#41 意識の外側に宿る"リアル"
〜音声版はこちら〜
大熊 こんばんは。フクロウラジオ第41回目。
今日は、前回の『偶然と想像』の収録で生煮えで終わってしまった議論を、少しだけ掘り下げながら話をしていこうと思っています。話していくのは、大熊弘樹と、そして米地彩さん。
今回は、この二人で話をしていこうと思います。お願いします。
米地 お願いします。
大熊 まだ前回の内容も整理ができてないままなんだけど、
前回、塚越さんと僕らの間で、『ドライブマイカー』についての評価だったり『偶然と想像』についての評価が別れたところがあって、その分かれ目というのが意外と重要な部分なのかなと思ったので、そうした話を中心に展開していこうと思います。
最近『スバル』という雑誌で、美学者の伊藤亜沙さんがエッセイを書かれていて、その抜粋がツイッターで紹介されていました。そこには感動するっていう経験の、質の違いについて書かれていたのですが。伊藤亜沙さんが言っていることを正確に拾えているかは分からないんですけど、そこでは「感度するという経験」、とりわけ「感動して泣くという経験」について…
米地 感動して泣く、
大熊 そう。感動して泣く。感動して泣くことってありますか?
米地 いや、あるんですけど。感動して泣いたとか、ちょっと言えないですね。なんか怖すぎて。言語化ができないんですけど、「感動ありがとう。」「感動の涙」みたいな、なんかそういう言い回しがちょっと苦手で、恐ろしい。
大熊 確かに。あまりにも手垢にまみれたキャッチコピーみたいな感じでね。(笑)
米地 (笑)。でも言葉にならないと涙が出てくるっていうのはめちゃくちゃあるので。まあそれを感動していると言っていいのかな。
よく泣きますね。
大熊 そうなんだ。
米地 よく泣きます。でもそれはなにか脳みそパニックみたいな感じで泣いてるので。何て言うんですかね。こういうのが女性が嫌だとか言われるやつなんですかね。
すぐ泣くみたいな。そんなつもりじゃないんですけどね。
大熊 いや、それは分からないけれども。(笑)
米地 (笑) 。喧嘩とかじゃなくて、やっぱり言葉にならないと涙が出るので。それを感動して泣くと言えるのかも。少し違うんですけどね。
大熊 なるほど。でも、まさに伊藤亜紗さんはそうしたニュアンスをズバリ言い当てているような感じもあった。
ちょっと抽象的な言いましてはあるんだけど紹介しますね。
感動して泣いたりとか、まあ単純に感動するっていう経験について、立派な主体が作品を解釈して味わうことで感情が込み上げてくるタイプの感動が一方であり、またそれとは別に、自分の輪郭からこぼれ落ちる感覚や、こぼれ出てくる弱さみたいなものを容認するというタイプのものがある。その後者こそが、いわゆる感動して泣いたりすることの内実ではないのかという話だったはずです。
それ自体はかなり詩的な言い回しではあるんだけど、これが結構ツイッター上で、まあバズるまではいってないけど、その切り抜きが自分のタイムラインにも回ってきて、納得する感覚があったんですよね。前回の収録で話していた話を思い出しながら、感動するっていうことの内実が、例えば塚越さんと米地さんとは違うのかなっていう風に思ったりした。
共感できるから感動するというタイプと、今言ったみたいに共感できないもの、解釈不能なものに感動するっていう経験も同じようにあると思うので。
まあ、これも截然と分けられるようなものではなくて、ケースバイケースでどちらにも感情の針が振れるというようなことだとは思うのだけど。
ただ、米地さんはこの伊藤亜紗さんが話していることの意味はわかるのかなと感じたので、紹介させてもらいました。
米地 なるほど。そうですね。意味はすごくよくわかります。
共感っていうのも結構危険ワードだと思ってて。共感するっていうのは心地いいですけど、勝手にこっちが共感したつもりになってたら良くないと思いますし。やっぱり「感動をありがとう」みたいなやつも結局勝手に自己投影して気持ちよくなってるだけって場合が多いと思うので。それって危険だよねって思ったりもするんですね。なので、共感からくる感動はあんまり信用してない。
そのtwitterでのバズり方っていうのはどういうものなんですか。
大熊 いやバズるという程ではないと思います。見たところだと1000いいねぐらいだったから。爆発的に広がっているわけではない。
でもやっぱ分かる人には分かる感覚なのかなと。
