#39 『ドライブ・マイ・カー』-深層よりも深い表層-
〜音声版はこちら↓〜
大熊 フクロウラジオ第39回目、今回扱うコンテンツは映画ドライブマイカーです。
話していくのは大熊弘樹と米地彩さん。今回はこの2人で話していこうと思います。お願いします。
米地 お願いします。
大熊 今日話していく濱口竜介監督の映画ドライブマイカー、公開してから4、5ヶ月くらい経っているのですが、米地さんはこの作品はいつ頃観ましたか?(※収録時は2022年1月)
米地 10月のいつか、でしたね。
大熊 ぼくも同じくらいの時期ですね。
観てから3ヶ月以上が経過してるので、さっき打ち合わせで話をしていたのは、内容をあまり覚えていないよねっていう(笑)
米地 そう。(笑)忘れちゃってますよね。言われたら思い出すかも、みたいな。
大熊 うん。でも、物語のディテールというか、細かい部分は覚えてないからこそ、本質的な部分に踏み込んでいろいろな感想を話せるのかなと思う。あとは、米地さんだったり、神田さんだったり、このフクロウラジオのメンバーはみんなドライブマイカーについての評価が高かったので、せっかくなので話していければいいなと思って今回収録しています。
大熊 簡単にドライブマイカーについての大枠の説明をして、あとはいつものようにそこから話を展開していけたらと思ってます。
映画ドライブマイカーは村上春樹さんの短編小説集『女のいない男たち』に収録されていた同名の短編作品をもとにして、濱口竜介監督が新たに脚本を書き上げて作った作品となります。
公開日が8月なので、すでに半年が経っているのですが、今調べるとまだいろいろな映画館で上映されてるんですよね。
これから上映するという映画館もあって、とにかくこの半年の間、国内外でものすごく高い評価を得ていて、現在も、ロングラン上映中ということです。カンヌ国際映画祭では脚本賞をはじめその他三冠を獲得して、全米映画批評家協会賞の監督賞や、3月にある米アカデミー賞の長編映画部門の日本代表作品に選ばれ、しかも受賞が期待されていると。日本映画の歴史の中でも転換点とも言えるような凄い作品だということで。
ただ先ほど話していたのは、そこまでよかったっけ、っていうね。(笑)
米地 そう。そこまでいくと、ちょっとあれっていう感じがしますよね。(笑)
大熊 打ち合わせの段階ではそんなことも話していました。でもこうした作品が出てくることは日本映画界にとどまらず、さまざまな表現者に刺激を与える画期的なことなのではないかなとも思います。
米地 純粋によかったなと思える作品ではありましたよね。
大熊 カタルシスとは違う種類の不思議な余韻に浸れる映画だったよね。
米地 そう。観終わった後の解放感がありました。「生きよう」って思えるような。
大熊 まさに作品の最後の場面の台詞も「生きなければいけない」だったね。その「生きなければいけない」というのが、なにか押し付けがましく言われるわけではなくて、それしかないんだなって納得できるような終わり方になっている。そこが起承転結がしっかりとあるような映画とは違うところだなと思って、これは濱口竜介監督独自の演出なんだなって感じました
米地 わかりやすい終わり方じゃなかったよなって思ってるからこそ、ここまで広く評価されていると怖いという感じもあります。
大熊 たしかに。評価されている流れの中には、ある種の感情回復物語としての感動を与えてくれたっていう、簡単な感想に収斂されてるふしもありますね。実はいろんな入射角で語れる映画だとは思うので。
米地 ほんとそう思います。だから喋りにくい映画なんだと思います。
大熊 そうだね。さっきもどうやって語っていこうかと悩んでいたくらいだからね。まあでも少しずつ語っていきましょう。
米地 はい。きっと、そういう映画だったとも思うので。
大熊 では映画の概要を。
この作品は、舞台俳優であり、演出家でもある主人公の家福悠介と妻である家福音が、文化度の高い生活をモデルルームのような家で送っているところから始まっているのですが、ある日家福悠介が妻の浮気現場を目撃してしまう。そして、そこから程なくして、妻から「今日帰ってきたら話をしたいことがある」と告げられるんですね。ところが家に帰ってみると、妻が倒れていて、その話したい話というのを伝えられないまま先立たれてしまう。そこが物語のスタート地点になります。アバンタイトルまでが異様に長いんだよね。
米地 そうです。そこまでもかなりしっかり描かれてます。
大熊 いろいろな事件があったり、刺激があるシーンなどはそのアバンタイトルまでに集約されていて、そこから先は意外と淡々と物語は進んでいきます。
浮気を目撃していたことだったり、その日もっと早く帰っていれば妻を助けることができたんじゃないかという後悔だったりがあり、素直に悲しむことができず、何を失ったのかということが整理できないまま根なし草の幽霊のようになってしまった主人公が、その後物語のキーパーソンとなる、専属ドライバーの渡利みさきや妻の浮気相手であった俳優の高槻らとの交流の中で、何に悲しむべきか、何に怒るべきかという感情の基盤を回復させていくというストーリーになってます。
物語の序盤以降は家福悠介が演出を務める多言語演劇、そして専属ドライバー渡利みさきとの長時間のドライブの中で生まれる会話という、コミュニケーションのズレを生じさせる営みにスポットライトが当てられながら進んでいくので、単純な心の回復の物語になっていないことだったり、直線的な関係性の構築の物語にはなっていないところがミソで、稀有な作品なのかなと思います。
米地さんは村上春樹の原作を読んでいるということだったのだけど、映画とは全然違うってことなんだよね?
