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#44『竜とそばかすの姫』-「風景」が語る内面-

■番組概要
今回扱う作品は細田守監督作『竜とそばかすの姫』。背景美術の特異さとキャクターの内面描写のつながりとは何か。独自の視点で深掘りします。

■語り手
大熊弘樹

■キーワード

細田守/『竜とそばかすの姫』/おジャ魔女ドレミドッカーン40話/ぼくらのウォーゲーム/背景美術/スタジオ地図/柄谷行人/『日本近代文学の起源』/国木田独歩/『この世界の片隅に』/東浩紀/解離/仮想現実/心象風景/『バケモノの子』/『ONE PIECE THE MOVIEオマツリ男爵と秘密の島』/身体知/木尾士目/『五年生』


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『竜とそばかすの姫』の持つ映像美

今回扱うコンテンツは映画『竜とそばかすの姫』についてです。

『竜とそばかすの姫』は『サマーウォーズ』『未来のミライ』などを手がけた細田守監督が、超巨大インターネット空間の仮想世界を舞台に少女の成長を描いたオリジナル長編アニメーションです。
ストーリーに関しては毀誉褒貶のある今作ですが、細田監督独自の演出は健在で、細田作品の通奏低音となっていた「背景とキャラの関係性」といった面に焦点を絞ると、むしろ到達点とも言える内容になっていたのではないでしょうか。
今回はややもすれば見逃してしまいがちな細田監督ならではの世界観作りにフォーカスして語っていきます。

          『竜とそばかすの姫』(2021/日本)

まず、この映画の中で音楽の素晴らしさと並んで傑出している点として、映像表現の緻密さが挙げられます。風景描写やUというインターネットの仮想空間の世界づくりなど、スタジオ地図のつくる映像美は誰もが感動できるポイントでしょう。

スタジオ地図の作り出す背景美術は、スタジオジブリやスタジオ4℃、新海誠作品を手がけるコミックスウェーブフィルムとも違い、その細密さの度合いは群を抜いていると言えます。
それは異様とも言える背景描写で、写真や現実よりも緻密であると言って良いレベルです。

       『竜とそばかすの姫』〜背景美術より〜

もともとアニメにおいては背景美術とキャラクターはそれぞれ別に制作されるので、背景から分離したキャラというのはアニメにはつきものの表現です。しかしながら、スタジオ地図、とりわけ今回の『竜とそばかすの姫』の日常シーンに関しては、それがより際立っていました。
このキャラと背景の異様なまでの分離というのは、物語ともつながる重要な演出表現になっていると感じたので、今回はその部分を掘り下げていきます。

「風景」とは何か

哲学者であり、文芸評論家でもある柄谷行人という作家がいます。日本の思想界で80年代に巻き起こったニューアカデミズムというムーブメントを牽引した方です。

柄谷行人は『日本近代文学の起源』という本の中で風景というものについて興味深い書き方をしています。

風景の発見こそ近代文学の内面を作り出した。

『日本近代文学の起源』(1980)より

わかりづらい表現ではありますが、ある種の風景が見出されるためには、心の内面の状態が関係しているという話です。


この話の補助線としてもともと心という概念はなかったという話を挟みます。
むかしは、自分が所属する集団の人間は自分と同じように世界を眼差し自分と同じようにそれらを受容し、自分と同じような感受性で世界を生きているということを疑いませんでした。流動性も低く、同じ毎日を同じ面子と過ごしていた時代です。いつからかそれぞれが違った生活をするようになり、それぞれが別の世界を生きるようになってから、諸個人の中に他者とは違う考えに基づいた「心」というものが生まれていったという話です。
柄谷行人のいう風景の発見というのはこの話と近いと言えます。
仮に周りの人が同じ風景を見て同じ世界を生きていると感じていれば、風景はとりたてて気になるものにはなりません。
友達と楽しく過ごしている時などは、周囲の景色がさして気にならないことと同じです。
逆に風景が気になるとすれば、その景色が他者とは共有しがたいと感じるからとも言えるのです。

