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小説 『Murmuration』

 JR総武線の平井駅から出るその送迎バスは、むっとするような嫌な匂いに包まれていた。
 誰かがさっきまで吸っていた煙草の匂い、酒の匂い、そして男たちの身体から発せられる体臭。それらが入り混じったバスの車内に漂う空気は、お世辞にも清潔とは言い難かった。

 バスは平井駅から江戸川競艇場までを結ぶ送迎バスだった。平日の昼間から競艇場に向かおうなんていう人間は大体がロクでもない。やることがないのか、やるべきことから逃げているのか、あるいは何もやりたくないのか。
 生を謳歌している連中とは対極にいるどうしようもない奴らばかりがこのバスに集められ、押し込められていた。
 
 無論おれも、その一人で間違いなかった。どうしようもない奴の一人だった。

 
 数か月前に、おれが会社の金を横領していたことがばれた。

 最初はちょっとした小遣い欲しさの為にほんの少し借りるだけのつもりだったが、二度三度と会社の金に手を付けてからはそれがいつの間にか癖になり、おれの罪悪感も薄れていった。同時に横領した金額の合計も膨れ上がり、一度に返せるような金額ではなくなっていた。
 大丈夫、やり方さえ間違えなければばれることはない。
 そんな風に思っていたのだが、あっさりとばれた。おれに悪事の才能は無かった。

 事態は全て明るみになった。当然のように会社は即刻クビになり、家族にも愛想を尽かされて出て行かれてしまった。全て自分の蒔いた種が原因であり、誰にも責任転嫁は出来なかった。おれは自分の愚かさと下劣さに打ちひしがれた。

 誰もいなくなった部屋に一人でいると、おれが世界で最も劣った人間のように思えてきた。こんな人間のどこに生きている価値があるのだ、と思ってロープを手に取ることも何回かあった。勿論、最後の一歩を踏み出すような度胸はおれにはないのだけれど。

 おれはどうしようもない奴らのいるところに行きたかった。ひょっとしたらこのおれよりもロクでもないかも知れない奴らのいるところに。おれよりもダメな奴らに囲まれることでほんの少し救われたかった。人を下に見ることでしか自分の尊厳を守れないような人間は最低だと思っていたのだが、今おれはそういう最低な人間になっていた。

 ふと、昔友人に連れられて行った競艇場のことを思い出した。
 友人と話していた時に何かの拍子でおれはギャンブルはそれなりに好きだが競艇はやったことがない、と言うと連れて行ってくれたのだ。
 そこはなかなかに香ばしい光景が広がっていた。
 昼から酒を呑み目を潤ませた年寄りや、ベンチで寝ながら嘔吐している中年。あちらこちらで罵声がむなしく飛び交っていた。

 そうだ、あの場所に行けばおれは少しだけ救われるかもしれない。
 そんなケチなことを考えながら、おれは平井駅から江戸川競艇場に向かうバスに乗り込んでいた。

 バスの車窓からぼんやり外を眺めていると、葉が落ちて禿げた木が寒そうにしていた。その足元には黄色く色づいたそれまでの衣が無数に落ちていた。もう年の瀬だ。どうりで寒いわけだ、と思った。

 平井駅を出発してから15分ほどでバスは江戸川競艇場へ到着した。「BOAT RACE 江戸川」と書かれた玄関は、おれが想像していたよりもずっと綺麗だったので少し拍子抜けした。

 中に入ってからおれはすぐに観戦スタンドに向かった。江戸川の堤防を利用して作られた屋外の観戦スタンドだ。

 人がパラパラと座ってはいたが、全く混雑してはいなかった。酒を呑んでいる人は多かったが、泥酔して寝ているような奴はおらず、今の競艇場は以前よりも「マトモ」になっているのかもしれないな、と思った。

 少し競艇をやってみるかと思って舟券を買いに行った。競艇は六艘のボートで走るのだが、内側に近い1枠から順に有利だということを以前聞いたことがあったので、三連単で1-2-3という舟券を100円分だけ買ってみた。
 当てずっぽうで買っているのでこんなの当たるはずがないだろと思ってその後のレースを見守っていたのだが、これがなんと当たってしまった。ただしそれは100円が590円になって返ってきただけだった。やはり内枠が有利なのは事実なようで、内枠から順に買った三連単の1-2-3は最もオッズがつきづらい舟券だった。