米地 そうですね。まあ、全然というほどでもないのですが。『女のいない男たち』の中に収録された短編のいくつかを再構築した感じになってます。
あと読後感は映画の鑑賞後とは違うものがあって、村上春樹の作品を素材として全然別の作品になっているなって感じました。空気感は似ているんですけどね。
大熊 そうなんだね。ちなみに、濱口竜介監督の前作は観ていますか。『寝ても覚めても』。
米地 はい。観ています。どちらかというとあまり得意な監督じゃないかもなと思ってて、村上春樹も得意じゃなかったので。
ただ村上春樹はとりあえず知らないと語れないというところもあったり、そういうものって追いかけてしまうじゃないですか。なのでけっこう作品は読んでいるんです。ただ、村上春樹の何が苦手かっていうと、ある種の気持ち悪さなんですよね。読んだ後の。これ大事だよーっていう大事なものを持ち上げてくるのにも関わらず、それをつつくだけで、その一歩先を言ってくれない。
大熊 そうなんだよね。(笑)
外堀を埋めていくだけで、その中心部分の大切な所には言及することないまま「雰囲気で感じ取ってね」というあの感じ。
米地 そう。天ぷらの衣みたいな。空気揚げちゃうみたいな。(笑)
でも、だからこそ映画との相性は良いと思ってて、村上春樹原作で一本ものすごく好きな作品があって、洋服がテーマの、
大熊 『トニー滝谷』?
米地 『トニー滝谷』!
大熊 素晴らしい映画ですよね。
米地 素晴らしい映画です。やっぱり良い映画になるんじゃないかという期待感は持つんですよね。村上春樹原作だと。それでドライブマイカーも観に行って、とてもよかったんですよね。
大事らしきものの一歩先、それでも生きていくという気持ちにさせてくれるところが大事で。そこのステップまで描かれていたなと。
大熊 たしかに。トニー滝谷というのは少し説明すると、イラストレーターのトニー滝谷という主人公が一目惚れした妻に先立たれた後に、その妻が残していった大量の衣服を、別に雇ったメイドさんに着せていくっていう話で、けっこうドライブマイカーとも似ているところがありますよね。
妻という主体がなくなった状態で、その外側を形作っていた洋服に、妻の妻らしさが宿っていくというような感じで。だから映画では妻の衣服を着せられたメイドさんにもう一度恋をするというところで終わっていくんですね。
ドライブマイカーも妻が残していった声が重要なモチーフで。家福が演劇の台詞を覚えるために妻に台詞を吹き込んでもらった大量のテープを、妻が亡くなった後もずっと聞き続けるんだよね。だから妻という肉体はなくなるけども、声が残される。
人間の人間らしさとか、その人のその人らしさというものを肉体とか表情とか、そういうところには求めない。トニー滝谷であればそれを服に求めたり、ドライブマイカーではそれを声に求めたり。それが面白いところであり共通してるところですよね。
米地 その声っていうのも、舞台の練習のための、台詞の掛け合いのための読み上げとしての声なので、感情がこもってないんですよね。機械的な声で。
劇中劇の中でも感情を入れずに台詞を読み合うというシーンがあって、そもそもそういう演技のさせ方っていうのは濱口監督がとる手法なんだろうなという。
大熊 そうだね。ドライブマイカーの演技指導のもとになっているのは、短編ドキュメンタリーのジャンルノワールの演技指導って作品があって、その中で言われる抑揚のない演技指導ですね。
米地 西島さんもインタビューで言ってましたね。ルノワール的だって。
大熊 今話してもらった感情の込められていない声っていうのはかなり重要な要素のうちのひとつで、そう、感情がないからこそ、「響」だけに注目することができるんだよね。声の響き。
妻が残していった音声は演劇の台詞を覚えるための音声なので、旦那である家福に話しかけているわけでもなければ感情をこめている声でもない。でもだからこそ、響きだけにフォーカスして聞くことができる。声が持っている物質性、音が持っている肉感、そういうものがあらわになっていて、そこに何かを感じているんだよね。家福は。
米地 響きか。いま物質性っておっしゃいましたよね。
