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在宅医療どっぷりの医師が言った非常識なこと

理学療法士のふくちゃんです。

今日は「在宅医療どっぷりの医師が言った非常識なこと」って話をします。

私は訪問看護をメイン事業とする株式会社のマーケティング課に所属していて、普段はマーケティングや営業に関する仕事をしています。今回の話は多職種連携研修会で医師の先生が話されていた内容です。


死にゆく人のカラダで起こること


訪問看護を志したとき、初めて読んだ書籍が玉置妙憂氏の「死にゆく人の心に寄りそう」という本でした。看護師であり僧侶でもある氏が、ご主人を看取る際の様子を鮮明に書かれていて、衝撃を受けたのを覚えています。

私自身は理学療法士であり、訪問看護の現場にいるとはいえそういった最後のタイミングの利用者に携わることはほとんどありません。ただ、スタッフの話を聞き、自身の病院勤務時代の経験や玉置氏や諸先輩方の知見を照らし合わせ、死にゆく人のカラダで起こることを知識としては把握しています。


そんな私でも、今の医療における最後のタイミングでのケア(キュア?)には疑問を抱かざるを得ません。

  • 不必要な点滴

  • 生死に関係するのか分からない定期薬

  • 本人の意思が反映されない治療方針

多分、多くの医療従事者も同じように思っているのではないでしょうか。


「それ今本当に必要?」


死にゆく人のカラダは、残されたエネルギーや水分を使い切って生命活動の終わりを迎えていきます。腸内の残留物は肛門から垂れ流され、皮膚はカサカサに乾いていき、最後の拍動までエネルギーを使い切ります。

生存の可能性がある状況においては、もちろん同義で扱うわけではありませんが、果たしてヒトのカラダに起こる死への過程において、その最後の「生」のために行なわれている医療がどれほどあるのか疑問で仕方がありません。


医師が発した非常識なこと


今回私が参加した多職種連携研修会で講演されていたのは、在宅医療にどっぷり浸かっている先生でした。長年従事されていて、今回は先生が経験されたお看取りのケースレポートを紹介されていました。

それぞれのケースにおける利用者や家族の心理的状況、環境、関わり方について詳細にお話ししてくださいました。その中で、聴講者からこんな質問がありました。


「ターミナルの利用者でご家族から点滴加療を懇願されるケースがあります。先生はどのように説明されているでしょうか?」


前述のように、お亡くなりになっていくとき、カラダは残っているものを出し切って使い切って終わりを迎えていきます。先生の見解も一緒でした。

「点滴は、正直ほとんどが水分です。食事が摂れなくなったからと言って点滴をしたところで、必要な栄養素はほとんど入っていません。むしろ、排泄機能が弱くなっている分、浮腫みや胸水のように体の中に貯留させてしまいます。身体に余計な負担を掛けてしまいます。それをお話しされていますか?」

多分この話は、今の医療現場においては非常識に映るかもしれません。およそ8割の人が病院で亡くなりますが、果たして「点滴を最大限しない」という選択をする医師がどれくらいいるでしょうか?

家族は最後の最後まで医療が万能であるかの如く対応を求めてきます。そういった方々に、真摯に向き合い、死について丁寧に説明し、医療が出来ることの理解を求める医療従事者がどれくらいいるでしょうか?


ACP(アドバンス・ケア・プランニング)


ACP(アドバンス・ケア・プランニング)とは、まだ元気な時から自分の将来受けたい医療やケアについて、本人の意思を事前に決めておくための取り組みです。別名「人生会議」とも言われています。

  • どのような医療やケアを受けたいか?

  • どのような状況になったら、治療を中止したいか?

  • 延命治療を希望するのか?

  • 緩和ケアを希望するのか?

  • 家族や友人にどのようなことをしてほしいか?

こういった話を、まだ話が出来るうちからご家族や友人、主治医や関わる人と話していくことが必要です。


今の日本の医療は「最後まで命をあきらめない」医療です。ですが、意識もなく、呼吸も自分で出来なくなった状態で、点滴と人工呼吸器に繋がれてどれくらい生きたいでしょうか?

病院勤務時代、難病によってそういった状態になった担当患者が、病棟のベッドで3カ月以上点滴と人工呼吸器に繋がれていました。後頭部には褥瘡(床ずれ)ができ、穴が開いた状態でした。目を開けることもなく、声掛けに反応もなく、カラダは固くなっていきました。


私はまだ経験の浅い理学療法士でしたので、少しでも関節が固くならないようにしよう、痰が詰まらないようにポジショニングを徹底しよう、少しでもこの人が楽になるように…

一生懸命やりました。そして、そのサービスによって病院は診療報酬を得、私の給料もそこから出ました。

何でしょうね…この気持ち…

医療従事者としてやりたかったことは、本当にこれだったのかと毎日が葛藤でした。

もしこの人が、まだ喋れるうちに、自分の意思を伝えることが出来るうちに治療の選択をすることができていたら、多分その3カ月はなかったんじゃないかと思います。


今後の高齢社会において、自分の人生の選択を自分自身で行うためには、知識が必要です。医療従事者におんぶに抱っこで何も決めていなかったら、もしかしたら私の担当の方のような治療を受ける可能性だってあるんです。これを治療というんでしょうか…?

死にゆくカラダに起こることを私たちは、ちゃんと知らないといけないのではないでしょうか?


理学療法士 ふくちゃん

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