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自由と責任を生きることと家族でいること

民泊で一緒になった若い夫婦が2階で派手なケンカをしていた。南米やアジアを旅してきて、帰国後は日本各地を転々としているようだ。`

「お金がない、働きにでたい。」
「肉の焼き方が甘い、肉も上手に焼けないようなヤツはダメだ。」
「私だってゴミも捨てない人はいやだ。」
「俺だって頑張って働いて、それでごはんを食べているんでしょ。」

非難する言葉にかみ合わない話。お互いに相手に認めてほしい気持ちでいっぱいだ。けんかの合間に気をそらすように、食卓でYoutubeでアニメをみている子供を叱る。

母「お風呂に入りなさい。」
父「お風呂、入りなさい。入らなければ明日はプールに連れていかないよ。」
母「いい加減にお風呂に入って。約束したでしょう。」
父「8時までにお風呂に入るんじゃなかったのか。そういう約束も守れないのか。」

何を言われても男の子は動かない。本心からかけられた言葉じゃないことくらい、わかるのだ。ボリュームをあげてアニメを見続けている。

そんな喧嘩を傍で聞いてしまって、家族のことを思い出した。

日曜日の朝、母はキッチンで口に手をつっこんでゲーゲー吐いていた。透明な唾液を吐き出す。そのあと部屋の扉を閉めて出てこなかった。日曜日で朝から家族が全員そろうことは負担なんだろうと思った。

夕方、キッチンに出て夕食を作る。父が、気持ち悪いなら無理をするな、といっても聞かない。作り終わると食べずに部屋に戻ってしまった。



電車で向かい側に座った母は、肩を傾かせ、うつろな表情で空をみている。目があって困ったようにはっと笑う。その笑顔は崖地に咲く高山植物のように、はかなく、ぎりぎりなバランスでいるように見えた。笑うと同時にいろいろな色の感情がふわっともれだして、所在なく空気中に漂うようだった。

あるときは、「お母さんは何もできていないから。」と、電話の前の椅子に座って泣いている。
「そんなことないよ。家事もパートもして約束だって忘れないし一生懸命やっているよ。」
「でも全部、上手にできてない。」

少女のようにさめざめと泣いている。家庭の中の労働が外での仕事のように評価されないことの苦しさなんだろうか。「上手に」とはなにか。

「ほら、洋裁とか庭仕事とか、なんでも好きなことを習ったらいいよ、今から学校に行くこともできるし。」「でも、もう遅すぎる。」

時々、はっとした。母の寂しさはまるで三歳の子ども、みなしごはっち、みたいだ。理屈ではないんだ。寂しさを隠すために強くでたり、感情的になって人を遠ざける部分もあったり、どれを信じたらいいのか混乱した。

父は母に否定的な言葉をぶつけられても、反応せずその場から去った。以前は理解不能だったが、感情的やりとりを繰り返したところで解決にはならない。理性的な態度が家族を守っていたこともわかるようになった。父には父の虚しさや寂しさがあっただろう。

母の気持ちを全力で読み取るように私はいつも緊張していた。何かあったら死んでしまうかもしれないと言葉を選んだ。不安な気持ちがほぐれるように、笑ってくれるように、求めるものは読み取って答えられるように。精一杯だった。「家族」らしくいられるように会話にも気を使った。日曜のスーパーは嫌だった。みんな、家族単位で来ているから。比べられてしまうようで子供ながらに落ち着かなかった。

しかし、そうやって気を使い心配するのに、母からは、あなたさえ楽しく過ごしてくれればそれだけで良いから、と涙ながらに言われる。話はすり替わり、自分がふがいなくて落ち込んでしまう。私がいけないんだろうか。

母に対しては、自分の問題に向き合う勇気がないかわりに娘を使わないで、人を感情で振り回さないで、という怒りを持っている。

一方で、傷ついてきた人が生きている証を求め、それがないと足元から崩れてしまうくらい寂しくて。母が娘に託した気持ちの量を考えると、親ながら抱きしめてあげたいほどの愛おしさと役にたてるならなんでも差し出したい気持ちになってしまう。


億劫なことに、小さなころ経験してきたことからは逃れられないようだ。私にとっての自然な家族の形を探すという、面倒な旅にでている。

一人の人が満たされて生きるとはどういうことだろうか。

母の涙をみていて、孤独感は家族や恋人や子供が満たせるものではないと思った。

つまり、自分でなんとかする以外ない。そしてその道は決してわかりやすくは進まない。もがいて、苦しんで、不格好で、何をやっているのかよくわからなくて。でも自分でやるしかない。そうしないと自立できないし、私はそうやって生きたい。

周りには、その旅を見守ることくらいしか、実はできないのではないか。

親の世代は生活するためのシステムとしての「家族」の形が当たり前だった。父は働き母は主に家を守り子どもを育てる合理的な仕組み。しかし、役割を当たり前に期待することで不自由になる側面もある。母にもう少し自由をあげることはできなかったのか。家族であることが苦しめた部分もあったのか。強い人は自分でバランスがとれても、弱い人はNoが言えないから。

家族とはなんだろう。

一人の人間として自由と責任を生きながら、家族でいることは可能なんだろうか。それはどんな形なのか。きっと両親の形とはかなり違うだろう。重い腰をあげて考えている。

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