大熊 そうだね。音や言葉が持っている、意味や感情から離れた、脱色された言葉のもつ力。そこにフォーカスしているのがすごい。でもなんでそこにフォーカスしているかというと、わかりきらないところもある。でも明らかにそこに力点の置かれた演出だったし、劇中劇の台詞だけじゃなく、日常シーンで交わされる台詞も嘘っぽい台詞が多い。
こんなこと普通は言わないだろうっていう。そういうものの積み重ねでできていくので、普通であれば鼻につくんだけど、そうはならない。それは今話したような音が持っている力というか、言葉そのものが持っている力にぼくたちのなかで何かしら響くところがあるからだと思う。
米地 コミュニケーションという言葉があるけども、会話しててもコミュニケーションとれていないことってあるじゃないですか。
基本はみんなお互いがお互いをわかり合いたいんですよね。ひとりだと寂しいから。その分かり合うための道具がたくさんあって、一番わかりやすいのが言語だと。でも言語ってただわかりあうための手段じゃないんだなっていうのはすごく思ってて、それは自分で考えるためのものだったり。単なるコミュニケーションツールじゃないんです。言語って。
大熊 たしかに。
米地 物質なので、言葉も。それをぶつけ合っているのであって、そんなに滑らかなものじゃないんだよなっていうのをすごく感じることができるので、映画内の嘘っぽい台詞も嘘っぽくない。その向こうにある、ぶつけようとしてる何かを感じることができるなと。
日本語、英語、韓国語、手話、そういういろんなもので思いを伝えようとしている。いろんな言語というか、言語の物質性という球が飛び交う空間において、自分の人生がどんどん前に進んでいくことの強制力があって。生きていくって辛くて激しくて大変で、でもそれでも生きていくんだよなっていう、わからないものもわからないままに、受け入れられないものも受け入れられないままに、どんどん前に進まなければいけないんだなって。
でも、そんな中でもわかり合える奇跡のような瞬間がある。それは映画内での芝居で「今何かが起きました」っていうシーンがあって。あれは形としては全部芝居だから、すべて嘘のやりとりなんだけど、きっとその中でも通じ合えた瞬間が描かれていた。
大熊 なるほど。だからこの映画はこれだけ長いのかもしれない。
米地 うん。ほんとに。
大熊 やっぱり3時間で普通じゃないもんね。
米地 普通じゃないですね。でももう一回観たいなって思えるし、無駄じゃなかったなって、ダレとかじゃなかったなって。
大熊 そうだね。2人の間で愛が確認されましたとか、何かしらの合意形成がされましたっていう、分かり合いに収めていくようなハッピーな話にするのであれば、たぶん1時間30分とか、2時間の中に収まるんだろうけど、わかり合うとか、感情的につながるとか、そういうモメント抜きにして絆の形成を描こうとしてるから、めちゃくちゃ回りくどくて迂回して、結局3時間くらいかかるという。
でもだからこそ普段感じることのできない質のカタルシスが得られるってことなんだけど。
米地 やっぱり、わからないこととか、秘密めいたものって誰においても誰に対してもあるし、でもそれがいたって普通で。全部わかろうとするなんて無理だと。だからこの映画を観てわかろうとすることの傲慢さを感じたんです。ただ、いろんな人の感想を観てて、真実と向き合わなければいけないっていうメッセージを感じましたというような、
大熊 あるね、多いね。
米地 ちがうでしょう。と思って。真実なんかないし。別にわかろうとしなくて良いんじゃないかと。だからこその観終わった後の開放感に繋がる。窮屈だなって思っていることとか息苦しいと思っていることを和らげるというか、解放してくれる。だからそれでも生きていくっていう所に繋がったんじゃないかと。
大熊 そうだね。ぼくも米地さんと同じ感想を持った。あれは家福が長い時間を経て、渡利みさきや高槻との交流を通じて、妻が言おうとして言えなかったその内容に向き合うことができたとか、妻への罪の意識に対して正面きって向かい合うことができたからよかったとか、そういうことではまったくないと思っていて。
どちらかと言えば妻が話したかった本当の気持ちには最初から最後まで向き合おうとはしていなかったと思う。
じゃあ家福には何があったのかというと、向き合った「かのうように」振る舞うことによって自分の感情の落とし所を作りたかった。ただそれだけだったと思う。そしてそれでいいんだよっていうメッセージになっていて。
