見出し画像

ちょいと恋愛観について

皆さんこんにちは。
すっかり暑くなってきて、半袖一枚じゃないとやってられない季節になりました。素肌露出大嫌い人間である超インドアな私にとっては中々しんどいシーズンでございます。

こういうときはコンビニでアイスを買いたいものですが、如何せん私の下宿先から最寄りの店まで少々距離があるので行くのが中々億劫。
買って走って帰ったとしても家に着くころにはやや溶け始めてるわけですから、こりゃあ参った。

はてさて今回は少しコイバナとやらを書こうと思います。

とはいえ普段の私を知っている方であれば「何がコイバナやねんお前に恋愛が語れるんかいな」と思うことでしょう。

もちろんその通り!
彼女いない歴=年齢であり、世間の4割を占めるらしいデート経験のない20代男性に属し、恋愛どころかそもそも異性とはおおよそ無縁な人生。
飛び跳ねたって逆立ちしたって恋愛経験が出てくるはずもなく、そしてきっとこれからも得ることはない。

そんな非モテ代表たる私ですが、ここでは己を少し棚に上げて恋愛についてあれやこれやありふれたことを語ろうと思います。
当然ながら経験が無いので無いなりの浅い意見しか出てきません。より恋愛のことをわかってる人からすれば首を傾げたくなることばかりかもしれませんが、そこらへんは鼻で笑って流して下されれば幸いです。
あくまで「世間一般のモテないやつはこう思ってるよ!」みたいな感じで見てください。自虐でも批判でもなんでもなく。

1.私の”需要の無さ”

さて最初は自分のことについて。

先も言った通り彼女ができた経験などございません。
想いが成就したことがないしもちろん告白されたこともない。
好きになった子はいつだって倍率が高く、そんでもって即座に上位種の男子とくっつく。あるいは既に彼氏がいる。競争レースに負けっぱなしなわけで野生動物なら即座に死んでることでしょう。

放課後の教室で、帰り道で、人伝に聞いた話で、あるいは街中でカップルを見て何度心をえぐられたことか。
その人の笑顔も行動も優しさも全て独り占めできる輩がいるなんてなんともまあ残酷な話。常に自分は”選ばれない側”、売れない商品だった。

──とまあ自らの境遇を哀れむ悲劇の主人公チックな言い方になりましたが、よく考えればそりゃそうだと合点がいきます。


恋愛市場において自分が売れる要素がどこにある?

顔、体型、声は気持ち悪さの下限突破。人の目を引く特技があるわけでもなく、能力は平凡以下。極めつけは他人を慮らない言動の粗雑さ。

そりゃ彼女どころかなんなら友人の一人もできねぇわ。
卑下とかネガキャンじゃなく、自分を客観的に見たときの商品価値として自分はあまりにも求められない性能をしている。魅力の”み”も無い。
私だって自分みたいなやつに告白されても絶対YESとは言わない。
誰だって果物買うんだったらカビ生えて腐ってるやつより熟れたやつを選ぶでしょう。

だから振られた時──直接にしろ間接にしろ──にも大してショックは受けなかった。いや正確には受けたけど割とすぐ納得できた。
あぁどうやら私はこの恋愛の世界にはお呼びでないようだ、と。

かくして非リアなら誰もが通る道を私も通ったというわけです。

2.恋愛願望??

そんなこんなで今の私には恋愛願望がありません。
被害者ヅラして言うなら”無くなった”と言い換えてもいい。

誰かを好きになっても好かれるはずも無いし、よしんば彼女ができたとしてもその先絶対どこかで破綻が起きる。親密な関係をキープするのだってまたエネルギーが要る。

それならば別に高望みせずぼっちでいいやと割り切っていましたが(「割り切る」というのがミソ)、ある時こんな話を聞きました。

曰く、恋愛願望あるなしではなく本当に一緒に居たい人がいるかどうかなのではと。

つまり今「彼女なんていらねーよ!俺は一人でもいいぜ!👊」と思ってる人は、恋愛願望が無いのではなく「何が何でもこの人のパートナーになりたい」と思える相手が今いないのだということ。
相手が自分と釣り合わない高嶺の花だろうと、付き合ってから色々と煩わしいことがあろうと、そういった理屈を乗り越えてもなお欲する人に出会っているのかがキモ。

