エイプリルフール

気が狂いそうだった。

闇夜の中で、桜の白が凶暴なまでに自己の存在を主張していた。

月明かりが川面を照らす。

闇と光。黒と白。

そのコントラストの中で、あたしは気が狂いそうなほどの恍惚を覚えていた。

美しさは、儚さと近似値なのだろうか。あたしはふと、そんな事を想った。終りがあるから美しくて、悲しい。悲しいからこそ嬉しくて、切ない。誰もが死の影に怯えながら、けれどその恐怖によって安堵させられながら生きているのではないだろうか、と。生の喜び、なんて言うとすごく陳腐に堕すけれど、生は、死によって保証されている。そんな気がした。

お前がふいに口を開いた。その時、あたしは信じられないような言葉を聞いた。

有り体に言ってしまえば、随分と前から、あたしはお前を欲していた。お前があたしを欲していたのかどうか、そういった意思の疎通みたいな部分を抜きにして、兎にも角にもあたしはお前を欲していた。遮二無二欲していたと言ってもいい。けれど、自尊心や虚栄心、体裁や種々の都合があって、あたしはそれを噯(おくび)にも出さずにいた。出せば、全てが壊れてしまう、そんな気がしていたのだ。

あたしは前に酔っ払ったお前に言われた事があった。「人間と人間は分かり合う事なんて出来ない。ただ赦し合うだけじゃないか」なんて。馬鹿じゃないか、とお前の事を思った。お前に少し落胆して、お前に少しうんざりした。あたしが聞きたい言葉はそんな言葉じゃなかったから。お前は馬鹿なんだと、あたしは決めつけて、それでもお前を欲していた。何の自己憐憫をも伴わず、ただひたすらに欲求として。

だから、お前の口から「結婚しないか」なんて言葉が出て来た時には、あたしはどう振る舞っていいのかわからなかった。

嬉しかった?そうだ、確かに嬉しかった。あたしは間違いなくお前を欲していたのだから。けれどそれ以上に、あたしは事態をうまく呑み込めない不便さに困惑していた。あたしがあたしでなくなりそうだった。踏みしめている筈の地面が、あたしの頭の中でゼリーのようにぐにゃりと歪み、あたしは危うく転びそうになった。

時間にして数秒、そうだ、5秒が良い所だろう。その数秒の間に、あたしはお前のその言葉を十遍ほど反芻してみた。激しく転調を繰り返すジョン・コルトレーンの楽曲みたいに、言葉は幾つもの様相を呈しながらあたしの頭の中で木霊した。

「結婚しないか」

「ケッコンしないか」

「kekkon市内か」

挙句の果てには、「決闘しないか」と聞こえてきそうな程の有様だった。決闘も悪くない。あたしはいささかお喋りになっている自分の意識に、少し辟易とした。

いけない。そろそろ反撃の狼煙を上げなくては。

あたしは意を決した。

「本気で言ってる?」あたしはお前にそう尋ねた。

お前はわざとらしく返事をしない。鬱陶しい人間だ、とあたしは心のどこかで思う。思わせぶりな素振りをしている自分が好きなんだろう。惨めで、愚かだ。しかし、どうしようもない一つの事実として、あたしはお前を欲しているのだ。砂漠で行き倒れた人間が一口の水を欲するように、切実に、そして実直に。

「いいよ。死ぬまでに一回ぐらい、してみたいもの」あたしはお前に向かってそう言った。

お前は猶も言葉を発しない。あたしがさっきそうしていたように、あたしの言葉を再び反芻しているのだろうか。そして咀嚼した上で、プロポーズが成功した喜びを噛み締めているんだろうか、あたしはそう考えた。間が持たなくて、咽喉が乾いた。ビールを呑みたかった。煙草も吸いたかった。けれどどちらも手許にはなかった。あたしはお前を見つめ続けた。

その刹那、お前の口許が汚らしく歪んだ。人間とは、こんなにも汚い表情を浮かべられる生き物なのかと、あたしに戦慄が走った。そして、たまらなく嫌な予感がした。背筋がうっすらと汗ばむのがわかった。

「今日、何月何日だっけ?」お前は確かにそう言った。

躊躇した。けれど、躊躇した自分を悟られるのが厭で、あたしは平静を装って、そして言った。

「3月…31…、いや、違うか。日付が変わったから、4月1日か」あたしは左手首に嵌めた安物の時計を一瞥してそう言った。時計の針は、深夜2時を少し過ぎた辺りを指していた。お前と夜桜を見るために散歩に出たのが夜の11時過ぎ。もう3時間近く、ふらふらと川岸を二人で歩いていたのか。

4月1日?

あたしは違和感を覚えた。胃の付け根の辺りが、締め付けられているように痛んだ。

お前は、その醜く歪んだ口許を更に歪ませて、あたしに言った。

「嘘だよ、嘘。本気にするなよ。エイプリルフールだよ」と。

エイプリルフール。

四月の、馬鹿か。

馬鹿、莫迦、ばか。五月蠅い。お前に馬鹿扱いされる覚えはない。あたしははっきりと怒りを覚えていた。

お前は相変わらず醜い笑みを浮かべたままだ。

あたしはお前から視線を外してみた。また、桜が見えた。それは錯覚かもしれないが、先ほどよりも色鮮やかに咲き誇っているように見えた。今度こそ本当に、目が眩んだ。

何か、バールのようなものが欲しかった。所謂、鈍器というものが。そいつで、お前の後頭部をしたたか叩いてやりたかった。桜の白が、お前の血で赤く染まる。お前の脳漿が、そこかしこに飛び散る。その光景を想像すると、あたしは不思議と心が躍った。

結婚か、とあたしは思った。

誰かが捨てたものなのか、傍らに、角材が見えた。

千載一遇。

「良いよ、あたしだって、それぐらいの冗談、わかるんだから」そう言ってあたしは苦笑いを浮かべた。

「ごめんごめん」と言って、お前は、あたしに背を向ける。

あたしは、角材を、しっかりと握った。

お前の、背後で。


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