真実と向かい合えたかどうかは、もちろん妻がすでにいなくなっている状態ではわからないし、妻が生きていたとしてもわからないんだよ。人が本当に向かい合えているかどうかとか。理解しあえているかどうかとか。
最後のクライマックスシーンでは、主人公の家福と、専属ドライバーの渡利みさきは、2人でお互いの抱えてる罪の意識について告白し合うシーンがあるんだよね。感動的なシーンだと思うけど、でもやっぱりそこでも家福のほうは自分が楽になるためにそれを告白しているというような、胡散臭い印象を持たざるを得ない。台詞調ということもあるし。あれは、教会での懺悔に近いんだよね。
米地 なるほど。
大熊 自分の罪の意識を話したという事実。もちろんその話す相手が大事で。その相手を長い時間かけて見つけることができたというのがポジティブなポイントなのかもしれないけど。ただ、話して理解してもらえたとか。話したことによって妻の考えに辿り着けたとかってことではなくて、ただ話すことができたっていう事実だけが大切であるという。
少しひねくれた見方かもしれないけど。
とにかく嘘っぽいんだよね。すべてが嘘っぽい。でもそこが重要なんだ。
米地 たしかに。
大熊 少しぐちゃぐちゃっとしてしまったから簡単にまとめるとすると、
よく言葉よりも大切なものがあるとか、言葉以前の内面的な何かに触れることによって人は繋がれるとか、そういうことを描く映画はたくさんあるけど、それ自体が少し欺瞞的だなって思うことも多い。
非言語的な繋がりを演出するために非言語的な演技をする。そのことによって関係の構築を描くということが、見てて物足りないと思うことが多々あって。
ただこのドライブマイカーも、さっき米地さんが言ったように言葉の奥にあるものによって関係や信頼が作られている。それは間違いない。
上っ面の台詞の応酬だけで関係構築がなされているということはないんだよね。
そうなんだけど、この映画ではあえて嘘っぽい台詞の応酬を観客に見せつけることによって、それでもなお関係や信頼が作られているという流れの中で、逆説的に非言語的な情報を炙り出していくんだよね。
米地 良いですね。その説明は本当にそうだと思います。
大熊 それが、あまりない演出だよね。
台詞だけ着目すれば、最初から最後まで全部嘘っぽい会話の応酬なので。でも嘘っぽい台詞だけで作られているからこそ、言葉の奥底を観客側が、ある種脳内補完的に想像することができる。登場人物たちもそのようにして互いにつながっていってるんだよね。
米地 それは私も同じことを思ってました。たぶん、同じことを言いたかったんだと思います。一緒に考えてて、手探りで探してた言葉が飛んでいってしまったんですけど。(笑)
大熊 ごめんなさい。(笑)
米地 いや、違うんです、同じことを言ってくれたので。
私がよく引用する多和田葉子さんという方の本に書いてある好きな文があって、多和田葉子さんもドイツ語と日本語の両方を使える方なので、ドイツ語でも本を書いていたり。やはり多言語ということをテーマとして扱っているんですね。
一冊ものすごい好きな本があって、それは『エクソフォニー母語の外に出る旅』という本で。
母語の外に出るということの意義を私はものすごく感じるんですね。その本では人はコミュニケーションできるようになると、コミュニケーションばかりしてしまうと。言葉の使い方として。それはそれでとても良いことだけど、言語にはもっと不思議な力があると。多和田さんは意味から解放された言語を求めていると言っていて。ただ意味から解放された言語ってそれは言語なのかっていう話ですよね。でもすごく良くわかるんですよ。それを思い出して。その言語の不思議な力というのをこの映画を観ることで感じることができるんですよね。
それがなんでかって言ったら、それは先ほど大熊さんがおっしゃったようにやや嘘っぽい、技巧的で、戯曲っぽい感じの台詞の応酬だからかと。
手話が最後の重要なシーンで出てきますよね。それも相手の身体を使ってというか、相手の身体の目の前で手を動かして、同じ方向を向いて手話をするんですよね。二人羽織みたいに。
あれすごいなと思って。ああして言語を受け取ることって手話にしかできないじゃないですか。