 まぐれとはいえ当たりに気を良くしたおれは、もう一度別のレースの舟券を買いに行くことにした。
「大丈夫、この590円は今しがた手に入れたあぶく銭だ。これが無くなっても何も損はしていない」
 そんな考えが頭をよぎった時に、そういえば会社の金に手を付けている時にもこんな考えをしていたなと思い出した。
「大丈夫、少し借りているだけだ。すぐに返す。そうすれば何も無かったことになるし、そもそもまだ誰にもばれてはいない」
 そんな風に考えていたのだが、さっきも言ったようにそんなに上手い話があるわけはなかった。おれは自分の欲望と弱い心に負けた。

「根っこのところで人間が腐ってるんだな」

 誰にも聞こえないような小さな声でおれは呟いた。

 そうは言ってもおれにはここからの未来に対する明るい展望なんてものは何もない。まずはこの590円を使い切ってからこのあとのことを考えようと思って舟券売り場に近づいて行った。

「ブレッ!!!!」

 そう叫ぶ誰かの声が聞こえた。ほとんど怒鳴り声に近かった。

「ブレッ!!!!」

 再びその声が聞こえた。おれはその声が聞こえた方を振り返ってみて注意深く声の主を探した。

 それは予想屋のオヤジの声だった。

 競艇場には予想屋という人間がいる。直径1メートルぐらいの円形スペースに高台を作ってそこに立って、開催前のレースの予想をしているのだ。客はその予想屋に100円を払うとそのレースの買い目を書いた紙を予想屋が渡してくれる。もちろん必ずそれが当たるわけではないが、おれのような素人には良い参考基準になる。
 おれは予想屋の方へ近づいて行った。

 予想屋のオヤジはまだ「ブレッ!!!!」と叫んでいたが、近づいていくにしたがってそれは「勝負レース!!!!」と叫んでいることがわかった。あまりに力んで早口で叫んでいるので「(しょう)ブレ(ース)!!!!」と聞こえていたのだ。

 こういう時の「勝負レース」という言葉ほどあてにならないものはないと思った。四六時中いつでも閉店セールをしている店のようなもので、多分このオヤジはいつでも勝負レースと言っているに違いないと思ったのだが、オヤジの勢いに興味を惹かれてしまった。

 オヤジは客に大声で話しかけていた。

「お兄さん!今日何しにきたのよ!金稼ぎにきたんでしょうが!金持って帰ろうよ!金持って帰んなきゃウソだよ!」

「おれみたいなオケラによく言うぜ」とついつい苦笑してしまったが、周囲の客たちも苦笑していた。そうか、これはこういうエンターテイメントだと思って見れば良いのかと思った。
 
「さあさあ、勝負レースだよ!しょーーーうぶれーーーーーす!!!!」

 こんどはオヤジははっきりと「勝負レース」と言った。

 さっきの的中した590円に10円を足して600円にしよう。そしてオヤジに100円を払って予想の紙を買って、残りの500円で舟券を買おう。おれはそう思った。100円玉を握りしめておれはオヤジに近づいていった。

「ください」と言ってオヤジに100円を差し出す。
 オヤジはおれの目を見ずに100円を受け取りおれの手に予想の紙を渡した。まるでおれなど見えていないみたいだったが、おそらくそれがここでの作法なのだ。おれの後にオヤジから予想を買った客ともオヤジは目を合わせずに金だけを受け取り紙を渡した。

 オヤジの周りに出来ていた人だかりを離れてから予想の紙を見てみた。

 4つ折りにされた5cm四方の紙には赤いペンで
「3=6→1,2,4」と書かれていた。
 これはおそらく三連単で
 ・3-6-1
 ・3-6-2
 ・3-6-4
 ・6-3-1
 ・6-3-2
 ・6-3-4
 と買え、ということなのだと理解した。
 内枠が圧倒的に有利な競艇において「3-6」を軸に据えるのはなかなかに冒険だなと思った。
 こんなの当たるのかよ、とも思ったが、次のレースの掲示板を見ておれはこの予想に乗ってみようと思った。3号艇と6号艇は赤と緑の組み合わせだったからだ。