これは確かにその通りだと腑に落ちました。
恋に恋する、といった慣用句がありますが今までの自分はまさにそれだったのかもしれない。「誰かを好きな自分」がいればよかった。もしかしたら天文学的確率で叶うかもしれない未定のあのドキドキ状態が好きだったのかもしれない。

あるいは自分が欲しかったのは彼女ではなく、恋人を得た人が体験する諸々の思い出だったのではと。
一緒に帰るとか、どこかに出かけるとか、そういった”イベント”に憧れていたという可能性も十分あると思います。制服でディズニーに行くことが一種のブランドみたいになってるのと同じですね。

そうやって話を聞いた私は、そうかなるほどならば自分はまだ出会ってなかっただけなのかもなぁと考え、家に帰りシャワーを浴びて布団にもぐりました。

ん?待てよ?

仮にどうしても何が何でも一緒にいたい相手を見つけたとして。
その人のために性格を改め外見にも気をつけありとあらゆる手を尽くしてアプローチしたとして。
結局最後は向こうに好かれなきゃ意味がないのである。

そんな辛い事が他にあるか?
第一志望の学校/企業に入るべく頑張って努力したのに向こうの好き嫌い次第で「ごめんアンタ無理だわ」の一言で弾かれるようなものである。
恋愛はペーパテストじゃない。そこには明確な合格ラインなんて存在しないしそもそもテストを受けさせてくれるかどうかもわからない。
その上交際はゴールではなくスタートだと来たもんだ。

”売れない商品”である自分が本当に好きになった人と一緒にいる(添い続ける)ためには、一体どれほどの努力を重ねてかつ運に恵まれなければならないのか。
その道のりの長さ、壁の高さを思うとますます諦観が芽生える。この諦観を塗りつぶすほど恋慕の情に溺れる時があるとするなら、それはもう恋は盲目を通り越して脳死の植物人間待ったなしだろう。

私の努力できない性質も相まって、多分誰かを恋愛的に好きになることはないんだろうな、あったとしてもすぐ諦めるだろうなと思いなおしたのでありました。

(※話してくれた同期の方、もし解釈が違っていればすみません)

3.お一人様ということ

1人でいることが好きだから、独りでいる。

誰だって多かれ少なかれそういうものだ。
誰かと共に時間を埋めるのはそれだけで値千金の体験だけれど、自宅で布団の上でスマホでtwitterしてる時が一番労力を使わないのだからそりゃ好きにならないわけがない。

けどここでちょっと補足したいのが、なにも皆が「好きで独りでいることを好きになったわけじゃない」ということなんです。

要は友人にしろ恋人にしろそういったものに乏しく、独りでいる時間が長かったから、必然的に好きにならざるを得なかった。一人寂しくいる自分を「だって私は独りが好きだからこれでいい」と防衛反応のように正当化せざるを得なかった。

本当はそんなこと望んじゃいないのに分相応な境遇に我慢するため望んでしまった。
そういうケースもきっとあると思います。

皆が俺を拒絶する!!とかもちろんそういう話じゃなく自業自得(己の選択とスペックの結果)だよねで落ち着くのだけれども。

食事のテーブルの向かい側。
夕暮れ、駅までの帰り道。
遊園地のアトラクションの待機列。

常にとは言わないけど。
眼前に、あるいは隣に。
手を伸ばした先に誰かがいてくれたら──

それは叶うはずのない願い。
一部の人のみに許された特権。

誰かと一緒にいるというのは、好みとかやるやらないの問題じゃなくもはや可不可(できる・できない)のレベルなんじゃないのかと思ったのでした。だからなんやねんって話ですけどね!

そんな感じで短いですが今回はこの辺で。コイバナとは関係なくなってきましたね。
最後までお読みいただきありがとうございました。
よろしければ「スキ」押していただけると幸いです。

ではまたとこかで。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?