というより誰にでもある感覚だとは思うんだけど。自分の理解不能なものに出会った時に心が震えるっていうのは、一般的な感覚といえば一般的な感覚だと思うので。
ただ自分が受け止めきれないものに対して恐れを抱く場合と、肯定的な意味で心震えるっていう場合と、受け取り方の違いはあるんだろうなって。
米地 刺激の強さみたいなことなんですかね。それをやりすぎるとつらい人と、まあ、それがほしい人と。私の場合、やっぱその刺激が欲しいので、そうしたものをコンテンツを見る時に探す。少しずれたとこにある新しい価値観とか、ちょっとした違和感だけど、それでもなおスッとキャッチできるようなもの。なんかそういうものが欲しいなと思って。
大熊 米地さんは、能とか歌舞伎とかが好きって前回の収録のとき話してたよね。
米地 そうですね。能はちょっとまだ新参者なので、歌舞伎はもうちょっと前から好きで、よく観に行っています。
様式美みたいなものが結構好きなんですね。
映画とかもネタバレして見る方が好きなんですよ。どうやってそこにたどり着くかとか、その過程の描かれ方が好き。なので全然ネタバレOKだし、ストーリーを求めてないんですよね。もちろんストーリーも大事だと思うんですけれども。どちらかというとストーリーは後付けというか、まあ文体とストーリー、表現と物語ってセットだと思っているので。
単純に面白い物語だけが欲しいわけじゃないから全然ネタバレは気にしてなくて。
だからこそ歌舞伎を楽しむっていうことに向いていて。同じシナリオをずっと演じ継がれていく中で、役者さんによって全然違った表現が生まれる。
新しい歌舞伎あるじゃないですか。
大熊 え、わからないです。全然。
米地 あのワンピースとコラボしましたみたいな。
大熊 あー。あるね。
米地 そういう新しい歌舞伎というよりは、本当に古典の方が好きで。
能の好きはまたちょっと違っていて、能はどちらかというと装置としてすごく興味を持っています。話のテーマ的に異世界と現世界をつなぐものがすごく多いと思うんですね。
異世界と現世界の境界。なんかそこに居る状態がすごくいいんですよね。
大熊 なるほど。能のもともとの大きな命題ですよね。金春禅竹の提示した。
金春禅竹っていうのは世阿弥の弟子ですね。娘婿なのかな。
その人が芸術としての能を体系化していて、『明宿集』という一冊の本を作っている。
その中でもこの世とあの世っていうものの境界を浮かび上がらせることが能の原点であり、それはもともと『翁の舞』にすべて集約されているんだっていう話をしています。まあ、それはただの蘊蓄だけど。
能もそうだし、歌舞伎とかもそういうところがあるのかなって思うけど、まさに役者が自分の個性を殺すところから始まるという所があるじゃないですか。
米地 うん。
大熊 決められた演目で、決められた台詞で演じていくから。そのためにはいったん役者の個性を殺していく契機が挟まると思うんだけど。でも。やっぱり個性を殺すからこそ逆に個性が出てくることがありうる。個性って殺し切ろうとしても殺しきれないし、完全にコントロールして型に収めようとしても絶対に収まらないっていうか。そこからのズレが生じるはずなんですよね。
人間には必ず無駄やラグが生じてしまうから。
そういう意味では個性を殺そうとするからこそ、初めて個性が出てくるとも言える。
今思えば、濱口監督も役者の個性を殺して感情をなくさせるところがスタート地点ですよね。感情を込めないで台本読みをさせていって、本番では実際に身体に染み込んだものをその場で 放出するみたいな作業を通じて演技をさせている。
米地 うん。確かに。その身体の使いかたというか、役者の使いかたっていう意味では、歌舞伎も濱口監督の演出手法も本当に近い気がします。あくまでも媒介者としての役者っていう。
大熊 塚越さんは『偶然と想像』に関しては監督の価値観がよく伝わってくるっていうふうに言っていたけど、短編だからってこともあるけど、物語が監督のコントロール下にかなりの程度収まっていたように感じる。演出の細部にわたって濱口監督が意図するところが達成されていた。だからこそ、あの映画を観た時に監督の価値観とか、監督の意図とか、監督の思惑とか、映画をこう観せたいっていうような、そういう部分がよく伝わってきた。