風景は孤独で内面的な状態と緊密に結びついている。
周囲の外的なものに無関心であるような内的人間において、はじめて風景は見出される。

風景はむしろ外を見ない人間によって見出されたのである

『日本近代文学の起源』(1980)より

柄谷行人は、こうした考えを国木田独歩の作品から見出します。風景というのは結局自意識の反映だということなのです。

『この世界の片隅に』と風景

このことを端的に示す作品があります。それは奇しくも、『竜とそばかすの姫』の主人公すずと同じ名前の主人公が登場する、『この世界の片隅に』という映画です。

                                    『この世界の片隅に』(2016/日本)

この作品をかつて哲学者の東浩紀は解離をテーマにした作品だと評したことがあります。
解離とは、つらい障害や失敗をなかったことにして隔離してしまうという、心の防衛機制の一つです。
この映画では主人公のすずさんが戦争という現実から解離しているシーンがたびたび描かれます。
『この世界の片隅に』における悲劇的な場面において、すずさんが眼差す現実風景がまるで絵に描いたような華やかなタッチでデザインし直されるというシーンがあります。それこそが解離を端的に示すシーンです。それは現実の風景ではなく、すずさんの頭の中にある景色が現実に投射された風景なのです。

                                    『この世界の片隅に』(2016/日本)

語弊がありますが、現実を都合よく描き換えることで心にバリアを張っている状態と言えます。そこではすずさんが自らの内面を現実に浸透させることで、どうにか生きることができるようになる姿が描かれます。
上記のような世界感で表現される『この世界の片隅に』は、風景の描写とキャクターであるすずさんとの描写の間にほとんど違いがありません。これはすずの生きる現実がすずの内面とつながっていることのメタファーだと考えられます。

絵を描くすずー『この世界の片隅に』より
背景と同化するすずー『この世界の片隅に』より

解離の空間"U"

ここで『竜とそばかすの姫』の話に戻ります。
『竜とそばかすの姫』の主人公すずも解離をしています。ですが、そのあり方は『この世界の片隅に』のすずさんの解離とは違います。『この世界の片隅に』のすずさんは絵を介し現実を描きかえることにより解離をしました。一方で『竜とそばかすの姫』のすずは、現実空間では解離ができていません。迫り来る辛い現実に対して心にバリアを張ることができてない状態です。それを示すように、現実世界ではすずは歌が歌えないというシーンがあります。本来であれば歌を歌うことで現実から解離することが描かれてもよいシーンです。

          『竜とそばかすの姫』(2021/日本)

では『竜とそばかすの姫』のすずにとっての解離とは何か。それこそがUという仮想現実への参入なのです。

          『竜とそばかすの姫』(2021/日本)

そのことを象徴するように、仮想現実Uの中ではキャラクターと背景の描写に差がありません。これはデジタル空間だからという理由以上に、自分が自分らしく居られる空間、解離の空間だからこその表現と言えるでしょう。
Uでは風景は自分の味方であり、自分の物語の一部として存在しているのです。ゆえに風景は他者としては現れてきません。

心の中の物語を外の世界に投射できた時、そこには文字通り内面しかなくなるため、風景はなくなるのです。

背景と馴染めない主人公

それと対比するように『竜とそばかすの姫』の現実世界はキャラと背景の描写が分離しています。それは必要以上の分離と言えます。すずにとって現実の風景は完全に他者であり、異物であることが強調されるのです。

          『竜とそばかすの姫』(2021/日本)


それはすずが孤独であることと無関係ではありません。
ここで日本近代文学の起源からもう一度引用をします。

風景が出現するためには知覚の様態が変わらなければならないのであり、そのためにはある逆転が必要なのだ。
風景は外を見ない人間によって見出されたのである。

『日本近代文学の起源』(1980)より

これは私の個人的な経験からも言えるのですが、
仲のいい友達が目の前にいたり、その種の人間関係に恵まれていると、対人関係の方が頭の中を占める割合が多くなるため、視線が外側に向かいにくいのです。
反対に、その種の人間関係がない場合、事あるごとに背景というものが目立ってきます。そこでは風景は自分とは関係のない、まさにモノとして迫ってくる感覚があります。

          『竜とそばかすの姫』(2021/日本)