大熊 確かにそうだと思います。ドライブもそうなんだけど、コミュニケーションってふつうはダイアローグだよね。向かい合ってするもの。
今回なんでドライブに注目してるのかといったら、車の中での会話って向かい合わないからだと思う。同じ方向は向いているけど、けっして向かい合わない。あれって意外と特殊な空間で、あまりない。運転手は道路に注意を向けなければいけないし、助手席にいる人もそれをわかっているから基本的に運転手を見るってことはないだろうし。視線が交わらないコミュニケーションの特殊さってものがある。視線が交わらないからこそ、視線が交わるコミュニケーションでは得られないものが得られるとかね。それは手話とかもそうで、この映画では普通のダイアローグとは違った種類のコミュニケーションがたくさん出てくる。それはもちろん濱口監督が意図してることだとは思うんだけど。
大熊 モノローグでもない、ダイアローグでもない、その中間にあるものを描こうとしている。それはバフチンがポリフォニーと表現したものかもしれないし、スムーズにコミュニケーションがいかないぶん、言葉とか声が持っている力そのものに注目することができるという意味では、そうした物質性とでもいうべきものをデリダはエクリチュールと呼んだ。
濱口監督がどこまで意識しているかはわからないけど、ものすごく趣向が凝らされている相当複雑な演出だとは思うんですね。
米地 そうですね。言語外から滲み出てくる情報ってものすごい多いじゃないですか。表情とか。相手にわかってほしくて相手の表情を伺いながら話すと、自分の言葉も相手に寄っていくんですよね。思考も。
大熊 確かに。
米地 だからこそお互いの視線が交わらない会話、車の中での会話とかは、良いんでしょうね、
大熊 うん。だからぼくもけっこうドライブ好きです。
米地 私も好きだなって思って。車の中の会話は本当によくて。喋らなくても良いわけで。ドライブできる人って大事じゃないですか。ドライブの間が持たない人っているし。それはやっぱり苦しいですよね。
これも私がよく言ってしまうことなんですけど、ほんと仕事してるとツルツルした言葉ばかりで気持ち悪いんですよね。わかってもらわなければいけないから。明確にAを Aと伝えるコミュニケーション。そういうのはつまんないんですよね。仕事をする上では大切なんですけど。そういう言葉の使い方をしたくない。
確かに人と向かい合っているときと、向かい合わないときと、言葉の使い方は違うなと思いました。
大熊 違うよね。それに映画内でも視線はあまり交わってない気がする。
視線が交わったと思ったら、「え、この人ってこんな顔しているんだっけ」というホラーテイストの表情で描かれていたりとか。終盤、高槻と家福が車の中で、亡くなった奥さんについて話をしていく中で、相手の表情を見てみたら自分が想像しているのとはまったく違うような顔になっている。それが観る人に直感できるようになっているシーンがあって。あそこも単なる表情には収まらない情報が爆発している場面ともいえる。
そういうことでいうと、ドライバーの渡利みさきと主人公の家福が、お互いにお互いの罪の意識を告白するっていう終盤のシーンでも、抱擁までするんだけど、視線はあまり合ってない気がする。
もっと言ってしまえば家福悠介は渡利みさきのことを自分の亡くなった娘と重ねて見ているから、そこにいる渡利みさきを見ていないんだよね。自分の罪の意識を告白する対象として、亡くなった娘というのが相応しいと。その娘と重ね合わせることで、自分の罪の意識をしかるべき相手に話せたっていう。そういう解決と言える。とにかく徹頭徹尾、線と線が交わらないんだよな。この物語の中では。
でもこれは村上春樹が、河合隼雄さんとの対談の中で言っていることだけど、『村上春樹河合隼雄に会いにいく』だったかな。新潮文庫で出ている。その中で村上春樹が言っているのは。
「あなたの言っていることはわかった。じゃあ手を繋ごう。」という理解のしあいというのはどこか嘘くさい。そうではなくて、お互いが全く別のルートで内面をどこまでもどこまでも降りていくと、地下水のようなものにぶつかると。そこでつながるはずのない壁が越えられて他人とつながることができると。そのようなものすごい抽象的な言い方で理解のしあいだったり関係性の構築を表現しているんだけど。それを地で表現したのが今回のドライブマイカーなのかなと。