でもそれに比べると『ドライブマイカー』は監督の意図だったりとか、監督の思惑に収まりきらない部分もあったんだろうなって想像できるんだよね。監督の意思とか、監督の意図とかに収まりきらない部分を、多分、米地さんの前回の言葉で言えば、"メッセージ"と言えるんだと思うし、同じようにそれを僕の言葉で言えば、"思想"っていう表現になる。
米地 うん。なんかちょっとスッキリしてきてる気がする。
大熊 なんか言わせているような感じもあるけど。(笑)
米地 (笑)。いや、なるほどと。
大熊『偶然と想像』はそういう意味では完璧っていう感じはする。なんか一本の線になっている。
オムニバス作品ではあるけれど、すべて綺麗にストリングスみたいな感じで一本の線でつながっているような感じがあって。それに比べると『ドライブマイカー』はよくよく見ていると、おかしな所がいっぱいあるし、断絶もあるし、
米地 うん。
大熊 でも何ていうのかな、断絶があるからこそ、その断絶を観客が想像力で埋める作業を通じて、言葉だけでは到達できないところに到達する。
平田オリザさんによれば、完全にコントロールしようとしてもコントロールしきれない部分、ふと生じる無駄みたいなものを「マイクロスリップ」と言うみたいで。
人間が「リアルさ」を感じる時とか、「これすごい迫真のものだな」と感じる時がどういう時なのかっていうのを認知心理を通じて研究した時に、無駄があるかどうかだって平田オリザさんは言ってるんだよね。無駄が適度に入るかどうかが「リアルであるかどうか」「本当のリアルさ」というところに通じてくるっていう。
ロボットの動作とかっていうのは無駄が全くないんだよね。例えばコップをつかむにしても、ドアを開けるにしても、その目的のためだけにざっと掴んでざっと開けてとか。
でも人間だとたぶん、同じようにコップで飲み物を飲むとか、ドアを開けようとしても、何かしらのちょっとした無駄が生じる。
そういった無駄なものが適度に入るかどうかっていうのが、基本的にはリアルな演技を作れるかどうかの一つの重要な分水嶺になるらしい。
米地 なるほど。
大熊 だから濱口監督がやろうとしている、役者が意識のコントロール下において台詞を完璧に喋れるようにした状態で、本番の演技を行うというのは、最終的には意識のコントロール下から漏れ出てくるものを期待しての演出なんだと思う。
能とか歌舞伎とかでも本当に決まりきった台本とか決まりきった型をやるんであれば、ロボットが演じてもいいと思うんだけど、でもロボットだと歌舞伎とか能が持ってる力は当たり前だけど宿らないと思うので。
それが何でかと言えば、そうした人間ならではの、完璧に型に収まろうとした時に、そこから漏れ出る無駄やズレが生じるからという。
米地 なんか変な方向に掘り下げてしまうかもしれないんですけど。
その無駄っていうのは百回やって百回とも同じになったら無駄がないっていうことなのか。
あくまでも人間はロボットの動きを踏襲することが出来ないということなのか。
その人の個性によって百回やったら百回ともその人の同じクセが出てくるはずで、それがその人の個性であるとも思うので。
大熊 なるほど。基本的には、ある人間が何かの動作を反復してやる場合は、同じ行為の型を反復したとしても必ずズレが生じるんだと思う。でもそのズレに法則性がある。そのズレに生じる法則性のことを多分個性っていうふうに言ってもいいんだと思うけどね。
米地 だとしたら、ロボットの無駄の無さって一体何によって無駄がないと判断されているんだろう。
大熊 それはどうなんだろうな。
米地 なんかそれを考えはじめて、今その迷路にはまってました。(笑)
大熊 つまりロボットの動作も一つの無駄と解釈してもいいのかもしれないっていうことだよね。
米地 そうです。
大熊 そうだね。それを言えばそれはその通りだと思う。
米地 平田オリザさんって、もう私、最初性別不詳すぎて。まあ気にしちゃいけないのかもしれないですけど。あの人の存在がめっちゃ謎だったんですよね。年齢も不詳で。なにかマスターヨーダみたいだと思ってて。超越してるんですよね。何かを。
…あれ、何の話でしたっけ。
大熊 なんだったっけね。(笑)
いや、この感じは雑談会ですね。
米地 (笑)。
大熊 すべて思いつきで話してるから、なんかまとめようとしてもまとめられないよね。
なんかさ、普段こんなこと考えてる人間じゃないから、結構大変なんだよね。話すのが。
米地 普段何考えてるんですか?
大熊 え、何も考えてない。
米地 (笑)。
大熊 普段何考えてる?