風景との和解

『竜とそばかすの姫』において示唆的なのが、日常シーンの背景美術はグロテスクなまでにリアルなのですが、映画序盤で描かれるすずとお母さんとの悲しい別れのシーンでは、雨の降る背景描写がまるですずの内面を象徴するかのように描かれることです。そこでは背景はすずの内面に寄り添っています。ゆえにそのシーンにおいては人物キャラと背景との分離はありません。

          『竜とそばかすの姫』(2021/日本)

これはまさに残酷な現実の物語を、確かにすずが生きているからこその演出です。

心象風景としての背景美術というのはよくありますが、背景とキャラの分離をここまで強調し、なおかつそれを背景とキャラが馴染むシーンと対比的に使うというのは大変稀な演出だと言えます。


加えて趣向がこらされていると感じるのが、劇中でもうワンシーン、現実においてすずが風景と馴染むシーンがあることです。
それは映画終盤の家庭内暴力を受けていた兄弟との出会いのシーンです。

このシーンも風景がキャラと馴染み、良い意味で目立たなくなっています。すずの目には目の前の兄弟が写り、他者を、外の世界を、心の内側に受け入れているかのように描かれます。

『竜とそばかすの姫』(2021/日本)
 『竜とそばかすの姫』(2021/日本)


序盤のお母さんを失うシーンと、終盤の兄弟との出会いのシーンは対比的に描かれ
ていますが、その意味合いは180度違います。序盤のシーンは内から外へすずの悲しみが滲み出しているがゆえの背景との一体感であり、終盤は逆に、外から内へ、他者がすずの心に受け入れられたがゆえの背景との一体感なのです。

この終盤のシーンの背景美術はハーフトーンを基調としたグレーの描写となっており、そこには情緒や色気はありません。ですが欺瞞的な美しい風景ではないからこそ、現実を受け入れたすずの内面的な強さが象徴されているとも言えるのです。

 『竜とそばかすの姫』(2021/日本)


現実から遊離する細田作品の主人公たち


様々な話をしてきましたが、細田守監督の手がけた作品においては、『おジャ魔女どれみドッカーン40話』、主人公のどれみだけが魔女の真実と向かい合うことで周りの世界から遊離するという話や、「デジモンアドベンチャー21話』、主人公太一がパートナーデジモンと2人だけ現実世界に戻ってしまう話。
そして『バケモノの子』の序盤、主人公の九太が孤独に都会を徘徊するシーンなど、背景と馴染めない主人公というのが共通してあるテーマだと言えます。

『おジャ魔女どれみドッカーン』#40どれみと魔女をやめた魔女(2002/日本)
『デジモンアドベンチャー』#21コロモン東京大激突!(1999/日本)
            『バケモノの子』(2015/日本)


細田守作品には「なぜ自分はここにいて、あそこではないのか」という感覚が通奏低音にあり、それゆえにキャラが背景から浮いている表現が多いのです。
背景とキャラが分離してしまうというアニメーションの特性を、演出方法として昇華した監督はそう多くはないでしょう。
この度の『竜とそばかすの姫』はそうした構造に焦点を絞ると、細田守監督の到達点とも言える内容だったと言えます。

まとめ

現実を受け入れようとも、拒絶しようともしない、奇妙なバランス感覚で作られることが多い細田守作品。そのバランスが一度崩れると『ワンピース映画版オマツリ男爵と秘密の島』のような作品になり、逆にエンタメに振り切れれば『サマーウォーズ』のような作品になる。いずれにせよ、その収まりの悪さにこそ彼の映画の魅力があると言えるのではないでしょうか。

次回作がどのような作品になるのか。細田守監督の今後に期待したいと思います。

フクロウラジオ第44回目、今回は『竜とそばかすの姫』について背景描写とキャラの分離といった観点から話していきました。今回は以上となります。

                                        語り手・大熊弘樹


■参照コンテンツ

国木田独歩『忘れえぬ人々』



『どれみと魔女をやめた魔女』

デジモンアドベンチャー21話『コロモン東京大激突』



■出演者:
大熊弘樹



■番組の感想は fukurouradio@gmail.com まで。


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