映画では広島から北海道まで家福悠介と渡利みさきはドライブをするよね。ものすごい長い距離を。あれは今の文脈でいうと、お互いが向かい合わずに、それぞれの内面をどこまでも降りていくっていうことのメタファーなんだよね。移動的には水平なんだけど、心理的には垂直的な心の深淵をめぐる旅だと思うので。北海道が「井戸の底」なんだよね。村上春樹風に言うと。心の奥底の地点を目指して広島からどんどんどんどん降りていく。そして、渡利みさきのかつての実家があった北海道の地において、お互いの罪の意識を告白し合うという。……やっぱりすごい映画かもしれないと思いました。(笑)
米地 めちゃくちゃ良くできてるのかもしれないですね。(笑)
米地 相手のことをわかるには結局自分のことを掘り下げるしかないってのはこの映画の台詞でしたっけ。
大熊 あ、わからない。でもテーマそのものだね。
米地 まあ、よく言われることですね。
大熊 そうだね。宮台真司氏の言う実存批評というのがまさにそういうことだよね。監督が何を意図して描いたか、何を意図して表現したかということは一切考えず、映像から得られる情報のみで自分だったらどういう状況でこういう表現をするんだろうっていうことを徹底的に考えて、自分の考えをダイレクトに監督に反映することによって、その映画監督が本人ですら自覚していない無意識の層を炙り出すという。実存批評と宮台真司氏が言うその形式に近いようなことが物語として展開されている。村上春樹さんがやろうとしていることもそういうことなのかもしれない。わからないけど。
あとは音楽も良かったですよね。
米地 良かったですね。
大熊 話が変わるかもしれないけどドライブ中にかける音楽とかもけっこう大事だったりするなって思ったり。個人的にはあんまり感情移入型の音楽はドライブ中はかけないなって。もちろん運転に集中しなきゃってこともあるから。
米地 例えば何をかけるんですか?
大熊 例えばって言われると難しいな。でも、インストゥルメンタルとかが多いかも。まさに今回のドライブマイカーのサントラとかはドライブ中に何回もリピートして聴いてます。
映画にも良い感じで伴奏してくる、いい意味で映画に寄り添いすぎてない音楽だったよね。良い雰囲気をつくってくれる。文体があるっていうか。
小説って文体があるじゃないですか。
米地 ありますね。
大熊 実は内容よりも文体のほうが先に入ってくるんだよね。文体がダメだと内容が入ってこないってことがあるように。
米地 そうなんですよ。文体がまず一番大事なんですよ。それをまず感じにいっているので。内容じゃないんです。おっしゃる通りです。
大熊 だから今回の濱口監督の映画は変な言い方だけど、文体がある映画だなって思って。それには音楽がとても重要な役目を果たしていたような気がする。
米地 確かに。
大熊 意外と話す前は何を話せるかと心配になってたけど、けっこう話してるね。(笑)
米地 うん。(笑)
大熊 話せば話すほどいろんな話題が出てくる。
もう一回見てみたい映画ですよね。
米地 うん。観たい。まだまだやってますもんね。
大熊 うん。ぜひ、この話を聞いて興味を持ってくださった方も一度観てほしいなとも思います。
今回は抽象度の高めの2人が話してきたことで、最初から最後まで何を言っているかわからないという方も多いかもしれませんが、(笑)
米地 どうしよう。(笑)
大熊 ただこの話を聞いてから映画を観てもらえれば、こういうことなのかなって想像はできると思います。そこまで的外れな内容ではないはずです。
米地 フワーっと何かを一緒に考えてもらえたらという感じですね。
大熊 ドライブマイカー、何度も繰り返しますがまだまだロングヒットランで上映中ということなので、ぜひ未見の方はおすすめです。
では長い時間話してきたんですけど、フクロウラジオ、39回目の収録ですね。今日はドライブマイカーについて米地さんと話をしてきました。米地さん、長い時間ありがとうございました。
米地 ありがとうございました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?