 競艇では舟ごとに色分けされており、1号艇=白、2号艇=黒、3号艇=赤、4号艇=青、5号艇=黄、6号艇=緑となっている。3号艇と6号艇の組み合わせは赤と緑だった。

 そうか、今日はクリスマスじゃないか。

 12月25日だったのだ。
 クリスマスに赤と緑の組み合わせなんて舟券の予想を買うなんてこともそうそうない。これは一つ、このクリスマスカラーの予想に乗ってみようと思った。

 ということならば三連単ではなく二連単で純粋に3号艇と6号艇の組み合わせにしようと思った。オッズを見てみると3-6は138.3倍、6-3は242倍だった。やはりどちらも万舟券だった。ますます「こんなものが当たるわけはねえな」と思ったが、どうせならと思って6-3の舟券に500円をまるまる突っ込んでみることにした。

 どうせ捨てるはずの金だ。どうせ捨てるはずの命だ。自虐的にそんなことをつぶやきながらもおれは少しわくわくしていた。

 券売機に金を入れて舟券を購入した。実際に手にしたその舟券を見ると、何だか本当に当たるんじゃないかという気すらしてきた。そんなことはあるわけねえよと言うおれと、まだだ、まだわからんよと言うおれが胸の中に共に居た。

 レースが始まった。
 最初のコース取りで赤いゼッケンの3号艇は内側から2つ目の位置に、緑のゼッケンの6号艇は4つ目の位置に着けた。なるべく内側が有利なのだろうからこれは悪くないコース取りなのだろうとおれは思った。

 しばらくの静寂の後、各艇が一気に加速した。競艇で最も重要と言われるスタートの瞬間だ。どの舟もフライングも出遅れもなかった。

 そこからの第一コーナーを回った所の順位が最終順位と同じとなることが大半だ。おれは手に汗を握った。

 各艇がターンを決めながら第一コーナーを回った。その時点での順位は前から赤、白、緑だった。

 3-1-6だ。

 最終的に6-3の順でフィニッシュしなくてはおれの勝ちはないのだが、悪くない態勢だった。ここからまだ何があるかわからない。おれはそのままレースの行方を見守った。

 おれの期待とは裏腹に、その後のコーナーで1号艇が3号艇の前に出た。態勢は1-3-6となった。
 これは挽回不可能かと思いながら握った拳を緩めた。

 次のコーナーに差し掛かったところで、突風が吹いた。

 手に持った舟券が飛びそうな突風だったので、おれは強く舟券を握り直したが、握り直した手の中で舟券が少し折れてしまったので上着のポケットの中にしまい込んだ。

 その瞬間、風に煽られた1号艇がコーナーで少し外に膨らんだ。

 膨らんで出来た隙間から3号艇が1号艇を抜き去ろうとしたが、態勢を持ち直しかけた1号艇がちょうど3号艇の進路を防ぐ形になり、抜き去るまでにはいたらなかった。
 しかし、その二艇のもつれた隙間から漁夫の利と言わんばかりに6号艇が一気に抜き去った。

 近くにいた知らない男が「これだから江戸川はよう!」と叫んだ。

 そうか、川辺ではこれがあるのだ。

 昔おれを初めて競艇に連れて行ってくれた友人が「江戸川や平和島の競艇は難しいんだ、風や波がすごいからさ。その分レースが荒れやすい」と教えてくれたのを思い出した。

 レースの途中順位は6-1-3となった。6号艇は幾らかのリードを保っていたが、二着の1号艇と三着の3号艇にはほとんど差はなかった。完全に並走していると言って良かった。おれの万舟券が、俄然現実味を帯びてきた。

 そこから6号艇は若干リードを広げほぼ一着を決めたような恰好になったが、依然として二着はわからなかった。1号艇と3号艇はどちらも譲らずに激しいデッドヒートを繰り広げていた。

 最終コーナーをターンして、6号艇が一番にゴールをくぐったが、その後に続く二着には1号艇と3号艇がほぼ同時に飛び込んだ。少なくともおれの目には同時に見えた。

 二着は写真判定に委ねられた。

 どっちだ?と思いながら心臓が高鳴るのがわかった。

 そしてその心臓の音を聞きながらおれは「もしもこれで3号艇が勝ったら、おれはその金をきっかけにして全てをやり直そう」と思った。まずは身なりを整えて、それから仕事を探して。

