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【エッセイ】 あっちの方向 〜コメディショーみたいな夫婦の日常〜

 私が指を差して、
「ねぇ、あれ見て!」と言うと、
夫はほぼ100%の確率で、全くとんちんかんな方向を見上げながら、
「どれ?」「どこ?」「何?」と聞いてくる。
 
「ほら、あれ」
ボキャボラリー不足で、普段、「あれがどうした」「これがどうした」だのと、「あれ」「これ」で用を足して生きているために、とっさには気の利いた言葉が出てこない。
 
 私の説明不足も大いなる原因のひとつではあるが、夫は相変わらず、とんちんかんな方向を向いたまま私の指す「あれ」を探している。
 
「何故、私の指を追わないの?」
わざわざ指を差しながら、別の方向にあるものについて語るはずがないではないか。
私の指と私の目線は同じ方向のはずだ。
 
 このとんちんかんなやりとりは結婚以来、変わらない。
 
 私が、とんちんかんな方向を向く夫に気づくのにも大分時間がかかった。私はてっきり、夫が私の指差す方向を見ているものだと思い込んでいたため、何故、いつも夫は私の指差す「あれ」を探せないのかと不思議でならなかった。
 
「ほら、あれ!」
「どれ?」「どこ?」を何度も繰り返している間に、夫が「あれ」を見損なうことがしばしばあった。
私は自分の指差している「あれ」に夢中になるあまり、夫のことは見ていない。夫はというと、「あれ」は必ず右上だと決まっているかのように、反射的に右上を見ている。
 
「私の指が差している方向を見てよ」
 私が何かを指差す度に、必ずこのくだらないやりとりから始まるお陰で、せっかく共有したいと思って指差したものがどこかへ飛んで行ってしまったり、見えなくなってしまったりする。
「ほら、見損なったでしょ」
感動を分かち合えない時のこの「がっかり」を何度経験しただろうか。
その度に、「がっかり」を「怒り」に変えて夫に文句を垂れてきた。
 
「何故、私の指を先に見ないの?」
「私が『ねぇ、あれ見て』と言う時は必ず右上だとは決まっていないでしょ?左の時だってあるし、すぐ足元かもしれないし、後ろかもしれないでしょ?」
 
 ほぼ100%の確率でとんちんかんな方向を見上げる夫がたまに私が指差したものをすんなり見つけられることがあるが、それは、たまたま私の共有したい何かが、夫の反射神経の大好きな右上にあった時だけだ。
 
 私の指はいつも、にわかの唐突に始まる。
私だって、不意に何かの拍子に何かを発見し、共有したくなるのだから、仕方がない。
 しかし、夫には、この出し抜けの「あれ見て!」が、とっさ過ぎて対処できないらしい。だから、いつでもとんちんかんな方向を向いている。最近では、私は夫のあまりのとんちんかん振りに、自分達がまるで漫才でも披露しているかのようで笑えてきてならない。妻が腕を伸ばして、左前方の下の方を差しているのに、隣にいる夫は右頭上はるか彼方を見ているというような様相で、その噛み合っていない二人の一瞬の全貌を切り取って外から見れば、もはやコメディアン夫婦でしかない。私はいつからか、自分で「ねぇ、あれ見て」をした途端に、反射的に笑い出すようになった。
 
 夫を変えることが出来ないのなら、私が変わろう。
 指を指し示す代わりに、「右手上空斜め2時の方向を見て」だとか、「私のすぐ左横、斜め下を見て」などと言えばどうだろうか。
 しかし、これにはかなり高度なテクニックを要する。私の「ねぇ、あれ見て!」は私ですらいつ起こるのか予期できない。いつも突拍子もなく突如やって来る。そして、それは通常、急を要し、共有するにも時間との勝負だ。車で走っている場合は、もたもたしていたら、とっくのとんまに視界から流れ去って消えてしまう。
 更に問題がある。夫が隣にいて同じ方向に体を向けている場合は私の右は夫にとっても右だが、夫が私の向かえ側に座っている場合などは、私の右は夫の左だ。これに時計の12針で方角を示すとなれば、考えているだけで時間が過ぎてしまう。ただでさえ、私は日常において、「右」と言うところを「左」と言ってみたり、「左」と言うところを「右」と言っているのに、瞬時に正しく左右を言い当てることは、私にはハイレベル過ぎる。夫のとっさの反射神経を改めるくらい難しい。こればかりは、無理だ。治すことよりも楽しむことを重視することにしよう。
 
 そう決めると、何だか楽しくなってきた。私の「ねぇ、あれ見て!」の度に、「アホ夫婦のコメディーショー」だ。少し離れた位置から私たち夫婦を見ている自分を想像するだけで、滑稽で可笑しくてたまらない。
 
 ある朝、自宅のテラスでコーヒーを飲んでいる時だった。
 テラスの柵に一匹のハエが止まっていた。私は視界の中にハエが入ったまま夫と会話を続けていたのだが、そのうち、微動だにしないハエがどうにも気になってきた。死んでいるにしては、おかしい。水平の柵の棒の丸くカーブがかかったところにいて、足を食いしばらなくては落っこちてしまいそうな微妙な体勢だ。もしかしたら、鉄柵のサビてボコボコしたところにでも足をかけているのかもしれないが、私の視界からはどう見ても斜めだ。山の急斜面に立っているような感じだ。
 私は会話のひと区切りを待って「ねぇ、これ見て」とハエを指差して言った。
 
 案の定、夫はとんちんかんな方向を向いている。私は、私たちがコーヒーを飲んでいる「IKEA」のカフェテーブルのすぐ横のテラスの柵を指しているのに、夫ときたら、夫の右上、はるか彼方の遠くの高い空を見上げている。私の指の方角と夫の見上げる首の角度があまりに違い過ぎていて、私はアホさ加減に吹き出した。
「まず第一に、私の差している指の方向へ自分の顔と目を向けろ」
「第二に、『これ』って言ってるんだから、『あっち』なわけないでしょ?『これ』って言えば、近くを差しているのが分かるでしょ?つまり、指の指す方角の手前の物なのよ」
 
 夫のとんちんかんを楽しむはずだったのに、うっかりまた文句を垂れてしまった。「あれ」と「これ」の説明をくどくどした後、
「じゃあ、こうしよう。私が『見て!』と言ったら、まず、私の顔を見るの。分かった? 私の目線の方向を確認し、それから、私の指の先を辿るの」
 
 ぐっすり眠っていたハエは夫婦の口論に目を覚まし、身支度を始めた。まさか、自分が口論の原因になってしまったとは露とも思わず、しかし、「うるさいなぁ」と言わんばかりに飛び立って行った。
 
 とんちんかんな「あっちむいてホイ」の回避策を提案してしまった後で思った。私はいちいち文句を垂れ過ぎる。せっかくの「アホ夫婦のコメディーショー」なのだから、夫が私の文句に素直に従ってしまったら、今後、おもしろくなくなってしまう。毎度毎度、とんちんかんな方向を向く夫がようやく可愛くも思えてきているのだから、もう、瞬間湯沸かし器のように文句を垂れるのはやめにしよう。ハエにだってうるさがられたのだから。
 私は今度ばかりは固く決心した。夫のとんちんかんな「あっちむいてホイ」はそのままでいい。アホでとんちんかんなコメディーショーが続く方がいい気がしてきた。
「そうだ、もういちいち文句を垂れまい」


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