンだの前に、『咀嚼過多』と『腹七分目』だ。いい加減にできるようにいなれ」と。
 その通りだ。いい加減、何とかせねばならん。

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