 もう人を裏切ったり欺くようなことをするのはやめよう。もっと誠実に生きよう。地道に、そして真っ当に。そうすることでほんの少しでも自分を好きになろう。

 そんなことを考えていたら、電光掲示板に着順が発表された。

 二着は、3号艇だった。




 不思議なことに的中した嬉しさよりも非現実的な感覚が強かった。身体から力が抜けていった。おれはその場に座り込んでしまった。

 クリスマスの6-3の奇跡。そんなことが本当にあるんだろうか。嘘みたいな話だ。誰かに言ってもきっと信用してもらえないだろう。だが、それは本当にあったのだ。

 おれはここからやり直せるのか。いや、やり直せるかではないのだ、やり直すのだ。これまでにおれの愚かさゆえに傷付けた人々への償いがそれで済むとは到底思えないが、それでも再起の一歩を踏み出さなくてはならない。おれは再び歩き始めるのだ。

 頭上を見上げると、空でムクドリたちが密集して飛行していた。

 それは砂嵐のようにも見えた。密集しては離れ、また密集し。数秒ごとにその形を変えながら、その群れはおれの頭上で何度も旋回を繰り返した。鳥たちの激しい鳴き声が聞こえた。
 おれはぼんやりとその様子を眺めていた。

「マーマレーションか」

 知らぬ間におれの横に腰掛けた男がそう言った。よく見るとさっき「これだから江戸川は!」と叫んでいた男だった。

「マーマレーション?」とおれは尋ねた。

「ああ、こうやってムクドリたちが密集して飛ぶことをマーマレーションって言うんだ」

 へえ、とおれは相槌を打った。

「面白い言葉だ。よくご存知ですね」

「おれも最近知ったんだ。ネットで知った。動物やら鳥やらが好きでな、よくその手のサイトを見るんだ」

 見るからに競艇場にいそうな風体の男が言ったその言葉に若干の違和感があったが、きっと男の言葉に嘘はないのだろう。本当に動物や鳥が好きなのだ、多分。

「ムクドリたちは何のためにこういう行為をするんですかね」とおれは尋ねた。

「それがよ、よくわかってねえらしいんだ」男はそう言って首を傾げた。

「明確な目的はわかってねえんだが、どうやら一説によると一緒に寝るためらしい」

「一緒に寝るため」おれは男の言葉を繰り返した。

「ああ、寒くなってきたこの季節、奴らは身体を寄せ合って寝るんだ。お互いがお互いの体温を借りながら寒さを凌ぐ。そうしないと凍え死んじまうんだ」

「散り散りになっていた一羽同士がこうやって密集して、同じ寝床に帰っていくってわけですか」

「うん、そうなんじゃねえかって言われてるらしい。実際のところはどうなんだかわかんねえけどよ」

「寒い者同士が温めあう、か」

「ああ、おれたちみてえなもんかな。クズみてえな人間がこの競艇場に集まって肩寄せ合って」

「クズのマーマレーションか」

「そうだな、クズのマーマレーションだ」

 そう言っておれと男は微かに笑い合った。

「お前さんも何だか訳ありそうだな」男がそう言った。

 おれは「そうですね」とだけ答えた。

「大丈夫だ、ここにいる人間はみんな脛に傷の一つや二つは持ってるさ。お前さんだけじゃねえよ」男はそう言っておれの肩をぽんぽんと叩いた。

「深くは聞かねえ。ただな、大丈夫なんだよ。人間ってのは倒れても立ち上がれるんだ。お前さんだってきっと立ち上がれるさ」おれにそう言う男の息は僅かに酒臭かった。

「だと良いんですがね」

 男は立ち上がった。

「邪魔したな。このあとのレースも頑張ってくれよ」男はそう言っておれに手を振った。

「ありがとう。今日はもう帰ります」おれはそう答えた。男はまた券売機のある方向へ消えていった。

 そうだな、倒れても立ち上がれる、か。

 多くの人を裏切った。多くの人を傷付けた。
 そんなおれに生きている価値などないと思ったが、おれはもう一度立ち上がって今度こそ誰かのために生きても良いんじゃないか。おれはやり直せるんじゃないか。

