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反証可能性は万能ではない≠反証可能性は大事ではない

某所で、「反証可能性で科学とそれ以外を線引きできるわけではない」というような発言をしたら、「それってあなたの感想ですよね。そんなんだから文系はバカにされるんです。勉強してください(要約)」というようなことを言われてしまいました。最近twitterでもそんな感じの議論を見たので、そういう考えの人は結構いるのかなあと思ったりしました。
また似たような話に巻き込まれた時のために自分の考えを整理するために、ちょっとそれに関連する話があるので雑多なメモ書きを。

疑似科学と科学の間の境界設定をどのようのすることができるかというのは科学哲学上の大きな課題のひとつと認識されていて、反証可能性の概念を提唱したポパーは「反証できない(反証可能性のない)理論は科学ではない」とすることでこの線引きをしようとした(雑なまとめ)、というのは周知の事実かと思います。これに対して反論を行った、あるいは改善を試みた代表的な人として、クワイン、ラカトシュ、クーン、ファイアアーベント、ラウダンなどが挙げられます。おおむね、実際の科学的手続きを見るとアドホックな仮説修正によって反証を逃れる手続きってわりとあるよねー(雑なまとめ)という内容をいろんな観点から議論しているもので、決定不全性を指摘したデュエム-クワイン・テーゼなどはその批判側の代表格の一つでしょう。またさらにポパーの再反論をみたりしていると、どこまでを反証可能性の性質に含めるかみたいな点でかなり細かな議論があるので、この概念は上に雑にまとめたもののように単純なものではないことがわかります(ので、何かの主張に使う時はご自身でよく調べてください)。

このあたりに関して、きちんと追おうとすれば上述の人たちの著作にあたっていくのがいいのでしょうが、線引き問題を扱った科学哲学の入門書としては伊勢田(2003)『疑似科学と科学の哲学』がわかりやすく、このラインの議論もまとまっているので、初めて触れる方はここから入るのが良いと思います。

この辺りの議論を追うと、控えめにいっても反証可能性は線引き問題の基準として万能なものだとは見られていない、といっていいと思います。

じゃあ科学と疑似科学にどうやって線を引けばいいのさ、という科学哲学の問いは私の専門ではありません。ただ科学的実践(を志向する分野)の研究者として、自分の興味のある領域の一部では研究実践上の支障が出ているのではないかというほど決定不全性をバリバリに食らっているところがあるように思っていて、それについて論文で考察をしたこともあります。

一方で、(この記事で告知をしてこの春に出版される予定だったけど諸々の事情があって遅れている)私が編纂に関わった本の中では、翻って「もう少し仮説(や仮説的概念)の反証可能性を考えようよ」というようなことも書いています。

極端な例を出すと、「女子力が高いとモテる」みたいな仮説を作ってしまうと、「女子力」という能力的なモノも、「モテる」という状態も、人によって捉え方が異なってしまい、尺度によって支持されたりされなかったりするということが起きたりします。また、「女子力」というものを形成すると考えられる行動は、全く別の何か(つまり「女子力」という目に見えない能力的な何かではなく)によって引き起こされているかもしれませんし、さまざまな複合的なプロセスの複雑な相互作用の結果引き起こされているかもしれません。なんか直感的に了解が得られそうなこういった素朴な概念が、そのような複雑なメカニズムを覆い隠してしまうということを危惧しています。「女子力」はある種すぐに素朴すぎる概念と直感できる極端なものとして例に挙げましたが、以下の鈴木(2022)などは、「論理的思考力」のようなより尤もらしそうな概念もこの類の概念であることを指摘しています。

またこの類の「仮説」は実際に観察された事実の言い換えなので、これをもって(科学的実在論的な意味で)何かを「説明している」とは言えません。「ある行動をとる人はモテる」というようにある特定の傾向に名前をつけて(「女子力仮説」とか)、その行動をとる人がなぜモテるか?と聞かれて「女子力があるからだ」みたいなことを言うのは同語反復です。

※とはいえ、「我々が直感的に感じる<モテ>が<女子力>と直感される行動によってどの程度引き起こされているか知りたいんだ!」という社会的要請もありそうで(?)、そういうのを研究したい場合には、その直感が何によって引き起こされているかというメカニズム的なものはそれほど問題ないとも言えるかもしれないので、この辺の議論の重要性も分野によるでしょう。とりあえずその調査する是非は今回の話の射程ではありません。

で、上述した私が編纂に関わっている本の一部のセクションでは、こういう素朴で曖昧な概念に基づく仮説生成をどのように抑制して、第二言語のシステムやその習得・使用メカニズムに対する説明的理論をどう構築していけば良いかということについて提案を行なっています。そのひとつは、実在論的な立場から仮説的概念に対して存在論的コミットメントを行う(そのための基準について考える)というものです。その際に、いかに可謬性の高い明示的な概念を作って反証可能性を高めるかという議論も行っています。

※同様の解決策は自然主義的な立場をとることでも解決可能だと思いますが、私がそこに至るまでの議論で援用する立場が実在論的なものなので、整合性を重視してそういう立場をとっているみたいなところはあります。ちなみに自然主義は必ずしもリアリストオントロジーを前提にしていません(「方法論的」自然主義という言葉があるように)。「じゃーお前は形而上学的な意味で仮説的概念が存在するかどうか的な議論できるのかよ」と言われるとそんなことする気はあんまないというのが本音のところで、あくまで研究実践者の立場から科学的探究の生産性を考えるとこういう研究方略がいいのではないかと考えているというあたり、根は方法論的自然主義に近いのだと思います。

何が言いたいかと言うと、「反証可能性は科学・非科学の線引き問題の基準として万能ではない」という主張は、必ずしも「反証可能性を考えることは大事ではない」という結論に結びつかないだろうということです。とりあえず自分はそう考えています。


で、その本はいつ出るの?!というお話ですが、もう初稿の推敲も終わって、いま表紙のデザインに入ったところみたいです。また出たらここで紹介させていただこうかと思います。

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