米地 仕事とか、資本主義社会的なことを。
タイムパフォーマンスコストパフォーマンス。どうやったらApple to Appleのコミュニケーションが成立するかとか。
大熊 なるほど。そうだよね。
米地 そこから逃れるために、さっきまでは『ヒカルの碁』を読んでたんですけど。
大熊 あ、いいですね。『ヒカルの碁』の話とかしたいな。ヒカルの碁めちゃくちゃいいよね。
米地 めちゃくちゃいい話。昨日妹になんか面白い漫画ないって聞かれていろいろおすすめしてて。で、これはこうだよ。あれはああだよっていう話をしながら、読みたくなってきてしまって。
大熊 これは誰かも言ってたんだけど、『ヒカルの碁』のいいところの一つとして、人間関係どんどん変わっていくよね。ヒカルが強くなっていくことによって。仲良かった友人とも、ヒカルが成長することによって関係が変わってきたり。ヒロインも最終的に不在になるっていうね。少年漫画なのにも関わらず。
あとサイのキャラクターだね。
米地 あの一個だけ『ヒカルの碁』の超どうでもいいエピソード言いたいんですけど。
私一時期カタカナにはまっていて。日本語表現がもともとすごい好きなんですけど、文章を書いたり、文章を見るのが好きで。漢字を開くとか、どれをひらがなにして、どれを漢字にするとか。
そこにカタカナのバランス感覚を私が持ち合わせるようになったのは、『ヒカルの碁』のおかげなんですね。そのサイっていう平安時代から蘇って、今を生きる少年に取り憑いた以後の亡霊みたいな、すごい人格者がいるんですけど。そのサイが現代の新しいものに触れるたびに驚くんですよね。
その時に出会ったものに対して結構カタカナで表現する。「今時の傘ってこんなワンプッシュで開くんだ」みたいなくだりとか、なんか映像の魚が本物っぽいみたいなくだりとか、新しく出会う名詞に対してカタカナで表現をしていた記憶があって。そのカタカナがすごいよかった。
カタカナは良いなってなって。そこから私はカタカナの虜になって、一時期カタカナ多めのツイートをしてたっていう。なので、カタカナとの出会いなんですね。
大熊 なるほど。でもそれは分かる気はする。より単語に寄り添うことができるよね。カタカナの方が。
意味とかに寄り添う場合はやっぱり漢字になっていた方がいいし。
ちゃんとした文章として理解しやすいのは漢字がある程度並んでて整えられた文だけどね。
でも普通漢字であるものが平仮名になってたり、カタカナになってたりすると全然印象が違って、単語に寄り添うことができたりはする。それは僕とかが宮沢賢治の詩とかを読む時の感覚に近いのかもしれない。それをね。まさか『ヒカルの碁』から(笑)。
米地 ぜひ皆さんもご体感ください(笑)。
大熊 でも好きな漫画の生涯ベスト10を上げろって言われたら多分『ヒカルの碁』入るなあ。
米地 そうですね。5〜10のラインな気がしてますけど。ベスト10の中には私も確実に入りますね。
大熊 まあ、でも僕の場合1位は何かと言われても、『ドラゴンボール』とかだから。
多分単純に少年漫画が好きなだけっていうところもあるけど。
米地 ドラゴンボールかー。
大熊 いや、まあいいや、ちょっとこの話は置いときましょう。ここで広げてもしょうがないような気もするので(笑)。
大丈夫かな。ちょっとなんか最後無茶振りからね、変な話にもなったけど。
米地 最後「ヒカルの碁』でひと盛り上がりするっていう(笑)。
大熊 実はね、この収録をする前にも、一時間以上ずっと喋ってて、一回収録もどきのようなこともしたんだけどね(笑)。
米地 それにしても落ちないっていうことで。
大熊 そう。そしてやはり今話してみたけど、やはり落ちない。
米地 (笑)。
大熊 なんかいろいろな話はできるのかなって思ってたんだけど。
米地 いや、でもあれですよ。その絶対に落としたい人もいるじゃないですか、話を。落とさないと気持ち悪い人。落とすのが気持ち悪い人なんですよ、私たちは。だから永遠に話しができるじゃないですか。ずっと広げられるので。
大熊 うん。
米地 そういう性質なんですよね。そこの許可を得るための最初の「雑談会です」宣言ということで。
大熊 あ、すみません。逆にまとめてもらって。ありがとう(笑)。
もともとね、これ自体は前回の収録の最後に付け足す形で収録しているものでもあったからね。
でも、またこんな感じでちょこちょこ雑談会みたいな回も挟んでいければいいかなと思ってます。
前回の生煮えだった議論を少しだけ補いつつ、適当な感じで話をしてみました。
今回はこんな感じで。次回何やるかっていうのは、まったく何も決まってないんですけど。また次回の配信をお待ちください。
では米地さん、長い時間お疲れ様でした。
米地 はい。楽しかったです。ありがとうございます。
大熊 ありがとうございます。フクロウラジオでした。
■参照コンテンツ
フクロウラジオ#40『偶然と想像』を語る
https://note.com/fukurouradio/n/nd6a086351b65
■出演者:
大熊弘樹(https://twitter.com/hirokiguma)
米地彩
■番組の感想は fukurouradio@gmail.com まで。
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