 いや、やり直すんだ。

 そう思っておれは立ち上がった。

 まずはさっきのクリスマスの奇跡の舟券を換金して、帰りに床屋に寄ろう。伸び切った無精髭もそこで綺麗にしてもらおう。

 上着のポケットにしまった舟券を探した。



 無い。

 舟券が、無い。



 そんなはずはない、確かにここに入れたはずだ。おれは焦って上着のポケットだけでなくズボンのポケットや財布の中も探ったが、舟券は無かった。どこかへ消えてしまった。

 はっと息を飲んだ。

 さっきの男か。

 さっき肩を叩かれた時にポケットからスられたのではないだろうか。

 しかしその仮説が当たっていたとして、なぜおれがその舟券を持っているとわかったのだ?無作為に誰かのポケットから舟券をスったところでそれが当たり舟券である確率は低い。おれの持っていた舟券が当たり舟券でなおかつ12万円を超える万舟券だったことをあの男はなぜ知っていたのだ?

 そうか、予想屋だ。おそらくあの男も予想屋から予想の紙を買った。しかしそんな大穴が来るわけは無いだろうと決め込んで自分では舟券を買わない代わりに、あの予想屋から予想の紙を買った後に券売機に向かった人間(それは他でもないこのおれだ)の後をつけて舟券をスるタイミングを窺っていた。そう考えると辻褄が合う。あくまでもおれの想像でしかないのだが。

 とすれば、1号艇が突風で外に膨らんだ時にあの男が発した「これだから江戸川はよう!」という言葉は、おれの反応を見るための言葉だった可能性がある。その言葉を聞いておれが身体に力を入れているようならば、おれが今回の当たり舟券を持っているという確率が更に高くなる。おれはレースに夢中であの男のことなどちっとも見ていなかった。

 全ては推測の域を出なかったが、おれはさっきの男を探しに急いで走り出した。
 男が消えた券売機の方角、二階の喫茶店、一階のレストラン。
 あちこちを探し回ったが男はいなかった。

 さっきの予想屋に聞けば何か知っているかも知れない、いや、あるいはあの男と予想屋はグルだったのかも知れない。そう思って予想屋がいた場所に行ったが、予想屋も既にいなかった。

 おれは何かの幻を見てたのか?あの予想屋やマーマレーションをおれに教えてくれた男は本当に存在したのか?自分の記憶にすら自信が持てなくなってきた。

 頭の中で様々な疑念が蠢いていたことにおれは鬱陶しさを感じ始めた。

 人を裏切り人を傷付けてきたおれが、どんな了見で人を疑っているのだと自分で自分に呆れ始めてきた。彼らが犯人でない可能性だって十分にありうるのだ。

 おれは観念した。
 彼らは実在した。予想屋もマーマレーションの男も確かに存在した。レースは実際に行われ、突風が吹いた影響もあってレースは6-3-1で決着した。頭上では確かにマーマレーションが起きていた。なぜかはわからないがおれの手元から当たり舟券は消えた。そしておれはやり直すのだと決めた。

 それらは全て事実なのだ。

 マーマレーションの男の声がおれの頭の中でもう一度響いた。

 人間ってのは倒れても立ち上がれるんだ。

 大丈夫だ、おれは立ち上がれる。




 おれは競艇場をあとにした。

 もう一度空を見上げると、ムクドリたちはまだマーマレーションを形成していた。

 密集しては離れ、また密集しては離れ。

 あいつらは今から寝床に戻って肩を寄せ合って眠りにつくのだ。寒さに耐えながらこの冬を越すのだ。

「勝負レース!」
 
 はっきりとそう口にして、平井駅までの道のりを、おれは再び歩き始めた。

 どこからか明るいクリスマスソングが聞こえてきた。

 (了)


この小説はピアニスト福島剛が2023年12月にリリースした楽曲『Murmuration』から着想を得て、本人により書かれた小説です。
楽曲はこちらよりお聴き頂けます。
https://linkco.re/AZtfY7eM










 

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